第二巻 第四章 遣唐使と前期平安仏教

〇遣唐使船の通ったルート

N「遣唐使は飛鳥時代から平安時代にかけて二十回任命され、十二回派遣された」


〇遣唐使船上の阿倍仲麻呂(二十歳)・吉備真備(二十三歳)・玄昉(青年)

N「養老元(七一七)年、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らを乗せた遣唐使船が出発する」


〇晩年の阿倍仲麻呂

唐の官僚の服装。

N「仲麻呂はその才覚を見込まれ、唐の宮廷で死ぬまで活躍する」


〇聖武天皇(三十八歳)に謁見する橘諸兄(五十五歳)と、その後ろに控えている真備(四十四歳)と玄昉(中年)

N「帰国した真備と玄昉は、聖武政権の中枢で大活躍した」


〇遣唐使船上の最澄(三十八歳)/別の遣唐使船上の空海(三十一歳)

N「延暦二十三(八〇四)年の遣唐使船には、桓武天皇の期待を受けた二人の僧が乗っていた。最澄と空海である」


〇平安宮の一角

最澄(三十六歳)が桓武天皇(六十六歳)に謁見している。

桓武「そちは国分寺の正式な僧侶でありながら、比叡山で山林修業をしておると聞く。何ゆえか」

最澄「……国分寺の僧たちには、貴族のことしか目に入っておりませぬ。真の仏教とはそのようなものではないはずと思い、独自に修業しております」

桓武「(深くうなずいて)今や奈良の大寺の僧の多くは、姿は僧侶であっても、行いは俗人と同じだ」

最澄「唐には『天台の教え』がございます。その教えによれば、全ての人はみな仏の子供だと言います(悉皆仏性)。許されるならば唐に渡り、その教えを極めてきたく存じます」

桓武「(感激して)そちの志、五度の失敗を乗り越えて、日本へ戒律を届けた鑑真の志に等しい。そちの留学のため、援助は惜しまぬ」

最澄「(感激して)ありがとうございます……!」


〇山岳修業する空海(青年)

N「一方の空海は、独学で仏教を学び、留学僧として遣唐使に潜り込むため、急遽得度を受けた、私度僧に近い存在であった」

空海(M)「唐で真言密教を極めるのだ……!」


〇平安宮の一角

最澄(三十九歳)が桓武(六十九歳)の病床で祈祷をしている。

N「天台山で一年学んだ最澄が帰国すると、桓武天皇は病床にあった」

桓武「最澄、頼むぞ……日本に本物の仏教を……」

うなずく最澄。

N「大同元(八〇六)年、桓武天皇は亡くなる前に天台宗の開宗を最澄に許可した」


〇灌頂を受ける空海

N「一方の空海は、唐で真言密教の灌頂(かんじょう)を受け、桓武天皇の死後半年ほどで帰国する」


〇平安宮の一角

最澄(四十三歳)が嵯峨天皇(二十四歳)に謁見している。

嵯峨「そちと同じ遣唐使船で入唐した、空海と申す僧が太宰府におる」

最澄「面識はございませぬが、真言密教の灌頂を受けてきたと聞いております。私もぜひ、その者の話を聞いてみとうございます」

嵯峨「左様か。ならばその者、京に呼ぶとしよう」


〇平安京の一角

空海(三十六歳)が嵯峨天皇に謁見している。

空海「万民に開かれている教え(顕教)は、仏の教えの、ほんの一部に過ぎませぬ。真の教えは隠されているがゆえに、密教と呼ばれます。密教を学ぶには、師から弟子に、言葉によらず心によって伝授を受けるしかございませぬ」

嵯峨「その密教で、何ができると言うのだ」

空海「(自信たっぷりに)……国家を、あらゆる災いより護ってご覧にいれます」

嵯峨天皇の目が光る。

N「嵯峨天皇と謁見した空海は、その深い信頼を得る」


〇書物を前にした最澄と空海

最澄「私は密教についてあまり多くを学んでおりませぬ。あなたから一修行者として密教を学びたく存じます」

空海「(微笑んで)喜んで」

N「しかし自らはほとんど足を運ばず、弟子を空海の元に送り、経典を比叡山から取り寄せるのみの最澄の姿勢を、空海は鋭く批判する」


〇比叡山・延暦寺の一室

最澄(四十七歳)が空海からの手紙を破り捨てている。

空海(手紙)「密教の教えは、師から弟子へ、心から心へのみ伝授可能なものです。それを弟子を送り、経典を取り寄せて済まそうとするあなたのやり方には、真摯さが感じられませぬ」

最澄「(怒って)私には天台の長としてやらねばならぬことが山ほどあるのだ!」

N「最澄は空海の元で修業させていた弟子の泰範を呼び戻すが、泰範は空海の元に留まることを選び、二人は決裂した」


〇決裂する最澄(四十七歳)と空海(四十歳)

N「その後は、天台宗は人民の救済を目指す開かれた仏教として、真言宗は南都六宗に代わる鎮護国家の仏教として発展していく」


〇平安宮・内裏

宇多天皇(二十八歳)、菅原道真(五十歳)、藤原時平(二十四歳)らが朝議している。

N「多くを日本にもたらした遣唐使であったが、九世紀末になると、唐も混乱し、遣唐使の効果が疑問視されるようになる」

道真「遣唐使に選ばれたことは光栄でございます。しかし、治安の荒れた唐に向かっても、価値のあるものを得て、無事に帰って来られるとは限りませぬ。それより朝廷にあって、帝のために尽くしたいと存じます」

深くうなずく宇多天皇と、舌打ちする時平。

N「こうして寛平六(八九四)年に予定されていた遣唐使は中止され、そのまま再開されることはなかった」


〇五代十国と朝鮮半島の勢力図

N「延喜七(九〇七)年に唐は滅亡し、中国は五代十国時代に突入、天徳四(九六〇)年の宋の建国まで混乱が続く。朝鮮半島でも、寛平四(八九二)年に新羅が分裂、高麗によって延喜十八(九一八)年に再統一された。日本はこれらの戦乱の影響をほとんど受けず、軍隊と呼べるものすら持たないまま、平安時代の大半を過ごす」


〇平安京の外れ

野ざらしにされている多くの死体。

N「十世紀の中頃になっても、死者を埋葬することは上流階級の贅沢であり、庶民は死体を郊外に取り捨てていた」

若い夫婦が、子供の死骸を背負って来て、そこに投棄する。

夫「許してくれ、俺たちには、お前の墓を作ってやることはできない……」

妻「お前のためにしてやれることが何かないものか、と考えたけれども、何にもなかったよ……」

と、空也(中年)がやってきて、子供の死体に念仏を唱えはじめる。

空也「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)……」

夫「あの、上人さま、何を?」

空也「この子を思うなら、そなたたちも念仏を唱えなされ。意味はわからずともよい。ただ『なむあみだぶつ』と繰り返し唱えなされ」

夫婦、ひざまずいて念仏を唱えはじめる。

いつの間にか、大勢の民衆が周りに集まっていて、みなひざまずいて、一心に念仏を唱える。

N「九世紀の中頃、天台宗の円仁が唐から『五会念仏』をもたらし、それは民衆の間に念仏信仰として受容されていく」

熱心に念仏を唱える空也。

N「十世紀の中頃に活躍した空也が、代表的な念仏僧として知られている」


〇『往生要集』を執筆する源信(中年)

N「その空也が亡くなるのと入れ替わりに活動を開始したのが源信で、彼は念仏信仰を『往生要集』という書物にまとめた。これにより念仏信仰は貴族の間にも広がり、平安時代後半の浄土信仰につながっていく」

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