第39話 浜本 愼。

 老人を乗せた車椅子を、奈美の隣に寄せた女性は、老人に、一枚のボロボロの写真を見せた。

 

 愼と赤野は、女性の行動に表情を曇らせた。

 

「黒川さん、ここで見せなくても。」

 

「だって、赤野さん、こういう時、これ見せると落ち着くんですもの。赤野さんだってこの手、使ってるじゃない。もう何度も撫でたから、擦れてボロボロだけなんだけど、これが一番の効くのよ。」

 

 老人が手にした、その写真は、所々がひび割れ、色が薄くなっている部分もあったが、幼い子どもと、その子の両親と思われる男女が桜の木の下で写っているのが、かろうじて判別出来たものだった。

 

 

 子どものように泣きじゃくっていた老人は、ヒック、ヒックと、大泣きのあとの名残りを鳴らせながらも、女性が言った通り、早々に泣き止んだ。

 

 そして、優しく細めた眼差しで、涙で濡れた手を写真になぞらせた。

 

 隣から、その写真を見ていた奈美の表情が変わった。

 

「この写真、ママだわ。そうよ、ママよ。それに、この子、私よ。赤い指のリカちゃん人形抱いてる。と言うことは、後ろの男性は…もしかして、あなたなの?」

 

 奈美は、写真を指さし、老人に向かって、そう言った。

 

 そして、華からもらったリカちゃん人形をみせた。

 

「ほら、この人形、これよ。指、赤いでしょ。」

 

 波乱な人生とともに、時代を深く刻み込んだ、老人の暖かい手は、その人形の髪を愛おしく撫でた。それから、ゆっくりと、奈美の目をじっと見つめ、持っていた写真を奈美に手渡した。

 

 その様子を見ていた黒川が驚いた。

 

「うそっ、写真を人に手渡すなんてあり得ない。手に取ったら、絶対に離さないのに。いつも、この人が眠ったのを見計らって、そっと返してもらってるのよ。なんでよ。」

 

「マスターも赤野さんもハッキリ言わないけど、この写真持ってるって事は、このおじいさん、やっぱり、久住先生なのよね。ねぇ、そうなんでしょ?だから、奈美さん、いえ、花香さんに渡したのよ。」

 

 博美は、愼たちに食いかかった。

 

 愼が、何か言いかけた時、黒川が反論した。

 

「何言ってるのよ、この先生、楠さんよ。楠健次郎さん。先生って言うと、反応がいいから、みんなそう呼んでるけど。久住って人じゃないわよ。」

 

 奈美と博美は、黒川の言葉に、驚きを隠せなかった。

 

「え、だって、この人…。えっ、先生、久住先生なんじゃないの?」

 

 奈美らは、頭の中の整理が出来ず、老人を目の前にして、言葉を無くしていた。

 

 そこへ、華と娘の結衣が、パタパタと音を立てて現れた。

 

「奈美さん、このおじいさん、何なのよ。いきなり叫んで、行っちゃうんだもの。びっくりしたわよ。ってここ、なんか変な空気ね。何かあった?」

 

 

「あ、ごめんなさい。ちょうど良かったわ。ねぇ、華さん、この人、華さんたちが話してたことで何か思い出したみたいで。何を話ししてたの?」

 

「何って、娘に、奈美さんにリカちゃん人形渡せたの?って聞かれて、渡したわよって。奈美さんだけど、花香ちゃんにね。って、それだけよ。そしたら、急にこのおじいさんが、私らに向かって、何か叫んだのよ。」

 

 奈美は、背を丸くし、写真に向かってボソボソとつぶやいている老人を見つめて、言った。

 

 

「そうだったの。やっぱり、この人、楠健次郎じゃないわ。久住宗一郎なんでしょ。どういうことか、マスター、説明してほしいわ。」

 

 華たちも、この状況をのみこめないまま、愼の言葉を待った。

 

 張り詰めた沈黙が、場を包んだ。

 

 そして、愼は重い口を開いた。

 

 

 

「…。そうだ、久住先生だよ。そして、今の名前は楠健次郎だ。本人もそう思っている。」

 

 

 

「これが、隠したかった理由よ!」

 

 

 愼の言葉にかぶせるように、黙っていた赤野の声が飛んだ。

 

「ごめんなさい。やっと、話が出来るわね。あのとき、久住先生は生きてたのよ。でも、罪を問われるわけにはいかない。やってないのに、そうでしょ。同時期に、楠健次郎がもう命が短いことが分かった。その事を利用しない手は無かった。そう、楠健次郎が亡くなった時に、久住先生を死んだ事にしたの。そうすれば、楠健次郎として、傍に置いておけるわ。その間に、本当に久住先生を取り戻すことが出来ると思ったの。」

 

「そんな、それって…おかしくないですか?お得意の催眠術でもなんでも、楠健次郎に、自分がやりましたって、白状させれば良かったじゃない。」

 

 赤野の開き直りともとれる話し方に、博美も同調してしまった。

 

「それも、もちろん考えたわよ。でも、健次郎が罪を認めたとしても、久住先生がそれを許さなかったと思うわ。弟は何もしていないって。実は、母親の久美子さんが亡くなる前に、久住先生は久美子さんに会ってるの。その時に、健次郎をよろしくって、兄である久住先生に託したのね。久住先生は泣き崩れたそうよ。久美子さんが亡くなってから、健次郎は、益々、一方的に久住家に敵対心を燃やしていって。それでも、久住先生は、健次郎から、どんなに矢に打たれても、それを受け入れたわ。先生の強い思いからなのか、健次郎にかけられた、いかがわしい催眠術のせいなのか。久住先生の意思は変わらなかったのよ。」

