第289話 あの日の教会 1
〜五年前〜
「ナイシスタ殿、次はあちらに」
先導する男が右手を向けた。少し先に見えるのはイムザン教の教会。その小さな前庭には、キャッキャとはしゃぎながら遊ぶ子供達の姿があった。教会が運営する孤児院。珍しくはない。
「教会……」
そう呟くナイシスタに、男は呆れる様に説明する。
「ここの神父は中々に厄介な奴でしてね。話し合いでまとまるかはまぁ……分かりません」
肩を
◇◇◇
ジェフブロック。イオンザ王国の西、コカ・ルー領の西端にある小さな街。この街はイオンザにとって、常に頭の痛い問題の種であった。
西のセンドベル王国と国境を接するコカ・ルー領の、更にその西端の街ともなれば、本来ならば国防の
勿論この街には防壁もあり、衛兵らも多数常駐している。見た目上、一応は国境の街としての
人口は多いが活気があるとは言い難く、その住民の
ジェフブロックはイオンザ王国最大のスラムだった。
街が丸ごとスラムと化しているこのジェフブロック。当然領主は対策を考え、過去に何度も改革の為に動いた。しかしそのどれもが失敗。もはや領主一人の力ではどうしようもなかった。
以降この街はイオンザの汚点であり恥部として、間違いなくそこに存在しているのにも関わらず、その存在を認識してはならないという、まるで幽霊の様な扱いを受けてきた。
触れてはならない街。ジェフブロック。
そしてこの街を治めるコカ・ルー領主、ワイナル・カウン辺境伯はとうとう禁断の決断をするに至り、統治官としてこの街に常駐するワイナルの長子リテュエインは、その準備に追われていた。
◇◇◇
「神父! いるか! おい神父!」
教会の中へ入るや、リテュエインは大声で怒鳴った。程なくして「何だ騒々しい」と、奥から神父が顔を出す。そしてリテュエインを見ると大きなため息を
「てめぇら貧乏人にそんなもんは期待はしちゃいねぇ」
リテュエインもまた神父にそう吐き捨てると、「良い話を持ってきた、聞きやがれ」と偉そうに踏ん反り返る。
「ドラ息子め。お前が偉いんじゃなく、お前の親父が偉いんだ」
神父は呆れながらそう話す。そしてリテュエインの背後に立つ数人の男女に鋭い視線を向ける。
「……奥に来い。礼拝堂で騒がれちゃ迷惑だ」
が、彼らの素性を確認するでもなく、神父は一人さっさと奥へ引っ込んだ。
「何が迷惑だ。誰もいやしねぇだろが」
リテュエインはそう愚痴ると右手を軽く前に出す。そして「では参りましょう」とナイシスタに呼び掛けた。ナイシスタは背後に立つナッカらに「あんたらはここで待ちな」と告げて奥へと進む。
◇◇◇
礼拝堂の奥、事務室へ通されたリテュエインとナイシスタ。リテュエインの話を聞くと、神父は「バカな!?」と声を上げて立ち上がった。
「ワイナルは正気か! そんなもん、上手く行くはずがない!」
「ワイナル様だ、クソ神父。良いか、親父殿は至って正気だ。ようやく決断なさった……遅かったくらいだ」
「上手く行く訳がなかろうが! すぐに軍が来て鎮圧され……!」
「何が鎮圧だ!!」
怒鳴ると同時にリテュエインはテーブルを叩いた。ビリビリとテーブルが震える。
「俺達が! カウン家がこの街の為にどれだけ手を尽くしてきたか! 治安が悪いと言われりゃ衛兵を増やし、食い物がないと言われりゃ配給を増やし、仕事がないと言われりゃ周辺に農地も用意した……だがどうだ!!」
再びドンと、リテュエインはテーブルを叩く。パキッと小さな音。天板の端のヒビが広がった。
「いくら衛兵を増やしてもクソ共が減る事はなく、配った配給はクソの元締が
北と南に二本の大きな川が流れるコカ・ルーは、農業に適した
