第4章 清らかな魂

4-1 遺書

 の中で、最も罪深い狂人は誰でしょうか。

 もし貴方あなたがそんな風に誰何すいかしたなら、私は屹度きっと、こう答えます。

 れは、私の事ですよ、と。

 こんな書き物をのこす私は、酷い人間なのでしょうね。貴方に地獄の責め苦を負わせていながら、早々はやばやと退場する気でいるのですから。そんな逐電ちくでんの算段を立てる女を、貴方は酷いと思うでしょうね。今度こそ、幻滅されてしまうのかしら。れは、少し寂しい気が致します。

 和泉君。最初に、お断りしておきましょう。

 おそらく、私は狂っています。貴方が思う以上に、屹度きっと。私は狂っているのです。

 いつか、貴方はいましたね。私達の事を、狂っていると。私は貴方をからかってしまったけれど、はっとするような心持ちで、れを云った貴方の顔を見ていたのです。本当に、吃驚びっくりしていたのですよ。目に映る世界を冴え冴えと爽やかにひろげていく風と、凛と美しく降る天泣てんきゅうに、心を洗われたようでした。

 遊びだなんて、笑ってしまって御免ごめんなさいね。でも、私、嬉しかったのよ。貴方が若者らしい情熱を、私のような人間に見せてくれた事。貴方には熱い血潮が流れていて、健やかな精神の持ち主なのだと、知らしめてくれた事。私は、れが嬉しかった。

 れが、あんまり嬉しかったから。

 私は、貴方を逃がさなくてはならないと思いました。

 貴方の正気に触れた時、私の狂気は、れでも貴方を逃がすべきだと思ったのです。貴方は、死んではいけない。死んではいけないのです。

 私は、あの子を愛しています。父のうようにあの子が喰われていなくなるのだとしても、残ったあの子も杏花きょうかです。鏡花きょうかであれ供花きょうかであれ氷花ひょうかであれ、かけがえのない一人娘です。呉野杏花くれのきょうかです。きよらかな魂です。

 嗚呼ああ、清らか!

 そんな言葉を、異国の貴方が携えてくるなんて。の言葉を、あの子の口から聞かされた時、貴方は私がどんな気持ちになったとお思いですか? 屹度きっと、貴方にはわかりません。私がどんなに嬉しかったかなんて。屹度きっと貴方には判らないのです。

 和泉君。有難う。綺麗な言葉を、あの子に教えてくれて有難う。日本の美しい真夏の景色を、あの子と共に歩んでくれて有難う。

 貴方はこの先、あの子と出逢ったことを後悔する日が来るでしょう。れは、早ければ今夜になるはずです。残酷な未来を判っていながら、私はの出逢いが嬉しくて堪らないのです。イズミとキョウカが出逢ったのですもの。の奇縁に運命を感じたのは、あの人も同じだと思いますよ。

 嗚呼、あの人の事まで書き進めたところで、一つだけ、お詫びをさせて下さい。

 伊槻いつきさんは、私が連れて行きます。

 の決意だけは、絶対に曲げません。

 私たち夫婦は、別々にくのかもしれません。もし、うでないのなら。伊槻いつきさんは、私が連れて行きます。必ず、黄泉よみへ連れて行きます。

 外道げどうの選択とお思いになるでしょう。鬼畜の所業とおののかれることでしょう。

 ですが、本気です。私は本気です。伊槻いつきさんは、助かってはいけません。あの人の魂は、罪の重さに耐えられない。知っているのよ。弱い人。伊槻いつきさんは、弱いもの。あの人を残す事は、新たな罪を生み出します。苦しめたくはないのです。伊槻さんを道連れにする為なら、私は鬼になりましょう。

 御免なさい。貴方はあの人と、仲良くなりたいと思っていたでしょう。の機会を貴方から未来永劫に奪い去ることだけを、傲慢と知りながらも、私は貴方に謝罪します。

 れらの言葉をもってして、貴方は決定的に、私の事を狂人だと思われるかもしれません。でも、れでいいのです。私は最初から狂っていました。貴方はれを事実として胸に刻んで、生涯疑わずに生きるのです。

 罪は、私が引き受けます。全てを私の所為にしたいのです。けれど、れが叶わないことは承知しております。罪も突き詰めれば、愛憎と同じ。人から人へ、奪うことなどできないわ。どんなに欲しくッても、私のものにしたくッても、手には入らないものなのよ。れは屹度きっとずるいことだから。貴方が教えてくれた清らかとは程遠い、あまりに狡いことだから。

 私は屹度きっとむごい死に方をするでしょう。

 そして、どんな死に方をしたとしても、私の死は、あの子の罪になってしまう。逃れられない運命です。自殺であれ、他殺であれ、私が死んだという事実はのまま、あの子の罪として消えることはないのです。

 そんな業を、あの子に背負わせる為に、出逢ったわけではなかったのに。

 でも、出逢いたかった。私のの願いは、罪でしょうか。あの子に出逢いたいという当然の感情は、あの子の魂をけがすでしょうか。けれど私がどんなにこだわっても、私とあの子の先行きは、罪にって完結してしまう。嗚呼ああ、親殺し。そして、あの子の成長を見守ることなく、死んで逝く事。そんなおぞましい罪が、私達の最後の絆になってしまう。

