光を取り戻せ

第158話

 夜の砂漠で、三つの紅い光が軌跡を描く。

 ムカデやサソリの魔物が次々に斬り伏せられ、紫の血を砂の上にばら撒いていた。


「あとどれくらい⁉︎」

「残り四割を切ったところです」

「まだまだいやがるってことかよ!」


 紅い瞳を輝かせた半吸血鬼の三人は、短く言葉を交わすと再び翼をはためかせ、戦場を駆ける。

 黒い大鎌を振るう葵は、容易く魔物の命を刈り取りながらも、内心で焦りを覚えていた。


 魔力の減りが早い。異能が上手く使えない。足が普段よりも重いのは、ここが砂漠だからというだけじゃないだろう。


 理由は明白、血が足りていないから。


 また一体ムカデを斬り伏せたが、徐々に息も上がってきた。

 ここで注射器を、朱音の血を使わせてもらうべきか。しかしカゲロウと違って持続時間は短い。まだ姿を現していない悪魔と蓮の相手をする時に時間切れ、というのが最悪のパターンだ。


 けれどこのままでは、やつらが来る前に魔力か体力のどちらかが切れてしまう。

 どうするべきかと悩んでいると、足元の砂からサソリの尾が飛び出してきた。


「くっ……!」


 思考に気を取られていたせいで反応が遅れる。ただそれだけなら、いつもの葵であれば躱せたはずなのに。既に体力を消耗していたからか、足を砂に取られて姿勢を崩してしまった。


 おかげで直撃は免れたが、鎌を持っていた右手にサソリの尾が掠る。

 瞬間、鋭い痺れが右腕に走った。

 思わず鎌を落としてしまい、全身を砂の中から露わにした巨大なサソリが、両腕の鋏で襲いかかってくる。


「このっ……!」

「葵!」

「姉さん!」


 咄嗟に張った防護陣で防ぐが、サソリは意外なほどのパワーで何度も鋏を振り下ろす。

 異変に気づいたカゲロウと翠が駆けつけようとするも、魔物の物量に圧されてそれどころではない。


 右腕の痺れが少しずつ全身に広がってきた。このサソリの尾には毒があったのだろう。などと冷静に分析している場合ではない。

 今の葵では、防護壁を展開しながら異能の行使は不可能だ。一撃を防ぐたびに魔力がゴッソリと持っていかれて、演算に集中できない。隙を見て離脱するしかないけど、体の痺れがそれを許さない。


 いよいよ防護壁にヒビが入り始めた時だった。サソリの猛攻が不意に止む。

 硬い外殻に覆われた体が縦に両断され、紫の血を撒き散らした。


 カゲロウと翠はまだ別の場所で戦っている。なら誰が。

 そう思い顔を上げた先、感情の見えない真っ暗な目と視線がぶつかって。


「蓮くん……?」


 髪を灰色に染め、黒く堕ちた聖剣を持つ少年が立っていた。


 名前を呼んでも、言葉は返ってこない。

 もしかしてと淡い期待が過ぎる。けれど、こちらに向けて振り上げられた聖剣が、なによりも雄弁な答えとなっていた。


 分かっていたことだ。分かっていた、そのはずなのに。

 彼が自分に剣を向ける。その事実を未だ信じられなくて、葵はただ目を丸くすることしかできない。


 目前まで迫る漆黒の刃。だが葵と蓮の間に躍り出た白銀が、その剣を受け止めた。


「よお蓮、随分とバカな真似してんじゃねぇか」


 ニヤリと口角を上げたカゲロウが、月光を受けて白く煌めく大剣を力任せに振るう。後ろに大きく弾き飛ばされた蓮は、空中で態勢を立て直し難なく砂の上に着地した。


 両者が睨み合う間に翠も駆けつけ、異能で体の痺れを消してくれた。


「大丈夫ですか、姉さん」

「うん、ありがと翠ちゃん」


 立ち上がり、落としていた鎌を拾い直す。見つめる先に立つ蓮は、聖剣に黒い魔力を纏わせていた。今にもそれを撃ち出してきそうだ。やはり戦うことは避けられないか。


 そんな蓮の隣の空間が、歪んだ。

 脳が遠近をまともに捉えなくなり、歪みは徐々に広がっていく。

 やがてそこから現れたのは、フクロウの頭を持つ男。異質な魔力と存在感を放つ、ソロモンの悪魔。


「人間、ではないな。吸血鬼との混ざり物か。なるほど、契約者が言っていたのは貴様らだな?」


 序列七位、アモン。

 七つの大罪の強欲を司る悪魔だ。


「姉さん、カゲロウ、予定通りに。悪魔の相手はわたしに任せてください」

「度し難いな」


 こっそりと耳打ちしてきた翠の姿が、消えた。すぐ隣にいたはずなのに、悪魔の声が割り込んできたと思えば遥か後方を二人で飛んでいる。金属音が何度もここまで響いてきて、それよりも大きな悪魔の叫び声が聞こえる。


