囮の九日目-4
いつの間にかお風呂から上がったアルテアは頬が少し赤らんでいた。その足元には着替え終わった服が落ちており、さっきの音はアルテアが服を落とした時の音のようだ。
「ツムグ……、どうしてその曲を……」
アルテアが言っているのはさっき僕が吹いていた曲の事だろう。だが、あの曲は父さんが吹いていたのを覚えて吹いていただけなので曲名など知らない。
さっきの曲は僕が小さい頃に父さんから教えてもらった曲だと言う事を伝えるとアルテアは光の中から僕がもっているハーモニカと同じものを取り出した。
「これは私がチャッピーから貰ったものです」
そう言ったアルテアの手の中にあったのは僕が持っているのと同じネックレス型のハーモニカだった。僕が見たアルテアの記憶ではハーモニカなどある感じではなかったのだが、あの世界にもあったのだろうか。
アルテアが持っていたハーモニカを僕に渡してきた。見れば見るほどよく似たハーモニカだが裏側を見た時、僕の体は固まってしまった。
ハーモニカの裏側には「U.Y」の文字が彫ってあり、それは僕の父さんのイニシャルだ。彫られていた文字は昔見た父さんの筆跡と同じだった。
何故父さんのハーモニカをアルテアが持っているのだろう。確かに父さんが死んだ後、遺品の整理をしていた時にハーモニカが見つからなくて疑問に思っていたのだが、それを何故アルテアが持っているのだろう。
混乱する頭を整理する。アルテアは記憶の中で見たおっさんから貰ったと言っていた。そのおっさんは父さんのイニシャルのハーモニカを持っていた。って事はあのおっさんが父さんと言う事なのか? それはまだ良い。いや、良くないのだが順番に行くと父さんは僕を庇って死んだ後、アルテアの世界に転生した――と言う事になるか?
そんな荒唐無稽な話、信じろと言う方が無理なのだが、僕の目の前にはアルテアがいる。実際に違う世界から来ている人間が居る以上こちらから違う世界に行ってしまった人間が居たとしても不思議ではないのかもしれない。
アルテアは自分が落とした服を気にする事なく覚束ない足取りで僕の方に近寄ってくる。その手は震えており、アルテアも今突き付けられている現実に信じられないと言った様子だ。
確かアルテアの話ではおっさんの息子さんと結婚するというのを心に決めていると言っていた。そのおっさんが本当に僕の父さんだとするとアルテアの言っていた結婚をする人物は僕と言う事になる。
待て、待て。これは僕が都合の良いように解釈をしているからそう思っているのではないのか? あまり結論を急がずゆっくり考えた方が良い。
「チャッピーは言ってました。自分には私と同じ年齢ぐらいの息子がいる事。そして……自分の名前は『
おっさんは自分の名前を思い出していたのか。そんな場面はアルテアの記憶の中にはなかったのだが、今はそんな事あまり関係ない。おっさんの名前が『優吾』だったと言う事だ。
アルテアがハーモニカを持っていて、そのハーモニカのイニシャルが「U.Y」で、持ち主の名前が「優吾」と言うのはもう、おっさんが父さんである可能性が限りなく高い。
「ツムグ……、貴方……、だったのですね」
アルテアは目尻に涙を溜めながら僕の目の前まで近寄ってきた。アルテアの涙など始めて見たのだがそうなっても仕方がないだろう。だってずっと想っていた人が目の前に居るのだから。
僕はアルテアに声を掛ける事ができずにただ立っている事しかできなかった。現実をまだ受け入れられていないと言う事もあるが、アルテアの想い人として何と声を掛けて良いのか分からないからだ。
だが、アルテアはそんな僕の事を気にする事なくさらに一歩僕に近づくと僕の胸に顔を埋め体に手を回してきた。アルテアの体はお風呂上りと言う事で暖かくシャンプーの良い匂いが頭を刺激する。
僕はそのままアルテアを抱きしめる――事はなく、アルテアの肩を掴んで僕から引き離した。驚いたような表情を浮かべるアルテアだが、流されるままに抱きしめる事なんてできない。
僕が知っているのはアルテアの記憶で見たおっさんの姿であって、ハーモニカの状況から父さんの可能性は高いのだが、確信が持てないのだ。
後少し、もう少しだけ僕は僕の知っている父さんとアルテアの知っているおっさんとのすり合わせをしていく。僕の知っている父さんの特徴をアルテアにぶつけて行く。
体型、口調、顔立ち、そのほとんどが父さんとアルテアが知っているおっさんとで一致していった。
