いつか桜の降る頃に

桜部遥

出会い編

第1話 似たもの同士だね

 ——その季節が来ると、僕はある人影を思い浮かべる。

 真冬の凍った心を、ゆっくりと溶かしていく暖かな陽だまりの様な笑顔の子。

 いつも僕を振り回して、混乱させて。

 ……でも、それが不思議と嫌ではなくて。

 雪が溶けきると、空から花びらが舞い落ちてくる。

 淡いピンクの桜。

 桜の木々の隙間からは、麗らかな日差しが差し込んで、少しだけ目が眩む。

 耳の中に絶えず残る少女の楽しそうな笑い声。

 吹き抜ける風は優しく僕を包んでくれて、まるで彼女の様だと感じた。

 そよ風と、日差しと桜の雨と、そして笑い声。

 目を瞑れば、感覚が研ぎ澄まされて、あの日の光景の中に戻る事が出来るんだ。



 ——そしてまた思い出す。真冬に出会った女の子の事を。





 ‎✿ ‎


「……さむっ。」



 息を吐くと、目の前が曇る。石がごろごろして、少しお尻が痛くなってきた。眺める川がより一層冷たさを際立たせる。

『恋に落ちるのに時間は関係ない』と言うけれど、僕はその言葉の意味をまだ理解出来ないでいた。

 あぁ、きっと僕には人の心が分からないんだ。なんて、一人馬鹿なことを考えながら冬を感じる。

 冷たい空気が鼻に触れて、ピリッと痺れる。

 そんな僕の頭上を男女の声が通り抜けた。

 昨日から冬休みに入り、世間はクリスマス一色だ。

 やれ、プレゼントだ。やれ、カップルだと色づいている。

 もちろん、この街も例外ではない。っとはいっても、今の僕には関係ない話なのだが。

 川辺に一人、体育座りをして川を眺めている、陰キャ学ラン男子がそんな流行りに乗っているようなやつに見えるだろうか。

 きっと街角アンケートで百人に聞いても間違いなく、九十九人は『見えない』と即答するだろう。けれどもし、たった一人だけ『見える』と答えるやつがいたのなら、そいつはきっと……。

 いや、馬鹿なことを妄想するのはよそう。これは……そうだ。昨日のせいだ。だから決して僕のせいでは——


「ねぇ、そこで何してるの?」


 高い、女の子の声。

 その声を聞いた瞬間、さっき思いかけていた事がふと頭をよぎる。

 ——あぁ、そうだ。

『見える』と答えはたった一人のそいつはきっと……誰よりも馬鹿なやつなんだ。



 振り返るとそこには知らないセーラー服をきた女の子がいた。赤と緑のチェックのマフラーが顎の上まで隠している。僕に合わせて、少し軸を落としているせいか、ポニーテールの長い髪が、静かに肩から落ちる。まるで、世界が違うその少女に僕は一瞬言葉を失っていた。

 吸い込まれて行きそうな程に美しい瞳。

 灰色だった景色の中に、彼女だけが色を持っていた。


 もしも『一目惚れから始まる恋愛』があるとするなら、主人公は多分こんな感覚だったに違いない。

 別世界の住人みたいなヒロインに胸を撃たれて、自分を変えようと奮闘する。

 まあ、僕みたいな非力でひ弱で、軟弱な奴は、変える努力もしないんだろうけど。

 そんな事を想像しては、彼女の問いに答えようと口を開いた。


「あ……別に。ただ川を見てただけ。」


 少女と目を合わせずらくなる。ここで目線を外したら自分の負けだ、なんて心の中で勝手に勝負をしていたけれど、やっぱり恥ずかしくなって自分から顔をそらす。……負けた。

 そんな葛藤をしていたとも知らずに少女は僕の横に腰を下ろした。目を合わせない僕を見て、ニカッと笑顔を見せる。

「そっか。でも寒くない?って言うか、なんで学ランなの?もう冬休みじゃないの?」

 その質問にはあまり返答したくないのだが。っていうか、なんでこの人は初対面の僕にずかずかと話しかけるのだろう。

 そんなことを言いたくなって一瞬だけ彼女の方を見るけどやっぱり逸らした。

 僕の目をじっと見ながら、目を丸くしてキョトンとした彼女の表情は、愛らしいと思ってしまった。

 ダメだ、別次元すぎる。月とすっぽん、天と地の差が僕と彼女の間にはあるんだ。

 自分で自分に『お前弱いな!』って笑ってやりたいけど、多分それをやったらもう自分で立ち直れなくなりそうだったから辞めてみた。


 少し間を置いて何とか言い訳的なのを探す。言えるわけない、本当のことなんて。きっと言ってしまったら爆笑されて終わりだ。

 今日初めて会った美少女に、真実を話して幻滅される……ラブコメにしては中々珍しい展開かもしれない。

 必死に思考回路を巡らせるけれど、その間の沈黙と、突き刺さる視線に耐えられなくなってしまった。

 唾がつっかえないように、一度唾を飲み込んでから口を開いた。


「そ、の……昨日彼女に振られて……。それで間違って学校行こうとしたけど、今冬休みだって気づいて……。」


 また沈黙。あーあー、そうですよ!二週間前に初めてできた彼女に昨日振られて、そのショックで日にちの感覚が狂って今日も学校あるって勘違いしたんですよ!……もうホント死にたい。

