第2話 食パンと転校生。
すっかりくたくたの状態で目的の駅に降り立った杏子は、ふらふらと歩きながら改札を後にする。結局十五分ほど遅れて到着し、時間を大きくロスしてしまった。
こういうこともあろうかと、普段から早めに家を出ているため遅刻の心配はないものの、朝から事件に遭遇するのは疲れる。
それからもうひとつ、杏子にとって気がかりがあった。
(この時間……美咲と会いそう……)
心の中に登場した人物の名は、神園美咲。杏子の親友であり、ラブコメ展開の遭遇率が非常に高い同級生だ。おそらく、杏子の悩みは美咲が引きつける少女漫画主人公のオーラによって生み出されたものであろう。勝手にそう思い込んでいる。
美咲は絶世の美少女というわけではないが、杏子よりも女の子らしくて接しやすい。栗色のロングヘアー、小動物のように小柄な身体、そしてどこか守ってあげたいオーラがある。明るく優しくどこかおっとりしていて、同性の杏子から見ても可愛らしい人間だと思っていた。しかも胸が大きい。性格面でもそれほど問題ないと思っていたし、普通に接する分には大好きな友達である。
そう……何も起きなければ。
「杏子ー!」
だが、悪い予感というものは的中してしまうものだ。
背後から声をかけられたかと思いきや、同時にとんっと肩を叩かれる。
「あ、美咲。おはよ」
「おはよー。珍しいね! この時間に駅前にいるの」
「あーうん。電車が遅れててさー」
「それは大変だったね! おつかれさまー」
自然に挨拶を交わし、会話のキャッチボールが始まった。
相変わらずの癒しオーラは、杏子の疲れを少しずつ持ち去っていく。そういう些細なところにも、男たちは惹かれているのかもしれない。
ひっそりと心の片隅で『無事に学校へ辿り着けますように』と祈りながら、美咲との他愛ない会話を楽しむ。そう。こうして話している分には、何もないただの普通の女の子なのだ。
「今日って小テストあったよねー」
「うえっ。そうだった……でも五時間目だし、昼休みになんとか」
「杏子なら大丈夫だよー」
ゆっくりと歩きつつ、憂鬱なイベントも思い出しながら、二人は曲がり角を右に曲がる……ところだった。
そこで杏子は、迂闊に曲がってしまったことをすぐに後悔する。
この曲がり角で、いくつものラブコメが生み出されてきただろうか。
「うわっ!」
「きゃっ!」
「美咲!?」
杏子と美咲の二人だったところに、低めの声がもうひとつ加わる。その人物とぶつかった勢いで、美咲はしりもちをつき、相手も同じように転倒した。杏子は美咲に駆け寄ると、手を差し出して立ち上がらせる。
「大丈夫? 怪我してない?」
「う、うん……ありがと、杏子」
大きな怪我をしていないことにひとまず安堵し、二人は同じく転倒した見知らぬ男子生徒に視線を移し……愕然とした。正確に言うと、杏子だけが絶望していた。
「あの……すみません。大丈夫ですか?」
そんな杏子の気も知らず、恋愛フラグ一級建築士である美咲は、彼を心配し、手を差し伸べる。男の方は暫し美咲を見つめてぼんやりとしていたが、我に返った後、慌てて手を借りずに立ち上がった。
「す、すまない! 急いでいたものでな」
ぱんぱんと制服についた汚れをはらうと、何度もぺこぺこと頭を下げる。
黒髪で短髪のその男は、顔立ちは大変整っており、大層人気があるのだろうと思われる容姿をしている。だが、頬を赤くして動揺する様子を見ていると、何故か身近な存在に感じられるのはどうしてだろう。
気付くと美咲の方も彼に釣られて一緒に頭を下げている。
「ああー!!」
しかし、少し意識を手放しかけた杏子を引き戻すような叫び声が響き渡った。
「えっ」
「僕のー!? パンがー!?」
「パン!?」
彼が地面から拾い上げたのは、食べかけの食パンであった。どうやら転倒した時に落としてしまったらしい。ここまであからさまな展開だと、逆にどういう反応をしていいのか分からなくなってしまう。食パンを咥えて曲がり角で衝突。今日日、少女漫画でも見かけない展開だ。
「ああー! もう時間が! 僕は失敬する! では!」