これはもう間違いない。アルテアの知っているおっさんと僕の父さんは同一人物だ。どういった理由で異世界に行ってしまったのかは知らないが父さんは異世界で生きていたのだ。
アルテアに気付かれないように静かに息を吐く。固まっていた体は解れ、自然とアルテアの体を抱きしめる事ができた。こうやって抱きしめたアルテアは本当に華奢で普段戦っている姿が嘘みたいに思えた。
少しだけ体を離し、アルテアと見つめ合う。澄んだ瞳は先ほどの涙で潤んでおり、夜の池に浮かぶ月のように綺麗だった。
「アルテア。好きだ」
今回は勢いで言ってしまったのではなくちゃんと考えた上で言った。こんな運命的な事はない。僕はアルテアが好きだ。その思いに嘘はない。
「私も……。ずっとお慕い申し上げておりました」
そっと顔を近づけるとアルテアは瞳を閉じてくれた。触れた唇は柔らかくお風呂上りと言うのもあるのかしっとりしていた。
アルテアは嫌がるそぶりを見せず僕の動きに合わせてくれているようだ。こ……これは……僕がアルテアをリードしてあげないといけないのではないか。確かアルテアは経験がないと言っていたがそれは僕も同じだ。どうやってリードしたら良いのかなんて分からない。
このままアルテアの唇を塞いだままでは明らかにおかしいと思い、唇を離すとお互い見つめ合う状態になってしまって気恥ずかしくなってきた。それはアルテアも同じで少し俯いている。
いや、待て、僕は自分の唇がカサカサになっているのに気が付いた。もしかしてアルテアは今のキスは痛かったんじゃないのか? 初めてのキスだったのに痛かったなんて思われたら最悪だ。慌てて僕は唇に湿り気を与えるために舌なめずりするが、傍から見れば女性を襲おうと狙いを付けている人みたいじゃないか。そう思った僕は少しだけ舌を出して唇を合わせる事で湿り気を与えた。
さて、俯いて知るアルテアだが、こうなった場合どうすればいいんだ? 僕が顔を下から周らせてもう一度キスをするのか? それともアルテアの顎を上げさせてキスをした方が良いのか? どっちが正解だ? どっちがスマートなリードなんだ?
早くもう一度キスがしたいのにどうしたら良いのか分からない。えーい、もう良い。後でがさつと思われても構わない。僕はアルテアの顎に手を添えて顔を上げさせる。アルテアの潤んだ唇が官能的で生唾を飲むのを一生懸命我慢する。
アルテアの唇に一瞬で乾いてしまった僕の唇をもう一度重ねようとした瞬間、「ピーンポーン」と家のチャイムの音が鳴った。思わず二人して玄関の方に顔を向けると甘い雰囲気が飛んでしまい、恥ずかしさを通り越して気まずい感じになってしまった。
せっかくの良い雰囲気を壊されて気分は最悪だが、何度も鳴らされるチャイムを放っておく訳にはいけない。
アルテアに少し行ってくると告げて玄関を開けるとそこには壮年の執事服を着た男性が立っていた。バッチリ決まった服は家の中で油断している僕の服とは対照的で見ているだけでも緊張してくる。
「夜分遅く申し訳ありません。私、優唯様の使いで参りました
腰を折って挨拶してくる蒼海さんは非常に物腰柔らかい感じがする。いくら見ても笑顔が崩れる事はなく普段からお笑顔を絶やしていないのがよく分かる。
それにしても優唯様って事は使いを出したのは赤崎先輩と言う事だろう。赤崎先輩がわざわざ僕の家まで使いを出すほどの用事と言うのは何なんだろう。
「本日は釆原様に優唯様からのお言葉を伝えに参りました。何やら釆原様はすでにレガリアを四つ持っておられるようで、そろそろ一度ちゃんと戦わないかと優唯様のご提案でございます」
実際アルテアが持っているレガリアは二つなのだが、針生たちが持っている分も含んでいるのだろう。僕と針生が繋がっているのは学校のモニターで見られているのだから。
あと残っているのは誰かと頭の中で思い出す。アンはまだ生きているし、赤崎先輩と沖之島先生はつるんでいるのでこれで三人。あっシルヴェーヌは沖之島先生の
できればアンの方を先に何とかしたいのだが、アンの居場所が分からない状態ではそんな事も言ってられない。
「それで、明日の夜七時に学校の校庭で待っていると優唯様の伝言を伝えに参った次第です」
針生たちとも相談しないといけないので即答はできないが、それも蒼海さんは快く受け入れてくれた。どうやら本当に赤崎先輩の言葉を伝えに来ただけで答えまでは貰って帰るとまでは命令を受けていないようだ。
「それでは私はこれにて失礼します。後はお二人でお楽しみください」
深々と一礼をした後に蒼海さんは去って行ったのだが、どうしてアルテアと良い感じになっていたのを知っているんだろう。位置的に玄関からは和室は見えないはずだ。
