第二三四編 〝失恋の詩〟


 ガツンッ――と。

 決して俺に向けられた言葉ではないのに、頭を強打されたかのような感覚を覚えた。


「(……なん、だよ……それ……?)」


 唇が震え、開いた口が塞がらなくなる。彼が、真太郎しんたろうが言った言葉が理解できない。

 いや――

 桃華ももかがフラれてしまったことについてではない。それは彼女が告白する前から覚悟していた結果だ。俺が信じられなかったのは彼の言葉そのものの方。


「今は誰とも交際するつもりはない」。

 これまでに何度も聞いた台詞ことばだった。彼が女の子からの告白を断る時の常套句。俺が初めて一年一組に彼の姿を見に行った時も、同じ台詞ことを言っていたのをよく憶えている。


 だが、今の俺には分かる。それはずっと七海ななみのことが好きだった彼なりの〝嘘ではない嘘〟だったのだろうと。七海の隣に立つのに相応しい自分になろうとしていた彼は、七海以外の誰かと交際するつもりなどなかったから。そして現時点いま久世真太郎じぶんではまだ七海未来に釣り合っていないと理解し、想いを胸に秘めたまま理想に追いつけるその日が来るのをから。

 そうだった――昨日までの真太郎は、〝一歩〟を踏み出す前の真太郎はそうだった。


「(でも……なんでだよ、真太郎……!?)」


 お前は言っていたじゃないか、「〝あと一歩〟を踏み出さなければならない」って。〝あと一歩〟を踏み出したからこそ、お前はずっとくすぶっていた気持ちに火をつけて、七海への告白に踏み切れたんじゃないか。


 その後押しをしてくれたのが桃華だって、お前は自分の口で言っていたじゃないか。


 それなのにどうして他でもない彼女からの告白に、今さらそんな上っ面だけを繕ったような台詞ことばを使うんだ。おかしいじゃないか、割に合わないじゃないか。


 その子はずっと久世真太郎おまえのことを見てきたんだよ。お前のことをまっすぐ見てきたからこそ、俺なんかよりずっと真剣にお前のことを考えて、お前の悩みに気付いて、お前の背中を押したんだ。

 遊園地の時も、勉強会の時も、クリスマスの時だってそう。その子は自分の恋の好機チャンスをほっぽり出してでも、お前のことを一番に考えてきたんだよ。

 知ってるんだ、知ってるんだよ……俺はずっと、


「(その子の告白を受け入れろなんて無茶は言わない……だから、頼むから……せめてもっと真剣にこたえてやってくれ……! 桃華の想いと正面から向き合ってやってくれ……! じゃないと……じゃないと報われねえだろう……ッ!)」


 桃華の恋も、そして――俺の〝痛み〟も、〝失恋〟も。


 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………いや、違うか。


 久世くせ真太郎が――俺たちのことを〝大切な仲間〟と呼ぶあの男が、桃華からの告白に適当な答え方をするはずがない。桃華と同じであいつは不器用な奴だから。〝不誠実〟をいとう奴だから。

 そんな男があんな答え方をした以上、なにか思惑があるんだろう。なるべく桃華を傷付けたくなかったのかもしれない。告白は受け入れられずとも、彼女との友情にヒビを入れたくなかったのかもしれない。


「(……そう、だよな……俺だけなわけ、ないよな……)」


 告白する方もされる方も、きっと同じくらい苦しい。その恋が成らぬというなら尚更だ。その告白をきっかけに、それまでの友情が崩れるかもしれない。今日まで見られた笑顔が、明日からかげるかもしれない。

 俺があの二人の関係が壊れることを恐れたように、真太郎は桃華との関係を壊すことを恐れた。だからたとえ不誠実であろうと、なるべく桃華を傷付けずに済む答えを選んだのか。


「(……そうだ、同じ〝フラれる〟なら……せめて友だちのままでいられるようにした方がいいじゃないか……)」


 もしかしたらこれは、俺の望んだ結末に最も近いのかもしれない。

 すなわち桃華は〝勇気〟を出して告白し、その上で真太郎との友人関係は継続できるという展開。真太郎にその気さえあるなら、今後俺のフォロー次第では今までよりも仲良くなれる可能性さえある。もちろん恋人にはなれないが……交際関係になることだけが幸せとも限らない。それは、現在いまの俺の心境が証明している。


「(流石っつーか……場慣れしてるな、真太郎……)」


 これまでも、友だちだった女の子から告白されたことなんて多々あったのだろう。あの台詞ことばは、もしかしたらその仮定で身に付けた〝一番相手を傷付けずに済む答え方〟なのかもしれない。