 ねえ、私は貴方にいやなことをたくさんったけれど、渾身の強がりだったのですよ。だって、こんなに悲しいことがあるでしょうか。私はまだ、左様さようならなんていたくない。清らかな杏花。逝かないで杏花。あんなにも無垢で愛らしい花。もっと、ずっと、一緒に居たい。今でも私は、う思っているのよ。

 私は、貴方のように、もっと葛藤すべきだったのでしょうね。ですが、狂う方が楽でした。人でなしにちる方が楽でした。いいえ、最初から人でさえなかった私は、母親失格なのでしょうね。抗うことを、めてしまったのですから。れこそが、私の罪なのでしょうね。

 私の最期は、果たしてどんなものでしょうか。私の正気は、果たして自我が生きているうちに、私の死を受け止められるでしょうか。可笑おかしな話ですね。私は自分を狂人だと断じておきながら、正常な人間のふりをしている。

 れともれは、生への未練でしょうか。

 貴方があんまり綺麗だから、生きることに拘ってしまったのかしら。

 困らせるようなことを書いて、御免なさいね。でも、貴方、本当に綺麗よ。れこそ私は、髪を銀杏返いちょうがえしに結っても良いくらい。本当よ。でもそんな冗談ばかり云っていたら、伊槻さんに怒られてしまうわね。ねえ、和泉君。幸せね。私達、とても幸せなのよ。家族の事を想う時、私達は常に片時の曇りもなく、清々しい空気を吸って生きていて、れがとても幸せなのよ。

 私の事は、どうぞ御心配なく。死んでもいいというわけではないけれど、あの子が死ぬところを見るよりは、どんなにかいいだろう。う願ってやまない私は、ひとりよがりで、仕様のない女なのです。ねえ、でも、貴方はれを、とうに知っていたでしょう?

 そんな仕様のない女でも、貴方に名前を褒めてもらえた時は、とッても嬉しく思いました。初めてなのよ。の名前を、好きだと思ったのは。ずっと嫌いだったというのに、不思議なものね。

 和泉君。

 いいえ。イズミ・イヴァーノヴィチ。

 貴方の言葉、素敵よ。大切にして下さい。心ある言葉は、人を屹度きっと動かすわ。貴方の魂は清らかで、貴方の声が紡ぎ出した言霊も、清らかな魂で出来ている。「鬼」とわずに、「人」とった貴方は眩しかった。「病気」とも「狂気」ともわずに、「成長」とった貴方は立派でした。どうか、恥じないで。貴方の感性は、気高く美しいのです。どうか、手放さないで。後生ごしょうだから。貴方の心が死んだ時、此処ここは、本当の地獄になる。そんな、気がするのよ。

 嗚呼ああ、やはり、夏の盛りにふらりとやって来た貴方の事を、私は希望の光のように思っていたのかもしれません。れは屹度きっと、何かの巡り合わせに違いない、と。そして、最期の時を迎える前に、こんなにも美しく清らかな魂に触れられた事が、私は嬉しかったのかもしれません。

 では、後のことは任せました。遺書は、もう一通用意してあります。必要に迫られた時、どちらを人に見せるのか。痴情のもつれとして処理するか、狂女の戯言たわごととして処理するか。残された貴方達の、御好きなようになさって下さい。

 お兄様にも、どうぞ宜しく。

 お願い。貴方が、守ってあげて。私はようやく出逢えたあの人を、困らせたくはないのだから。屹度きっと、綺麗に泣いてしまう。そんな姿を一目見たいとこいねがう、己の醜い浅ましさを、さらけ出したくはないのだから。だから、ねえ、早く、帰って頂戴ちょうだい。どうか、逃げて。そして、お兄様が危ない時は、どうか、貴方が助けてあげて。

 本当に、可笑おかしな話です。

 私は、これから伊槻いつきさんを殺そうというのに。

 そんな鬼女でも、兄の涙を恋しく思う、人の心が生きている。

 狂い切れていないのね。貴方達は皆優しくて清らかだから、最後の夏を貴方達と共に過ごした私も、狂っていた事を忘れてしまったのね。貴方達があんまり綺麗だから、私は自分の事を人だと錯覚してしまったのね。嗚呼、いいえ、屹度きっと違う。人の形を模してまで、貴方達と触れ合える場所に、縋りついていたいだけ。

 嗚呼ああ。生半可なものはいや

 どうせなら一思いに、胸のすくような狂気で殺して下さい。私が私で、なくなるような。

 の願いをあの子に強いれば、あの子の罪は私の物になるでしょうか。親殺しの罪で、あの子の魂がけがれることを避けられるでしょうか。

 いけませんね。やはりれは、未練と呼ぶべきものです。今度こそ、筆を折ります。

 残酷なことを強いて、御免なさい。御父様と和泉君に、全てを委ねます。


 最後に。貴方に逢えて、良かった。

 左様なら。和泉君。


 呉野貞枝くれのさだえ

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る