文句を言おうにもすでに蒼海さんはもう居ないので顔を真っ赤にしてアルテアが居る所まで戻るがそこにはアルテアはいなかった。どこに行ったのか探すとアルテアは居間のこたつに入っていた。
どうやら蒼海さんとの会話が聞こえていたようで、さっきまでの柔らかい雰囲気はどこかへ行ってしまっており、緊張感を持った表情をしている。
「盗み聞きをするつもりはなかったのですが、話は聞こえてしまいました。ツムグはどうするつもりですか?」
さっきの続きができると思っていた僕は少し残念なような、覚束ないリードを晒す事がなかった事で良かったような複雑な気分になった。
それはさておき、蒼海さんからの話だが、先ほども思ったように僕たちだけで勝手に決める事はできない。明日、針生がお昼ごろに来ると言う事だがその前に一度連絡を入れておいた方が良いだろう。
メッセージアプリでも良いのだが家にちゃんと着いたかの確認も込めて電話をする事にする。そう言えば電話で針生と話すのは初めてなので緊張してしまう。
「もしもし。あれ? 紡? どうしたの? 電話なんて珍しいわね」
電話で聞く針生の声は普段話す声と違っているように感じた。それだけではなくどこかエコーが掛かっている気がする。
「えっ!? 何? 釆原君? 私にも、私にも代わってよ」
どうやら鷹木も一緒にいるようだ。ちょうど良いので鷹木にも一緒に聞いてもらいたい。
「ちょっ! 鷹木さんどこ触ってるのよ! そんなところ触らなくても聞こえるでしょ!」
「何よ。減るもんじゃなし。釆原君聞いてよ。針生さんて服の上から見るより意外と大きくて柔らかいのよ」
どうやら僕はお風呂に入っている所に電話をかけてしまったようだ。それなら後で掛け直してくれればいいのだがどうやら電話を切る気はないようだ。
「それで何だっけ? 赤崎先輩から何か連絡来たんですって? ってアッ、ンン、鷹木さん! そこは駄目って言ってるでしょ」
この二人は一体電話の向こうで何をやっているんだろう。仲が良いのは良い事だが電話で話している時ぐらい大人しくしておいて欲しい。
「分かったわ。明日なるべく早く行くからその時話しましょう」
「釆原君。私も行くから……ぃやだ、ん、……ンン。針生さんそんなところ触るのは反則よ!」
僕はそっと電話を切った。これ以上二人のピンクな世界を覗いてははいけないと思ったからだ。
「ツムグ、大丈夫ですか? 針生は何と?」
僕が変な感じで電話を切ったのでアルテアが心配してくるが正直に答えられる訳がない。余分な所を削ってアルテアに伝えると「明日来るって」とこれだけになってしまった。
色々あって疲れたのだが、食事を軽く取って明日に備える事にする。アルテアもそれほどお腹が空いていないようで僕はお茶漬けを作ってこたつまで戻ってくる。
メインは鶏肉もも肉をカリカリに焼いたもので、鶏肉の香ばしさとサラサラっと入ってくる出汁の利いたご飯がちょうど良い。
晩御飯を食べ終わり、少しだけまったりした所で早々に寝る事にする。アルテアと会話をしていても意図的に良い感じの雰囲気にならないような話題を選んでいるみたいだし、僕の方からもそんな感じの雰囲気は躊躇われたからだ。
こういう感じになって一晩を過ごすのは初めてだったので、なかなか寝付く事ができない。それはアルテアの方も同じだったようで、部屋を出ると僕の部屋に入ってきた。
「ツムグ、まだ起きてますか?」
僕も寝付けなかったので起き上がるとアルテアの所まで近寄って行った。電気を点けようとしたのだがアルテアにそっと止められてしまった。
「こんな時間にごめんなさい。でも……、あの……、その……、眠れないのでもう一度だけ……、もう一度だけ……キ……キスを……キスをして貰って良いですか?」
これはおやすみのキスと言う事だろうか。暗くてよく見えないがアルテアの顔が真っ赤になっているように見えた。その可愛さのおかげで僕は余計な緊張をする事はなかった。
カサカサになっていない唇をアルテアの唇にそっと合わせる。アルテアはそれで満足したのか一礼すると急いで自分の部屋に戻って行き、それから部屋から出て来る事はなかった。
僕の方も何か安心したような感じになってしまい、ベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
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