「全く度し難い! 貴様ら人間、吸血鬼風情が! ソロモンの悪魔たる儂に! なぜそのような口を利くのか!」


 鋭く振るわれる悪魔の腕を、翠はハルバードでいなし、翼をはためかせて躱し、巧みに立ち回っている。

 しかしそれがアモンの怒りを煽るのか、攻撃は苛烈さを増すばかりだ。


「姉さん、わたしのことはいいからっ! そちらは糸井蓮の相手に集中してください!」

「他人を気にしてる余裕があるかァ!」

「ちっ、火天アグニ!」


 翠のことは心配だけど、今の葵よりも強いことは事実。人の心配をしている暇などありはしない。

 炎の巨人が現れたのを見て、葵は視線を正面に戻した。


 同時に、捉えきれない速度で肉薄してきた蓮が、眼前で剣を振りかぶっている。

 鎌の柄で一撃を受け止めるが、あまりに重い。カゲロウが横から割って入って再び距離を取るが、やはり蓮は以前よりも強くなっている。


「戦えるか?」

「当然」


 懐から注射器を取り出し、腕に刺す。


 ドクン、と。心臓が高く鳴った。

 全身に力が漲ってきて、ずっと感じていた渇きが潤う。黒い翼は鋭利な形へ変化し、瞳は紅く輝く。


 注射器で摂取したのに、なぜだろう。美味しいと感じるのは。

 朱音の血、そこに混じった魔力がそれだけの濃度を誇ってるのだ。

 これが賢者の石を宿した者の血。蓮とのように相性の良し悪しは関係なく、摂取した者に絶大な力を与える。


 以前、ネザーの関東支部で使った時よりもずっと、湧き上がる力が大きい。


 いける。これなら戦える。


「絶対に取り戻す。今日、ここで」


 その身に稲妻を纏い、黒霧葵は砂漠の上を駆け出した。



 ◆



 情報操作の異能による副作用、情報の可視化によって、出灰翠は敵の悪魔が持つ異質さに気づいていた。


 ソロモンの悪魔、序列七位アモン。

 こいつは七つの大罪において強欲に数えられる悪魔なのだが。


「人間と吸血鬼の混ざり物風情が、神の真似事とは! その不遜、断じて度し難い!」


 炎の巨人が持つ剣と悪魔の拳がぶつかる。衝撃と熱が周囲一帯に広がり、地上の魔物たちは巻き添えを食らっていた。

 神氣を帯びた巨人の一撃は、悪魔の体を地面に叩きつける。ソロモンの悪魔だか七つの大罪だか知らないが、神の力に逆らえないのは絶対のルールだ。


「七つの大罪、強欲。それだけではありませんね。傲慢と憤怒も持っている」

「ぬぅぅぅ……! 食らってやる、契約者の命令など知らん! 貴様はこの儂が、直々食らってやるわ!」

「暴食も追加ですか、随分と欲張りですね。いや、だからこそ強欲の悪魔なのか」


 人間を見下す傲慢、浮かべる表情は憤怒、命令も顧みずに欲を優先する暴食と強欲。


 七つの大罪のうち、四つの要素が一体の悪魔に埋め込められている。

 怠惰、嫉妬、色欲がない辺り、より戦闘に特化した結果なのだろう。グレイの目的である全人類の抹殺を考えれば妥当なところか。


 なんにせよ、厄介なことに変わりはない。神氣や位相を操れる自分なら、この悪魔と対等に戦える。


 さっさと倒して、姉さんたちの助けに向かおう。


 そう思い、魔力と神氣を解放しようとした時だった。

 巨人を構成している炎が、徐々に消えていく。いや、吸収されている。砂の上で憤怒の表情に染めた悪魔へ。


「貴様のその炎、儂がもらってやろう!」

「バカな、この炎は火天アグニそのものなのに……!」


 この世に偏在する火を司る神、アグニ。

 それが翠に植え付けられた神の記号だ。この巨人は神の力の再現などではなく、正真正銘アグニそのものと言える。


 その炎を奪うなどと、そんなことが可能なはずない。

 だが実際に起きている。翠の想定よりも強欲の力は強力なものなのか。いや、それだけのはずがない。