 

「でも死んだことにしたとしても、久住先生がやった罪として世間には残る事になるわ。あなたたちにとっても、不本意なんじゃないの?」

 

 

「そうね、それでも、先生が認めてる以上、やってもいない罪でも、刑に服すことになるのよ。そんなの私には耐えられなかった。それに、刑務所なんかに入ってしまったら、本当の先生を取り戻すことが出来ない。どっちにしても、先生が罪人になるのなら、傍にいて欲しかった。仕方がなかったのよ。だから、死んだことにして、楠健次郎として生きてもらうことにしたの。」

 

「そんなの、あなたたちの都合じゃない?先生が望んだことでないでしょ。久住先生を健次郎にしたことで、返って、自分が健次郎だと思ってしまってるんじゃないの?本当の先生とは離れていってしまってる気がする。」

 

「そうね、博美さんの言う通りかもね。私たちは、大きな罪を犯してしまってるわね。これ以上何をやっても、先生が健次郎から受けた催眠が解けない今、後悔してる思いもあるわ。たとえ、催眠が解けたたとしても、先生を別人にしてしまった。先生に対して本当に申し訳ないと思ってる。こんなこと間違ってたのよ。どうかしてたと思う。でも、愼さんは、私とは違うみたいだけど。」

 

「何言ってるんだ。赤野さんだって、同意したんだろ。久住先生のこと思えばのこと。私がやった事は、間違ってないよ。」

 

「そりゃ、初めは先生のために、と思ってたわ。でも、先生は健次郎を受け入れたのよ。それを望んだんだって。でも、愼さんは、自分の研究のためでしょ。野心の塊なのよ、あなたは。喫茶店のマスターなんて嘘。見せかけだけよ。息子さんが経営者だったし。本当はね、美香先生も、久住先生も、あなたにコントロールされてたようなもだわ。」

 

「えっ、そうすると、マスターが黒幕?」

 

「博美さん、それはないよ。人を極悪人みたいに。」

 

 赤野は、たがが外れたように、あふれ出す話を止めなかった。

 

「奈美さん、博美さん、まだ、あるわよ。私、知ってたのよ、美香先生に催眠かけてたの。美香先生は、自分がすべての研究をしていたと思っていたの。でも、そのすべては、愼さんの手の中で踊らされていたようなものだったのよ。利用されてただけ。解離性同一性障害の研究で、記憶をコントロールする技術を、愼さんは、倫理観なんて無視して、本気で世界に向けて発信する事を目標にしていたし、久住先生が健次郎を自分の中に住まわせる現象も解明しようとしていたの。だから、自分の手元に置いて、久住先生が、かけられた悪質な催眠を解く事が、自分の研究を強化すること繋がると考えてね。健次郎を探し出したときには、糖尿からくる腎不全が進行していて、すでに透析が必要な状態で、身寄りも無かったから、小さな心療内科の病院を経営していた愼さんが預かって治療してたの。」

 

 

「ほら、命を救ってる。私は悪人ではないよ。美香は、確かに頭が良かったけど、本来の美香を封じ込めが上手くいかなかった時、どう行動に変化をもたらすか、私の計画も崩れる可能性もある。だから、賢に監視してもらったんだよ。何事も人類を救う研究の一環だ。」

 

 博美は、あの時のマスターの、あの怪しげな笑みを思い出していた。

 

 やっぱり…あの違和感は…気のせいじゃなかった…。

 

「だったら、健次郎に、ほら、催眠かけて聞いたら良かったじゃない。」

 

 赤野が続けた。

 

「それね、やってみたけど、結局ダメだったのよ。白状しなかったと言うより、分からなかったのね。かけた催眠を解く方法までは取得してなかったみたい。」

 

「そういうこと。だからだよ、久住先生の名前を変えてまで、私は、この研究にかけたんだ。自分にしか、この長年かかっている催眠は解くことはできないんだから。」

 

「マスター、すごい自信だこと。どんな根拠で、そう言えるのか分からないけど。でも、久住先生の命は救えたのね。やっぱり医者だったんだ。」

 

「だから、久住先生は、大事な人なんだよ。」

 

 赤野は、大きくため息をつき、愼の黒い腹の中を突いた。

 

 

「それは、認めるわ。あの美香の研究所から、自分の病院に搬送して治療したんだけど、先生は、元々、致命的な疾患は無かったのよ。でも、研究所にいた時は、被験を繰り返してたから、体力の消耗が著しくて。そんな状態で肺炎に罹ってたから重症ではあったのね。でも奇跡的に回復したわ。そこで、愼さんの頭の中には、展望が見えたのね。健次郎の命を、計画的に終末期に向けていったのよ。」

 

「もしかして、久住先生と入れ替わるために、故意に、健次郎の命を縮めたってこと?信じられない。」

 

「そうよ、博美さん、健次郎は、重度の腎不全だったから、透析を数日しないだけで死ぬことは分かっていた。私は、こんなことは、間違ってるって言ったのよ。でも、聞き入れてくれるわけもなく、おかしいのよ。愼さんは。」

 

「君からは、先生って一度も言われたこと無いね。まあ、認めてくれなくてもいいけど、私のしていることは、将来的には、多くの人を救うんだ。誰に何と言おうと、研究は進める。」

 

 

 

 急に、奈美が、立ち上がった。

 

 そして、久住の背後に立ち、両肩に手を添えた。

 

「そんな研究なんて必要無いんじゃない?ちょっと、静かにしてみてよ。」

 

 奈美は、人差し指を、口元に立てた。

 

「ほら、先生、催眠が解けたみたい。」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る