第46話 姫乃、照れる

 それから雑談をすること一時間弱。外も薄暗くなり、立ちながら帰宅の準備を進める龍馬に——姫乃は真顔で言った。唐突だった。


「シバと一緒に帰る」

「い、一緒に!?」

「どうして驚くの」

「驚くよそれは……」

「シバは姫乃と帰るの、やだ?」

「そうじゃないよ。たださ、これは姫乃を責めるわけじゃないけど……この前、姫乃はミスしただろ? 『教室で彼氏がいる』って聞こえるように言って」

「っ、ごめん……なさい」


 そう、姫乃はやらかしている。一度ヘマを侵しているのだ。

 友達の亜美に彼氏がいないとバレそうになり、必死になって隠そうとした結果、龍馬が言ったミスを。


「俺はもうその事を気にしちゃいないけど……周りは誤解したままだろ? 姫乃は大学で人気もあるし、俺と一緒に帰ったら波風が立つのは目に見えてる。地雷原に自ら進むようなもんだ」

「で、でも……姫乃はシバと帰りたい……」

「気持ちは本当に嬉しいんだけど……。ここは譲れないんだよ」

「やだ……」


 姫乃は龍馬の裾を掴んだ。ここから逃さないように。

 だが、その手に込められている力は龍馬にとっては微弱なもの。振り払うことも簡単、毅然とした態度を見せることも出来る。


 ——しかし、姫乃の容姿は幼いのだ。大学生だと分かっていても弱いものイジメをするような気持ちになってしまい、強く出ることができなかった。


「お金あげる、から」

「代行時以外にはお金はもらえないよ。これは前にも言ったけど」

「クッキーも、あげる……」

「そう言う問題じゃなくてだなぁ」


 姫乃は譲歩することなく条件を出してくる。何か引けない理由が存在しているかのように。


「どうしてそこまで俺と帰りたいの? 姫乃が頑固になる時ってちゃんとした理由がある時だから。理由、話して」

「……だって姫乃、シバにいっぱい迷惑かけてる……」

「そ、そんなことないよ」

「そんなこと、なくない。姫乃のために電話もしてくれる……」


 姫乃は感謝しきれないほどの恩を龍馬に抱いていた。

 漫画家として活躍しているからこそ知っている。

 出版社、編集者という上の立場に要望を通そうとする時の勇気を。上からどのような言葉が返ってくるのか分からない怖さを。


 それなのに龍馬は実行する。自分自身の為ではないのに、会社からの印象が悪くなるのも恐れず、なんの躊躇いを見せることもなく、嫌な顔をすることもなく。


 こんな対応をされてどう思うか。——少しでも恩を返したくなるに決まっている。


「だから、姫乃がシバのお話し相手になる。悪いこともいっぱい言っていい……から」

 口下手な姫乃は今、何が出来るか一生懸命考え……見つけた。

 龍馬の悩みや愚痴を聞く人がいれば少しは気が楽になるんじゃないかと。


「姫乃、気を遣いすぎ」

「そんなことない……」

「優しすぎだって。俺なんかのためにさ」

 ありがた迷惑だなんて龍馬は思わない。こうして考えてくれたことが嬉しかった。


「そんなこと、ない。姫乃はわがまま……。シバが優しい……だけ」

「謙遜しなくていいよ。ありがとう姫乃」

「……」


 大きな身長差がある分、上目遣いの姫乃と嬉しそうに破顔する龍馬の視線が絡み合う。その瞬間、

「っ、ううん……」

 龍馬から逃げるように姫乃は足元を見た。


 今履いている黒のレースアップシューズを否定するようにふるふると首を振る。連動するように銀の髪が揺れ、そこから見えた白く小さな両耳は熟れたりんごのように赤くなっていた。


