知らせ
この時期になると、喪中はがきが届く。
年賀状でのやり取りは年々減っていると言われているが、私は毎年30枚ほどの年賀状をやり取りしている。
同級生が多いが、屋久島関係の方も少なからずいらっしゃる。
1999年から2000年にかけて、まだインターネットの黎明期ではあったが、それなりのやり取りをさせていただき、まだ数名の方とはやり取りが続いている。ここまで数十年続いているのだから、この先も続いていく事だろう。
そんな中、唯一屋久島在住の方から悲しい知らせが届いてしまった。先日仙台名物の笹かまをお送りしたところ、転居先不明で戻ってきてしまったので心配していた。
やはりお亡くなりになり、喪中とのことだった。
まだ一度も見たことのない奥様の字で、私の宛先は書かれていた。
屋久島在住時には大変お世話になり、我が家の両親が来島した際にはオヤジと昔の東京の話で盛り上がっていた。昔の外車はフレームが木だったんだ、なんて話をする人だった。
残念である。
季節毎に先方からは屋久島のたんかんが送られて来ていた。私は東北の果物や特産品をお送りしていた。その都度はがきで、丁寧なお礼が返ってきていた。ご夫婦には子供がおらず、ちょうど私が子供くらいの年齢だったので、もしかするとこの方の中で私は重要な存在だったのかもしれない。
数年前に突然、手紙で「会えないか?」と言われた。
私は事業に失敗した借金を背負っており、その返済もある関係で、今現在もそうだが、かつてのサラリーマン時代のような長期休暇を取ることはできなかった。申し訳なかったが、事情をご説明し、丁寧にお断り申し上げた。
行きたかったのはやまやまだったが、仕方なかった。
私の両親はまだ健在である。身近な家族の不幸といえば、小学校低学年の頃に祖父や祖母が相次いで亡くなった以来、経験していない。当時は喪中の意味がわからず、喪中はがきに「おめでとう」と書いて友人に送ったりしていた。
いずれ両親も年老いて順番に逝くのだろうが、その時になったらなったで考えればいいやと、あまり深く考えることはしていなかった。
かつての職場の同僚のおじさんが、お父様を亡くされた時に言っていた。
「最初は何ともないけど、後からじわじわ効いてくる感じだな…」
今の私もその方に似たような心境になっている。あの時無理をして屋久島に行けばよかったのだろうかと思い返すが、自分の決断に後悔はしていない。でも、島を離れてからは一度も島に帰ることができていないという現実は、やはり反省すべき点だ。
反省したところで、こちらに根っこを生やしてしまったのだからどうにもならない。
はがきが届き自分では感じなかったものの、身体には大きなストレスになったのか、昨日の夜は激しい胃痛に見舞われた。無理やりに寝て何とか収まったが、夜中にトイレに起きた際には、これまた激しい頭痛に襲われたので、慌てて葛根湯を飲んで寝たところ、朝は何ともなかった。
歳を取って、精神に異常が発生すると身体が反応するようになったのだろう。
喪中のはがきには、奥様の実家の住所が記載されていた。住居表示の改定が入っていない、地方の住所だった。
来年、奥様に年賀状を書くべきかどうか、今から迷っている。
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