「儂はソロモン七十二柱の序列七位、炎の侯爵アモンであるぞ! 混ざり物風情の炎などいくらでも喰うてやるわ!」

「くッ……アグニを維持できない……!」


 やがて全ての炎が吸収され、巨人が姿を消す。空中に取り残された翠は灰色の翼を広げて態勢を整えるが、地上の悪魔を見下ろしギョッとした。


 吸収した炎を纏い、神氣を帯びたアモン。

 翳した手の先には巨大な火球が生まれている。膨張を続け、今にも爆発しそうなそれは、ただの火球ではない。

 吸血鬼としての本能が告げているのだ。あれは絶対的に忌避すべきもの。まともに受けたらまずい。


「混ざり物といえど、こいつを受ければひとたまりもないだろう?」

位相接コネク──」

複合神性アメン炎陽隠王ラー!!」


 膨張を続けていた火球がついに破裂し、超高熱の炎が直線状に撃ち出された。

 ドレスの顕現が間に合わず回避に移行するが、躱しきれない。右半身と右翼が灰も残らず消し飛び、砂の上に墜落する。


 もはや痛覚が正常に機能する段階は超えていた。痛みや熱さを感じるよりも、ただひたすらに苦しさを感じる。


「ァッ……ゥァ……」


 再生が始まらない。呼吸もまともに出来ず、餌を求める魚のように口を開けて喘ぐ。その顔も右半分は消し飛んでいて、しかしあまりの高熱に焼かれたからか、血は一滴も漏れていない。

 溶断部に付着する砂が気持ち悪い。油断していた。ただの悪魔だと思っていたのに、まさか神氣を扱えるだなんて。


 古代エジプト文明において君臨されたとされる、神々の王。二柱の太陽神が複合されたその神は、悪魔アモンと同一視されることがあるという。

 故にやつは、太陽神の力を使ってみせた。

 しかしそんな情報は視ていない。つまり、強欲や暴食の力により奪った翠の炎が影響して、たった今使えるようになったということか?


 あまりにも絶望的な状況。翠は遺伝子の七割近くが吸血鬼であり、そうである以上は太陽の脅威から逃れられない。例え別の神話における太陽神の記号を植え付けられていても、そんなものは関係なくこの身を焼く。

 でも大丈夫、まだ思考は続いている。演算も可能だ。


 こんな状態でも動く脳に、自分の体ながら辟易としてしまう。

 消し飛んだ体の再構成。服まで戻している余裕はない。せっかく葵からもらった黒いゴスロリドレスは、左半身に引っ掛けるような形になってしまって、右半身は隠すべき肌が剥き出し。

 羞恥心など感じるわけもなく、力を振り絞って立ち上がる。


 しかし再び翼を広げるよりも前に、三本の炎の刃が体に突き刺さった。


「ッづ……!」

「吸血鬼というのは無駄に硬くて面倒だ。生きたまま食らってやるのがいいか?」


 肉薄してきた悪魔に頭を鷲掴みにされ、足が地面から離れる。突き刺さった炎の刃は消えることなく、翠の体を内側から焼き続けていた。この刃にも、太陽神としての神氣が込められている。

 吸血鬼の遺伝子を持つ翠には抗えない。プロジェクトカゲロウで生まれた半吸血鬼としては、どう足掻いても殺される。


 それでも、諦めるわけにはいかない。


 瞳からは強い意志の光が消えず、鷲掴みにしている指の隙間からフクロウの頭を見下ろす。それが癪に触ったのか、頭を掴む手の力が増した。


「苛立たしい目だ……混ざり物風情が、儂にそのような目を向けるな!」

「ああああああッッッ!!!」


 ミシミシと嫌な音が聞こえ、痛みのあまり悲鳴が上がる。

 でも、こんな痛みには負けない。

 プロジェクトカゲロウの半吸血鬼として勝てなくても。今の翠は、ただそれだけの存在ではないのだから。


 みんなとの未来を求めるキリの人間としてなら。あの人の妹としてなら!

 こんな悪魔なんかに負ける道理はない!