 涙目になりそうなのを必死に堪える。

 男の威厳なんてこれっぽっちも無い背中からは、彼女の痛い視線が突き刺さる。

 横目で彼女を見ると、目を丸くさせて口を開けていた。

 知っている。この後盛大に笑われるんだ。さよなら、僕の青春。僕のアオハル。グッパイ。また来世であおう。あえたらだけど。あ、もうほんと死にたい。

 そんなことをもんもんと考えていると、隣からぷッと吹き出す音が聞こえた。あぁ、もう最悪だ。

「あははは!なーんだ、そんなことかぁー! なんかしんみりしてたから、てっきり自殺でもするのかと!あははは!」

 おい、笑いながら何をサラッと言ってるんだ。

 自殺って……それほど根暗に見えたのか、僕。自分でもそれなりに分かってたけど、まさかそこまで陰キャに見えていたとは。

 手で覆い隠そうとしているけれど、大きな口が全然隠せていない。

 気品があるのか、無いのか分からない少女だ。

 しかしまあ、僕の言葉がかなり面白かったらしく、足をじたばたさせて声を荒らげていた。

 ひとしきり笑い飛ばされると、少女はゆっくりと息を整える。あまりにも笑いすぎたらしいのか、瞳が少し潤んでいた。少しムカつく。

 と、その事が彼女にも伝わったのか、肩をポンポンと叩かれた。

「いやぁー悪かった!悪気があったわけじゃないんだけどねー、そっか。振られたのかぁ。じゃあ私と一緒だ。」

『一緒』という言葉に顔をあげる。すると少女はニハハと少し寂しそうに笑ってみせた。そして目をそらす。今度は僕からではなく、彼女からだった。

 初めて見る、彼女の横顔。骨格がよく分かるほど痩せた美しい横顔に少しだけ見とれてしまった。

 目を細めて、少しだけ声のトーンが低くなる。寂しげな声色のまま、少女は語り始めた。

「私もね、先月彼氏に振られたの。『お前、俺のこと本気で好きじゃないだろ』だってさ。それね、否定出来なかった。多分……そうなんだと思う。私、最低だ。人の気持ちを踏みにじったんだから。」


 それが彼女が言った『一緒』の意味だった。


「あ、でも今日制服なのは、隣街の学校に忘れ物をしたからだよ?そこは違うからね?キミのはただのおっちょこちょい。」


 せっかく人が少し同情していたのに、その一言で一気に冷めた。僕の気持ちを返せ。

 っと思っていたけれど、彼女の横顔はまだ暗いままだった。さっきのは彼女なりの冗談……っというわけではなさそうだ。

 でも、それでも、彼女の気持ちはほんの少しだけ分かる気がする。けれど。僕は彼女とは違う考えだった。だって、きっと——。


「そうだね、違う。やっぱり違うよ、僕と君は。だって君はちゃんと悩んでる。僕なんて、振られても仕方ないとしか思えなかったんだ。だから違う。君はすごく優しいんだ。優しくて……それでいてずっと孤独なんだ。」


 上手く言葉に出来なかった。本当はもっと上手く言えたはずなのに。声に出したら、それと共に感情が溢れ出して、勢いよく流れる水のように、制御がきかなかった。

 あまりに寒いからなのか、それとも恥ずかしかったからなのか、僕の耳は赤く染まっていた。多分、彼女にも気づかれていたと思う。でも彼女は、それを笑い飛ばすこともせず、黙ることもなく。ただ優しく笑った。

「そっか。」

 ただ一言。その声があまりにもやさしい声で、でも少し震えてて。彼女の方を向けなかった。

 少しの沈黙。そして、少女は僕の顔を覗き込んだ。

「私もね、君ならそう言ってくれるかなって思ってたよ。」

 一度思考が停止する。何を言っているんだ、この子は。僕がそう言うと思った……?

 驚きと困惑から彼女の方を向く。少女と目が合うと、彼女は白い歯を見せてニカッと笑った。


「似たもの同士だね、私達。」


 僕はその言葉を肯定したくなかった。でも、否定も出来なかった。本当に不思議な感覚だ。彼女の瞳に飲み込まれそうになる。息をするのを忘れそうになる。言葉が出てこない。まるで、この時が一生続くかのように思えてきた。それくらい、その時の少女は魅力的だったと思う。


「あれれ?顔、真っ赤だよ?」


 少し、煽るように笑う彼女を見て、初めて自分の顔が熱を帯びている事に気付く。今ならきっと、真冬の川に飛び込んでも平気にすら思えてきた。

 熱い。全身が、燃えるように。どこかの恋愛小説でもそんなことをいっていた気がする。でも、願わくば、これが恋ではないといい。


 けれどそれは、僕の勝手な願いだった。もし、それが恋だと認めていれば、少しは違う結末だったのだろうか。


「ね、名前教えてよ。私は雪葉。」


 立ち上がった彼女は僕に手を差し出す。

 宝石のように輝く彼女の瞳の奥にある影は、まるで全てを見通しているかのようだ。

 少し戸惑った後、彼女の掌をゆっくり触りながら重心を起こした。


「とわ。永遠って書いて『とわ』。」

「永遠くんか。……うん、いい名前だね。ねぇ、永遠くん。振られた者同士の冬休み、一緒に過ごさない?」


 そんな、唐突すぎる質問に、僕はなんて答えたのだろうか。決まってる。きっとしょうもない答えだ。

 僕は、僕という人間を知っている。けれど彼女……雪葉のことはまだ知らない。


 ——はずだ。けれど、そんな考えもきっと雪葉にはお見通しなのだろう。


 とりあえず、僕の終わったはずの冬休みは、こうして幕を開けていたしまったのである。

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