「俺達があれこれとやってる間、王家は一体何をした? 何もしちゃいねぇだろが!どんなに助力を求めようが、てめぇの庭に出来たクソ溜めだからてめぇで始末しろと、毎度有り難い説教食らってそれで終わりだ!」
イオンザ王家の言い分は
だがこのジェフブロックに
確かに一番最初の段階で、街のスラム化を止められなかった領主の責任はあるだろう。だがここまで事態が深刻化してしまっては、これはもはや一地方だけの問題ではない。国が関与して
更に国境に近いという点も考慮すれば、国防という意味に
「もはや責任がどうとか、そんな段じゃねぇだろが! イオンザ中からクソが集まり、センドベルからもクソが集まり、良い具合に煮詰まったこのクソ溜めは、コカ・ルーだけじゃなくこの国の問題だ!」
溜まりに溜まった
「だがな神父。
「……
神父は祈りを捧げながら、視線だけをじろりとリテュエインに向ける。「望むところよ」とリテュエインは答えた。
領主、ワイナル・カウン辺境伯が下した決断。それはイオンザに見切りをつけ、センドベルの
この時点で、すでにセンドベルは国境付近に軍を駐留させていた。コカ・ルー領内の準備が整い次第、センドベル軍は国境を越え速やかにコカ・ルー全域に展開する。イオンザ国王ドゥバイルが差し向けるであろう国軍を迎え撃つ為だ。
ゆっくりと姿勢を戻す神父。「……で?」とリテュエインを見る。神父の顔を見たリテュエインは〝さすがに納得したか〟と思った。しかしすぐに〝ふん、当然だ〟と思い直す。
そもそも納得
「で、本題は何だ? そんな話をしに来た訳じゃないだろう。そもそも、俺にお伺いを立る意味がない」
「当たり前だ。お前に意見なんぞ求めちゃいない。良い話があると言っただろう、ここからが本題だ」
リテュエインはぐっと身を乗り出し「そうだな……」と、どこから話せば良いものかと思案する。そして口を開くと信じ難い言葉を吐き出した。
「まずは、この街を潰す」
少し間を置き、ようやく神父の口から「…………はぁ?」と疑問の声が漏れ出た。
「街を潰すってな……どういう意味だ?」
眉間にシワを寄せた神父を見て、そしてそのシワがあまりに深かったが為に、リテュエインは思わず「ハッ!」と声を上げて笑った。神父のそれは、リテュエインの思った通りの反応だった。
「意味も何も、言葉の通りだ」
リテュエインは薄っすらと笑いながら、
「この街の建物を片っ端から取り壊し、更地にした
「バカな……」
そう呟くや、神父は絶句した。街を潰し新たな街を作る? 一体何を言っている? 理解が及ばなかった。そんな馬鹿げた話、聞いた事もない。
「そんな事……そんな事出来る訳がない!」
怒鳴る神父とは対象的に、リテュエインは相変わらず
「出来るんだ、やるんだよ。ソルーブ陛下ははっきりと、そう明言された」
ワイナルからの密書に、センドベル国王ソルーブ三世は
コカ・ルーを治める辺境伯の苦悩は間者から伝え聞いている。その
ならば
辺境伯の抱える問題を解決してやるのだ。そうすれば、充分に収穫の見込める土地が楽に手に入る。北方に位置する国にとって、農地はこの上なく重要だ。街の再生と防衛に掛かるであろう金も、まぁいずれは回収出来る。
「ジェフブロックを解体し、新たな街を作る。まともな街だ。クソ共はいらねぇ」
まだ何も始まってはいない。しかしリテュエインは満足気な表情を見せた。この巨大なスラムが美しい街へと生まれ変わる。リテュエインはそんな素晴らしい未来に浸っていた。
対して神父は呆然としていた。あまりに大きな、そして突拍子もないこんな話を聞けば、誰しもそんな反応になるだろう。「途方もない話だ」と、リテュエインの話は続く。