位相接続コネクト!!」


 頭を鷲掴みにされたままの翠が光の柱に包まれ、アモンの腕が焼け落ちた。

 なにかまずいものを感じ取ったのか、悪魔は即座に距離を取る。


 やがて光が晴れて現れたのは、アウターネックの黒いドレスに三角帽子ウィッチハットを纏い、胸元に半透明の結晶を露出させた翠だ。背中にはいつもの灰色の翼が広がっていて、手にはハルバードを持っている。


君臨せし魔の探求者レコードレス・ウィッチ!」


 魔女から譲り受けた絶対の力が、ここに顕現した。


 アモンの目は驚きに染まっている。

 ドレスを使えるのはキリの人間のみ。中でも桐生織、桐原愛美、桐生朱音の三人が代表的だ。賢者の石を宿す者にしか使えないのだから。


 契約者からはなにも聞いていなかったのか、翠が位相の力を、それもレコードレスを使えるとは思いもしなかったのだろう。


「なぜ混ざり物の貴様ごときが位相の力を……!」

「未来を求めているから。ただそれだけです。ただの混ざり物じゃない、わたしは出灰翠というひとりの人間としてここに立っている」

「ほざけ! 位相の力が使えたからなんだと言うのだ! 儂ら悪魔に死の概念はない。契約者から無限に供給される魔力がある限り、負けることなどあり得ないのだ!」


 怒りに呼応して、アモンの魔力が増幅される。これが憤怒の力。

 そして同時に、敵が格下だと思い込むことによっても力は増す。それは傲慢の持つ力だ。


 格下であるはずの翠が、悪魔にとって予想外の強さを見せている。それは許されざることであり、怒りを爆発させるには十分。


 両者が同時に地を蹴った。鋭い腕と斧槍がぶつかり、落雷のような轟音が響く。

 力負けしたのはアモンの方だった。翠のハルバードに押し切られて仰け反り、追撃のゼロ距離砲撃に飲み込まれる。


 離れた位置で体を再構成させた悪魔から、無数の炎の刃が放たれた。神氣を帯びたそれは、太陽の力が込められたもの。

 半吸血鬼の翠には絶対的な威力を発揮する。


 しかし、それはただの半吸血鬼であれば、の話だ。

 今の翠は違う。位相の力とは、魔術も異能も神氣も、あらゆる超常の力全てを支配下に置くもの。


「無駄です」

「チィッ!」


 迫る炎は空中で静止し、その矛先を本来の術者へと変えた。

 魔女が創り出した力の一端、略奪。

 ただひとつの例外もなく、あらゆる力を奪う。翠に受け継がれた力のひとつ。


 空中で炎を躱すアモンは、魔術頼りの戦いは無駄だと判断したのか。弾丸のような勢いで再び肉薄してくる。

 炎を纏った腕が振るわれ、ハルバードで迎え撃つ。だが結果は先ほどと違った。

 ぶつかり合うことはなく、悪魔の腕が斬り落とされる。怯み生まれた一瞬の隙に、翠は得物を勢いよく振り抜いた。


 砂漠の上を何度もバウンドし、後方へ大きく吹き飛ぶアモン。

 追撃の手は緩めない。魔力を解放して術式をその場で創り出し、夜空に巨大な魔法陣が広がった。


「我が名を以って命を下す。其は悉くを焼き滅ぼす炎龍の業」


 詠唱が紡がれ、魔法陣から巨大な炎の龍が姿を見せる。とぐろを巻いていた蛇のような長い体が、地面に向かって一直線に落ちた。

 立ち登る火柱と撒き散らされる高熱。

 位相の向こう側から引き出した魔力は、悪魔の体を容赦なく焼く。


 それで終わりとは思えない。着弾地点へ飛び、空から抉れた地上の砂漠を見下ろせば、忌々しげに睨むフクロウの顔と視線がぶつかった。

 その体は満身創痍。やはり悪魔といえど、位相の力を前にすればなす術がないらしい。


「これが、あなたが混ざり物風情と侮ったわたしの力です。理解しましたか?」

「バカにしおって……!」


 悪魔を殺し切ることはできない。位相の力を持っていたとしても、死の概念が存在しないやつらを殺すことは不可能だ。

 けれど、翠には他の対応策がある。それが可能となるのも時間の問題。


 それまでに、姉さんの方の決着がつけばいいのだけど。


 チラリと見やった先。かなり距離が離れた先には、黒い雷が落ちていた。

 葵とカゲロウのことが心配になりつつも、翠は再び構え直し、自分の敵と向かい合った。



 ◆



 圧倒的。

 ただその一言に尽きた。


「……っ、ぁっ」

「クソッ……!」