「どうかした?」

「な、なんでも……ない……」

 そこで姫乃は龍馬の裾にぎゅっと強い力をこめた。まるで手を離すことを拒むように。


「そ、それなら良いけど……。じゃあ一緒に帰ろっか」

「いいの……?」

「もちろん」


 遠慮を含ませた赤らめた顔。それが龍馬の見た姫乃だった。

 龍馬はこの厚意こういを無駄にすることは出来なかった。これから先、良い関係を築いていくためにも。


「あ、でも少しだけ時間くれる? メガネを外して髪セットするからさ。これで俺だってバレないと思うから」

「メガネ外しても、目は見えるの……?」

「コンタクト持ってきてるから。ワックスもだけど」


 一緒に帰ると判断した龍馬にはこの策があったのだ。こうしてプライベートでのイメチェンをすることで、オフ状態の龍馬に矢印を立てない方法が。

 龍馬がワックスやコンタクトを常に持ってきている。大学が終わってそのまま書店のバイトに向かうからである。


「ほんとにいいの……?」

「何度も聞かれても困るって。俺と一緒に帰ってくれるんでしょ?」

「ん、帰る……」

「ありがと」

「ん……姫乃、こそ……」


 ようやく話が付く。あとは龍馬が準備をするだけである。


「姫乃……? 裾握られてたら準備出来ないんだけど……」

「ご、ごめんなさい」

「ははっ、そんな丁寧に謝らなくていいよ」

「う、うん……」


 ハッと驚く姫乃はすぐに手を離し、チラチラと龍馬に視線を送っていた。


「シ、シバ。姫乃の手鏡……使う?」

「それは助かる!」

 龍馬は毎日コンタクトとワックスを使用しているわけではない。

 鏡を見なければ上手く出来ないのだ。


「ん。少し待ってて」

 姫乃は家から持ってきたバックを開け、ゴソゴソして手鏡を取り出した。

 すこしぽっちゃりした可愛いコウモリが描かれている丸い手鏡。

 姫乃らしいチョイスだった。


「はい」

「ありがとう。少し時間かかるけどごめんね」

「大丈夫……。でも、シバが変わるとこ、見てていい?」

「それくらいなら。面白くはないと思うけどね」

「ん、平気」


 そうして龍馬は椅子に座ってバックからレンズケースとワックスを取り出し、手鏡を見ながらイメチェンに移った。


 先にメガネを外し、両眼にコンタクトを入れて視界を確保した後に手にワックスを広げ髪に馴染ませていく。

「……」

 その様子を興味深そうにじいっと凝視する姫乃。龍馬は真剣に取り組んでいるために気づいていない。


 7分ほどかかる龍馬の髪のセットは完成した。


「こんなもんかな……。じゃ、手洗ってくるね。ワックスでベタついてるから」

「う、うん」

「あれ……姫乃、顔赤くない? 大丈夫?」

「っっ!?」

 龍馬は確認目的で姫乃に顔を近づけた。同一人物だとは思えないくらいに、容姿に差が出ている。TVで出ていてもおかしくないほどのビフォーアフターだ。


「え、赤み……増してない?」

「そっ、そんなことないっ。早く手洗う」

「あはは、ごめんごめん。じゃあ行ってくる」

「……ん、ばいばい」

「また戻ってくるからね!?」


 なんて言いながらも『バイバイ』と手を振った龍馬は手洗いに行った。


 空き教室、一人だけになった姫乃。

「……」

 龍馬のレンズケースの蓋を閉め、ワックスも蓋を閉める。すぐ帰れるように気を利かせて整理をしていた。


 最後、私物の手鏡を取り——そのまま直そうとした最中、偶然姫乃の目端に映った。

「え……」

 気のせい? と鏡を顔の正面に映し、確認。

「っっ!!」

 バケモノを見たような反応する姫乃はすぐに手鏡をカバンに入れた。


 鏡は左右反対で見える。が、色までは変化することはない。

 ……姫乃はちっこい両手で顔を覆い隠し、耐え凌ぐようにうめいていた。


「うぅ……、シバの、せいだよ。……変わりすぎ、だよ……」

 漫画や小説でよく出てくるようなギャップに、姫乃はやられてしまった。

 龍馬の陰から陽の変化は凄まじかったのだ。


「あんなに……かっこよくなる、のは……ずるい……」

 鏡に映ったバケモノ、それは夕焼けに染められたような、言い訳できないくらいに色染まった所有者の顔だった……。


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