異世界初日
全ての準備がととのった日、村川と共に異世界への扉をくぐった。
とても大胆な決断だったと思うものの、何かを思いきるような力みもなく、自然とそうすることが決められたことを覚えている。
彼の説明は一貫して理屈が通っていたと思う反面、実際にその目で見届けるまでは「扉」の存在については半信半疑だった。
自分のどこかへ逃避したい気持ちが希望的観測のように、願望を投影したものである可能性も脳裏によぎった。
緊張と不安を感じつつ、扉の向こう側へ足を踏み入れた瞬間、全身が波打つような奇妙な揺れを感じた。
前後左右、上と下の感覚が曖昧になり、このまま宇宙の果てまで飛ばされそうで生きた心地がしなかった。
途方もなく長く感じられる時間の後、前方には部屋にいた時と異なる景色が広がっていた。
「移動は無事成功だ」
「……ここは?」
村川はいつもと変わらぬ平然とした様子だった。
彼は慣れているので落ち着いているが、俺は十分に状況が飲みこめておらず、不安と期待が入り混じった気持ちになっていた。
まるで夢の中にいるような心地で、両足を踏みしめて地面の感覚を確かめる。
視線を上に向けると頭上には眩しいほどに澄み渡る青空が広がっていた。
ここから見える景色には人工物が皆無で、自然が豊かであることを感じさせる光景だった。
俺が立っているのは、周囲に草木の生えた小高い丘の上のようだ。
遠くの方に緑の生い茂る山がそびえ、その手前には城壁に囲まれた街がある。
よく観察してみると、街の中には小さめの城が建っていた。
今さら村川を疑うはずもないが、あの風景がヨーロッパの田舎町だと言われても違和感はない。西洋風の歴史ある街並みという感想を抱いた。
旅行のガイドブックに出てきそうで、質素ながらも見栄えがするような見た目だ。
「あの城壁の内側がウィリデ王国だ。あの城に王様がいて、城主であり国王にあたる。その王様と交渉が上手くいっているから、この国で現地人に襲われる可能性は低い。それに穏やかな人が多い印象だから、すごしやすいはずだ」
彼は淡々と話しているが、聞いているうちにそれはすごいことだと理解できた。
それに治安がよいことは何よりだ。
「活動はそこまで進んでいるのか」
「初めてこの地についてから、それなりに時間がかかったからな」
ここまでの苦労もあったはずだが、それを感じさせない物言いだった。
村川はバックパックの中から、ラベルのないスプレー缶を取り出した。
何をするつもりか分からず、そのまま彼の様子を観察する。
「転移装置を現地人に見られないようにしておく」
彼は正面を向いたまま説明すると、スプレーの中身を吹きつけ始めた。
少し経つと、草むらにあった転移装置の枠が周囲と同化したように見えなくなった。
俺には分からない何か特殊な技術が使われているのだろう。
「すごいものを持ってるじゃないか」
「特殊なルートで手に入れたんだ。手痛い出費だったが、転移装置の保護を考えたらケチるわけにはいかなかったんだ」
村川はスプレーをしまって、正面を指さした。
その先には城壁に囲まれた街並みが見える。
「それじゃあ、ウィリデに行ってみるか。講師を務めた研究仲間から現地語の習得は問題ないと聞いている。せっかくだから、機会があれば話してみるといい」
彼の様子は先輩留学生のように見えた。
英語で外国人と話すのに抵抗ないが、未知の世界の言語で話すのは勇気がいる。
それにどんな言語であっても、実践とレッスンは別物なのだ。
「まあ、そうだな、通じればいいけど」
俺は曖昧に返事をした。
行く前は楽しみで仕方がなかったはずなのに、いざ現地に来てみると想像以上に緊張している自分がいた。
「心配しなくても盗賊に襲われたりすることはない。今までスリや強盗も見かけたことがなかった」
「……そうか。とりあえず、行ってみるか」
俺はドキドキした気持ちのまま、ウィリデの街に向かって歩き始めた。
二人で草原を通り抜けて、城壁の方向に伸びる街道を進んでいく。
すれ違う通行人は少ないが、服装も見た目もずいぶん異なるので、こちらを気にするような視線を向けていた。
幸いなのは村川から説明があった通り、危なそうな雰囲気がなかったことだ。
日本とは世界は違えど、のどかな土地に来たような空気を感じる。
丘の上を出発してしばらく歩くと、城壁の前までたどり着いた。
前方には門番のように衛兵が待ち構えているので、再び緊張が高まってきた。
「心配いらない。不審者が出入りしないように監視しているだけだ」
「……そ、そうか」
村川がこちらを落ち着かせるように言った後、ポケットから何かを取り出した。
「それは?」
「この国の客人である証明みたいなものだ」
彼はそれを手にしたまま、先へ進んだ。
俺もおいていかれないようについていく。
「おやっ、客人の方ですね。お連れの方もウィリデにようこそ」
「どうも、こんにちは」
村川が自然な様子でやりとりをした。
衛兵は明らかに歓迎している雰囲気だった。
そして、現地語が理解できたことにちょっとした感動を覚えた。
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