彼は名乗ることもなく、鞄と落とした食パンを拾って走り去ってしまった。杏子も美咲も呼びとめる暇はなく、嵐のような時間であったとしみじみ思う。しかも何故か、彼は来た道を引き返しているようだった。
「あっ! 杏子! 私たちも急がないと!!」
美咲にそう言われ、ようやく時間がないことに気付く。
「やばっ!! 美咲行こ!」
「うんっ」
先程までの出来事で、もうひとつ懸念事項があったと杏子の中で思い浮かぶことがあったが、ぼやぼや考え事をする余裕など欠片もない。
二人は慌てて走りだし、校門を潜り抜けた。
***
「せ、セーフ……」
予鈴が鳴り終わる頃には席に着くことができ、なんとか遅刻は免れた。一息ついたところで担任が教室に現れ、日直の号令に合わせて朝の挨拶をする。
「今日はまず、重大な発表があるぞー!」
体育会系で坊主頭の担任が、改まった様子で前置きをした。今までにないパターンのため、教室内がざわつく。
「睦月! 入れ!」
いちいち声の大きい担任が、廊下に向かって呼びかけた。開け放たれたままの入り口から、睦月と呼ばれた人物が姿を現す。教壇の近くまで歩いてきたその男は……もう言うまでもないだろうが、一応説明しておきたい。
杏子と美咲が、先程出会った男だ。
「睦月春秋と申します。親の仕事の都合で引っ越してまいりました。分からないことだらけではございますが、何卒ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
春秋はどこの新入社員かと思わされるような、大変堅苦しい挨拶をし、ぺこりと頭を下げる。
「お前かたっくるしいなー。緊張してるのか? ま、お前らも仲良くしてやれよー」
クラスの誰もが思っていたであろう本音を隠すことなく本人にぶつける担任に、春秋は苦笑する。
転入生に対するクラスの反応はというと、顔がいいこともあってざわついている女子、男子は特に悪い印象はない様子だった。
嫌な顔をしているのは、ラブコメアレルギーにかかっている杏子くらいかもしれない。
杏子がいくつか思いついた展開は、次のとおりだ。
一.美咲の隣の席が空いているので、席は確定したも同然(窓際の一番後ろの席)。
二.今までの流れ(食パンを咥えてぶつかった辺り)から察するに、春秋と美咲の間でまだ何か起こるに違いない(「あ! 朝の!」など)。
三.とある人物の乱入(心当たり有)。
四.新たなる人物の乱入(未定)。
「じゃあ睦月の席は、一番後ろの窓際だ。空けておいたからな。神園、いろいろ教えてやれよ」
普段の担任は、適当でがさつで気を遣う能力があるのかどうかも分からないような人間という認識が杏子の中にあったが、こういう時だけは謎の力でラブコメ状況が構築されていくのだから不思議だ。
杏子は自分の席で唸りながら、他のクラスメートと同様に、春秋が席に着くまでの様子を見守る。無事に何事もなく座ってくれればそれでよい。
「あ! 君は!」
だが、どこまでもお約束を守る男であった。
美咲の顔を見るなり、立ち止まって一歩後退り、大声をあげる。
「あ! 朝の!」
美咲も美咲で、一級建築士としての仕事は忘れないらしい。立ち上がって春秋と一緒に驚いているようだった。勿論、他のクラスメートたちは『どういう関係?』とざわめくまでがお約束である。茶番でないのが不思議だ。
「なんだ、お前ら知り合いだったのか。んじゃ大丈夫そうだな」
何が大丈夫そうなのかと、担任に小一時間問い詰めたい気持ちが、杏子の中で渦巻いていく。こういう適当で能天気なところが、杏子を苛立たせるのだ。
杏子の席は廊下側の前から三番目の席のため、その後の会話はさすがに聞こえてこない。だが、ちらりと視線を向けてみると、着席した春秋と美咲は何やら仲良さげに話しているようだった。
そこまで見届けて、杏子は小さくため息をつく。
憂鬱の原因は、この先で待ち受ける様々な予感が原因であることを、杏子は知っていた。
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