solo-play
1
文房具倉庫での仕事が終わった後、近所の古本屋に立ち寄るのが僕のひそかな楽しみだった。
その日、僕が文庫の棚で高木彬光の『刺青殺人事件』を見つけたのと、同じ倉庫で働く宮下たちが店に入って来たのはほぼ同時だった。僕は抜きかけた高木彬光を置き去りにして棚から離れた。退勤後まで同僚と顔を合わせたくはなかった。何かを恐れたわけではない。顔見知りとの接触を避けるようにして立ち回るのは幼いころからの習い性だった。
宮下は二十歳前後のフリーターだった。背が低く、目が小さい。それ以上のことは詳しくは知らない。年齢や下の名前さえ知らないのは、職場でたまに話す程度の付き合いだからだ。彼の他にも立花と相原の姿があった。立花はバスケット選手のような長身の男で、脚立を使わなくても一番上の棚に手が届く。その口調から相原や宮下より年下であることが分かる。相原は、ダークブラウンの髪にゆるいパーマを当てた女だった。この三人は休憩中も何かと一緒になることが多い。年齢は宮下が一番上でその後に相原、立花と続くらしい。
棚の陰に回りこみ、彼らが見向きもしないであろう文芸書ハードカバーのコーナーの前に立つ。文庫と違って個性豊かな背表紙の列に目を走らせていると、日本人作家のコーナーにもかかわらずカズオ・イシグロが並んでいるのを見つけた。
隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である。
僕は母親に毒薬を盛って逮捕された少女の言葉――ウィニコットからの引用らしいが――を思い出した。
見つけられることは危険である。しかし其の逆に、自分が存在していることを確認するためには、誰かに見つけられるしかない。
日に日に衰えていく母親の様子をパソコンの日記に記録していた彼女だが、最後には兄に気取られ警察に通報された。彼女は見つかってしまった。
それは彼女が望んだ結果だったのだろうか。僕はこの言葉を思い出すたび考えてしまう。母親にタリウムを盛ったのは、いわば遭難者が上げるのろしのようなものだったのかもしれないと。
宮下たちは散り散りになって店を散策しているらしい。漫画やDVDのコーナーをうろうろしているのだろう。
「レクター博士が脳みそ食べるのってどれだっけ」
宮下の声が聞こえた。僕は『ハンニバル』だと指摘したいのをぐっとこらえた。
「うわ、このライジングって何?」
「レクター博士誕生の秘密、みたいなのじゃなかったでしたっけ?」
相原が答えた。
「『リング・ゼロ』的な?」
「さあ、見てないですけど……あ、そういえば、この前高垣君が本で読んでた」
不意に名前を呼ばれてドキリとした。確かに最近、ハンニバルシリーズを読んだのは事実だけれど、職場では基本的にブックカバーを使っている。タイトルが見えるはずがないのに。最近、ブックカバーを忘れるようなことがあっただろうかと僕は考えた。
「ふーん、ていうか立花は?」
立花が棚を隔てて答えた。「ジョジョ読んでんすよ」
「ジョジョってお前、1巻から?」
「4部が始まるとこっす」
「持ってなかったっけ」
「邪魔だから売りました」
「うわ、愛がないな」
「だって飽きません?」
「いや、いま読んでんじゃん」
「たまに読みたくなるんすよ。でも、家に置いとくほどじゃないし」
「たしかにジョジョは長いけどさ……」
僕は努めて意識しないようにしながら本の背表紙を追い続けた。文芸書からノンフィクションのコーナーへ。ふと思いたって件の少女が愛読していた『グレアム・ヤング毒殺日記』を探したが、そんなマニアックな本にそうそうお目にかかれるわけもない。結局、『刺青殺人事件』以外にめぼしい本は何も見つからなかった。文庫のコーナーは漫画の話題書のコーナーに隣接しているし、レジは漫画のコーナーから丸見えだ。
「でも、俺そういうのいやだな。飽きたら売っちゃうみたいなの。なんかさあ、うまく言えないけど読むだけ呼んでお役ごめんってうんこみたいじゃん」
宮下の声が聞こえてきた。まだ店を去る気はないらしい。
「そういう人がいるからこそこういう店も成り立つんすよ」
「そうだけどさ。なあ、相原さんはどう思う?」
「漫画読みませんし」
「いや、漫画じゃなくてもいいんだけど。たとえばCDとか」
「CDって買います?」
「買うでしょ」
「ダウンロードすればいいし」
「いやいやいや」宮下が言う。「そりゃ俺も使うけどさあ。好きなアーティストとかは手元にほしくない?」
「宮下さんってもしかしてオタク?」
相原が言った瞬間、誰かが噴き出したような音が聞こえた。
「なんでそうなるの。ていうか立花いまのなんだよ」
「いや、確かにそうだと思って。宮下さん、たまにうざいくらい語るし。ほら、なんだっけ。『坂本ですが?』とかいう漫画。あれが面白いって」
「お前、マジであれ読めって。ちょっとここで探してやるから」
「いいっすよ。読みたくなったら借りますから。どうせ全巻持ってんでしょ」
「そうだけど」
「やっぱりオタクだ」
「どこがよ」
「だって、なんか収集癖? みたいなのあるっぽいから」
「ああ、分かる。宮下さんって、片付けられないタイプっぽい」と相原が便乗する。
「言いたい放題か」
宮下が突っ込むと、二人は笑った。
このまま待っていても時間の無駄にしかならない。僕は高木彬光を見捨てて、店を出ることにした。どうせ古本屋には明日も来られるのだ。
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