243カオス いま小説を書くということ

 いま時代小説を書いてます。3000文字程度書きましたが、まだ半分書けていないような気がします(プロットが決まってません。書き進めるうちに決まって来るでしょう)。3000文字くらいの掌編にするよていだったのに、時間がかかっています。待っている人がいたらすみません。


 さて、なかなか書き進められないでいるのですが、小説を書いている間はとても楽しいです。楽しくないのは、なかなかプロットが定まらなくて考える時間が長いからです。なんなら、エッセイを書いているいまも、「すっきりと腑に落ちるプロットが降りてこないかな」と思いながら文章を打っています。


 最近、夏緒さんが書きはじめた「添削エッセイ」を読ませていただいているのですが、そこのコメント欄に「最近は一人称で書いている」というようなことを書かせていただいたときに、夏緒さんから「なんで?」と質問されました。ちょっと長くなりそうなので、こっちに書くことにします。


 小説って、以前ほど読まれなくなっていると思うんです。世の中にスマホが登場する前って意味です。以前は、通勤電車の中で、新聞や本を読んでいる人がたくさんいました。あと人と待ち合わせている時間とかに本を広げている人も多かった。IT革命とスマートフォンの登場は、こういう人の行動様式をがらっと変えてしまいました。


 電車のなかで小説を読むのは、手持無沙汰なスキマ時間だからです。ひまつぶしに読んでいたのです。人との待ち合わせ時間もそうです。多くの人は、ひまつぶしに本を広げたり、近くの本屋さんに立ち寄ったりしていたのです。


 いま人に与えられたスキマ時間は、スマホが埋めています。その場で、すぐに、じぶんの見たい情報を見ることができるのが、スマホの利点。読んでみないと面白いのか、つまらないのかわからない小説を読むよりは、ずっとインセンティブが働くわけで、小説はとても不利ですね。


 そんな今の時代、小説を読む人っていうのは、ひまつぶしに読んでいるのではないですね。小説を読むのが好きだから、小説を読んでいるにちがいありません。小説好きな人の読む小説ってなんぞやと考えると、書き手としてどういう小説を書けばいいのかっていうのが見えてくるような気がします。


 答えは、小説らしい小説を書けばいいって、わたしは思うんです。じっさいわたしも小説らしい小説を読みたいですし。じゃあ、小説らしい小説って?

 

 むかしは映像化不可能といわれてきた小説もどんどん映像化される時代。衝撃的だったのが93年に公開された映画『ジュラシック・パーク』です。CGで描かれた恐竜に世界中が度肝を抜かれました。2001年の『ロード・オブ・ザ・リング』にもたまげました。CGは映像表現を劇的に変えましたね。人が脳内に想像できる映像は、現実に見ることができるようになったのです。


 小説は、人の脳内にドラマを展開させる創作物なのですが、技術革新は小説でしか描けなかった仮想現実を映画やドラマの中に再現できるようになってきました。漫画やアニメ、ドラマなどでは表現できない、小説でしか表現することのできないモノ、小説はどんどんそういう方向へ向かって変化していかなければ、その存在意義が失われる時代になったのです。小説らしい小説とは何か、そのひとつはWeb小説だと思う。


 とても乱暴にいいますが、Web小説ってくだらないものが多いじゃないですか。素人がなんの校正も受けずに書いているのだから当然です。そのまま出版して商業ベースにのるかというと、ぜったいに無理。ただ、くだらないから面白くないのかというと、おもしろいですよね。わたし、めちゃ読みますよ、みなさんの小説。


 出版するにはリスクが高すぎるけれど、じっさいは読んでおもしろいというWeb小説っていうのが、これからの小説のあり方のひとつ。こういってはなんですが、出版される小説というのは、おおぜいの人の手を経るうちにリアルじゃなくなってくるというか、つくりものめいて嘘くさくなるという宿命があると思うんです。その点、作者と読者がダイレクトに結びつくWeb小説には、文章に稚拙な部分はあっても真実、作者の思いっていうのがのっかっている。それが面白い。TwitterなどのSNSもこれと同じで、これは間違いなくそうだと思う。


 もうひとつは、小説ならではの表現を駆使した小説が、小説として生き残っていくと思います。


 歌野昌午さんに『葉桜の季節に君を想うということ』というミステリ小説があります。わたし、予備知識なく読んで、びっくりした記憶があるのですが、これは小説ならではのトリックを用いたミステリで、絶対に映画化できません。おまけにおもしろい、二度読み間違いなしの傑作ミステリです。


『葉桜の季節に君を想うということ』は、少し飛び道具的な小説ですが、本質的にはこの方向で描かれる小説が増えるはずで、小説ならではの表現、小説でしか表現できないというのが、これからの小説には求められていると思います。


 で、一人称の話に戻るのですが、一人称小説の醍醐味は主人公の心情描写にあります。人の内面を描写しないんだったら、三人称を使えばいいんですからね。


 心情描写って、映画やアニメが苦手とする分野でしょ。視聴者の視点(第三者の視点)に立った映像づくりが中心となるのは避けられない(そうでないとつまらない)ので、三人称的小説のような作品づくりになるわけです。


 映画やアニメでは描くことのできない、小説ならではの表現を目指そうとすると、まず一人称小説で人物の心情描写を書いてみようとなるはずなんです。わたしが一人称で書く練習をしてるのは、これが理由。わたしは一人称を入り口に、小説でしか表現できないエンターテイメントを書いてみたい。


 いま小説を書く、それを読んでもらうと考えたときに、なんで小説なの? アニメでもなく、ゲームでもなく、漫画でもなく……小説でなければならない理由って。それを考えないと、じぶんが納得できるような小説を書けないような気がするんですよね。



 お、エッセイ一本に丸一日かけてしまった。小説が進まない……。

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