 俺は自分の心を納得させるように、白い息を吐き出した。


「(きっと、これで良かったんだ……これで――)」



「うっ……ぁ……ううっ……!」



 ――言い訳じみた思考回路が、漏れ聞こえてきた泣き声に上書きされる。

 見るまでもない。見るまでもないが……俺はその発生源に揺れる瞳を向けた。


「ご、ごめ、んっ……ごめっ……ううっ……っ……!」


 視線の先で、桃華は泣いていた。

 真っ赤に染まったままの頬の上を珠のような涙が滑り落ちていき、雪解け水に濡れた屋上の床にはじけて消える。

 想い人に泣いている顔を見られたくないのだろう。必死に指や手のひらで目尻を拭ってはいるが……その努力もむなしく、次から次へとしずくが溢れ出ていく。


「うっ……ぐっ……! ひっぐっ……!」

「……っ!」


 痛切なその声に、俺は思わず目を逸らしてしまった。彼らから身を隠すように、再び冷たいコンクリートの中に埋もれる。

 桃華の泣き顔を見るのは初めてではない。それこそガキの頃なんて毎日のように転んで泣きべそをかく彼女を見てきた。

 だが恋に破れて流す涙を見たのはこれが初めてだ。女の顔で泣く彼女を見たのは、これが初めてだ。


 彼女が漏らした小さな嗚咽おえつに、場違いに大きな吹奏楽部の合奏が重なる。けれどなぜか俺の耳に入ってくるのは――俺の脳が認識するのは、彼女が涙する声ばかり。

 世界から雑音のすべてが消え失せたような感覚を覚える。なにも感じないし、なにも考えられない。俺の全神経が、彼女が泣く声だけに集中している。



 それは惚れた女が声なき声でうたう――〝失恋のうた〟。



「ご、ごめんね、変なこと言っちゃって……! わ、忘れてくれて、いいからっ……!」

「も、桃華っ……!」


 桃華と真太郎の声が遠くに聞こえた後、ぱしゃぱしゃと濡れたコンクリートの上を走る音が後を追う。

 隠れているのが見つからなくて良かったとか、真太郎は走り去る桃華の背中に手を伸ばしたんだろうなとか……そんな現実逃避でもするかのようなどうでもいい思考が頭を満たした。


「……これで……」


「(……良かったんだよな……)」


 しくも、真太郎の声と俺の思考が一致する。


「(……そうだ、これで良かったんだ……どっちにしても桃華がフラれる事実は変わらなかったんだから……俺はそれを知った上で、あの子に後悔の残らない初恋をさせてあげたかっただけなんだから……)」


 目的は、確かに達したんだから。


「(これで……良かったんだ――)」



 ――〝良かった〟?



「(…………本当に……これで良かったのか……?)」


 ――自問自答。


「(なにが〝良かった〟んだ……?)」


 桃華はフラれたけど、真太郎との友情は壊れずに済みそうだから?


「(……それで、いいのか……?)」


 だってこれが、俺の望んだ結末だから。


 だってこれは、望んだ結末だから。


「(――俺が望んだ結末だからなんなんだよ?)」


 拳を強く握る。手のひらに食い込んだ爪に伝わるプツッ、という皮膚を貫いた感覚と痛み。胸に走った〝痛み〟とは比べ物にならないほど小さなその痛みに――俺の頭が回り始める。


「(俺は桃華の人生の主役か?)」


 違う。


「(俺に桃華の感情を決めつける資格があるか?)」


 あるはずがない。


「(俺のくだらない願望なんかどうだっていいだろうが)」


 そんなもん、とっくに捨て去ったはずだろうが。


「(あの子は、どんな顔をしていた?)」


 ――あの子は、泣いていた。

 俺が惚れた女の子が、悲しみに暮れて泣いていたんだ。


 ……「これで良かった」?



「――いいわけねえだろうが」



 惚れた桃華おんなが泣いてんのに、動かないおれであってたまるか。

 自分の恋のために〝勇気〟が出せなかった。だったらその有り余ってる〝勇気〟のすべてをここで使え。


 今ここで――〝一歩〟を踏み出せ。


「真太郎おおおおおッッッ!!」


 絶叫し、俺は物影から飛び出す。そしていきなり現れた俺に勢いよく振り向く彼のことを真っ正面から睨み付ける。

 ――俺の〝暗躍〟が、終わりを迎えた瞬間だった。

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