「どれだけの時と金が掛かるのか……だがこれは、センドベルがこのコカ・ルーにそれだけの価値があると、そう判断した証拠だ」
突き放し放ったらかしのイオンザと、金と手間を掛けると約束したセンドベル。どちらを選ぶのか。至極簡単な選択だ。
「……クソ共はいらないってのには賛成だ。だが他の住人はどうなる? 街を潰して建て直しの間……保障は?」
神父の疑問は当然だろう。悪人ばかりの街ではあるが、善良な者もいる。だがリテュエインは顔をしかめると「知った事か!」と吐き捨てた。
「どいつがクソでどいつがクソじゃないか、一人一人調べろってのか? そんなもんやってられる訳がねぇ。全員立ち退きだ、街に残りてぇんだったらその辺にテントでも張っとけ」
椅子の背にもたれ腕を組み、面倒臭そうに話すリテュエイン。その態度に神父は怒りを覚えた。バンとテーブルを叩き「乱暴な! 無責任過ぎる!」と声を上げる。
「では子供らはどうなる! 貴様は子供らを放り出すつもりか!」
バンバンとテーブルを叩きながら怒鳴る神父。リテュエインはニッと笑った。ようやく話の核心部分に辿り着いたと、そういう笑みだ。
「あぁ神父、分かっている。俺だって鬼じゃねぇ、子供らは例外だ。何の罪も責任もないからな。助け舟は出すさ」
リテュエインの浮かべる笑みに、神父は何とも言えない不快感を感じた。口が悪く、品行方正とは言えない男。しかし腐っても街の統治官だ。口では何だかんだ言っていても、そして粗いながらも、仕事はしっかりとする。そういう奴だと認識している。が……
「……助け舟とは?」
拭い切れない不信感を抱えつつ、神父はリテュエインに問う。するとリテュエインは「受け入れ先を探したさ」と返答。神父の認識通り、どうやら仕事はしていた様だ。
「難儀したぜ? なんせこのジェフブロックにゃいくつも孤児院がある。子供の数も相当だ。コカ・ルーの他の街や、センドベル国内の孤児院……まぁ、どうにか大半は
「大半?」
「そうだ、残念ながら一部あぶれちまう。孤児院はどこもパンパンだ。世知辛い世の中じゃねぇか、天涯孤独の子供の何と多い事かよ……」
そう話して両手を組むリテュエイン。そして形ばかりの祈りを捧げるとパッと両手を離す。
「で、ここの子供らもその一部って訳だ」
肩を
「バカな! 受け入れ先がないと言うのか!? ここには四十から子供がいるんだぞ! 彼らにテントで生活しろと……!」
「吠えんなよ!」
「あぶれた子供らをどうするか、あれこれ思案したが……まぁ妙案なんてそうそう浮かぶもんじゃねぇ。さてどうしたもんかと思っていた所に、声を掛けて下さったのがこちらの御方だ」
リテュエインはスッと右手を横に向けた。その手に促される様に、神父の視線もすぅ……と動く。視線の先に座っているのは、リテュエインと共に訪れた女。
神父は女の顔を見た。女もまた、神父の顔を見ていた。二人の怒鳴り合いにも、テーブルを叩く音にも、動じるどころか眉一つ動かさなかった女。何者か。
「こちらはブロン・ダ・バセルのナイシスタ・イエーリー殿。喜べよ神父、お前の背負っている荷を請け負って下さる御方だ」
「ブロン……ダ…………?」
それは予想だにしない言葉だった。神父は大いに戸惑い、リテュエインを見て、そして再びナイシスタを見た。すると「初めまして、神父殿」と、ナイシスタは静かに口を開く。
「
そう話してナイシスタは笑顔を見せた。美しく、そして歪んだ笑顔だ。
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