 砂漠の上に倒れたカゲロウと、肉眼では捉えきれないほどに細く、それでいて強靭な糸に全身を絡め取られ磔にされた葵。

 全て、ただ一人の少年がやったことだ。


 糸井蓮。

 ソロモンの悪魔ダンタリオンに魂ごと精神を反転させられ、闇に堕ちた聖剣の担い手。


 強くなっているとは思っていた。けれど、完全に想定外の強さを見せつけられた。

 朱音の血を摂取した葵は、以前までの全力全開には及ばずとも、それに近い力を持っていたのに。

 位相の力は使えなくても、纏いや情報操作は完全に扱えるようになっていたし、吸血鬼としての身体能力や魔力も飛躍的に上がっていた。


 その上で、だ。

 圧倒的。

 ただその一言に尽きた。


「弱い」


 今まで全く口を開かなかった蓮が、低い声を出す。倒れた親友と身動きを封じられた恋人に、無感動な瞳を投げかける。


「弱すぎる。俺は今まで、こんなやつらと一緒にいたのか」

「蓮、テメェ……!」

「黙ってろよカゲロウ」

「ッ、があああああ!!」


 うつ伏せに倒れているカゲロウの背に、聖剣とは違うもう一振りの剣を突き刺す。剣崎龍から譲り受けた剣だ。

 鮮血が舞い悲鳴が上がる。葵にはなにもできない。目の前でカゲロウが苦しんでるのに、助けることができない。


 強靭な糸は葵の服や肌に食い込み、一切の自由を奪っていた。両腕は頭の上に挙げられ、手首をしっかり固定されている。

 なにか特別な力が働いているのか、異能も使えなかった。


「蓮くん、もうやめて……」

「やめてだって? どうして弱いやつから指図を受けないとダメなんだ?」

「あッ……が……!」


 糸の縛りが強くなる。全身から骨の軋む音が聞こえ、剥き出しの肌に食い込んでいる太ももやふくらはぎからは血も流れていた。

 学院の制服は徐々に破け、そこからも血が。鋭い痛みに涙が溢れる。


 体だけじゃない。心も痛くて、泣き叫んでしまいたかった。


「俺はもう、お前たちの知ってる糸井蓮じゃない。ヒーローになりたいだなんて戯言をほざいてた馬鹿は、どこにもいないんだよ」

「違うっ……! 蓮くんは蓮くんだよ! だってさっき、私を魔物から助けてくれた!」


 僅かに、蓮の目が揺らぐ。

 そう、今の蓮がなんと言おうとも、葵を助けたのは事実だ。それは変わらない。ならなぜ? 闇に堕ちたはずの蓮が、なぜ葵を助けた?


 きっとそこに光明がある。蓮を助けるための、ただの一つの光が。


「助けただって? なにを勘違いしてるんだ、葵。お前とカゲロウは、俺が殺す。そのために邪魔な魔物を排除しただけだ」


 憎悪に満ちた声。

 葵の体を縛る糸が蠢いたかと思えば、ブレザーとブラウス、下着がズタボロに引き裂かれた。羞恥心で顔が赤くなるけど、それも一瞬だけ。


 外気に晒された白い腹に、闇色の刃が当てられる。

 冷たい。

 金属の冷たさだけじゃない。人の命を奪う冷たさ。道具の形をした殺意。

 全身から温度を奪い、その切先がゆっくりと、葵の腹に食い込んだ。


 白い肌が瞬く間に赤く汚され、生々しくグロテスクな音が体の内から聞こえて来る。ゆっくりと、徐々に深く刺さる剣が、葵の臓腑に傷をつける。

 焼けるような痛みに、堪えきれず悲鳴を上げた。


「ぐッ、あぁッ……!」

「お前の知ってる俺は、こんな風にお前を辱めるやつだったか? お前の腹に剣を突き立てるやつだったか?」

「ちが、う……」

「ああそうさ、違うんだよ。なにもかも、前とは違うんだ」

「ちがう……蓮くんは、こんなこと……望んでない、でしょ……?」


 力を振り絞って、無理矢理な笑みを浮かべる。それが蓮の琴線に触れたのか、また、瞳が揺らいだ。表情がぶれた。


 腹から剣が抜かれ、傷口から血が噴き出す。糸の縛りがまたキツくなり、闇色の聖剣が振り上げられた。


「いい加減にしろよ……」


 怒りと憎悪に塗れた声をぶつけられても、葵は蓮から目を離さない。

 絶体絶命に陥っても、笑みは消さない。


 やがて振り下ろされた聖剣は、しかし葵の眼前で止められた。


「クソッ、なんでだよ!」


 どう足掻いても動かない腕。いっそ苦しんでいるようにも見える少年は、忌々しげに葵を睨む。


「いい加減にするのはテメェだ、蓮ッ!!」

「……っ!」


 横合いからタックルしてきたカゲロウに飛ばされ、その拍子に聖剣が手から零れ落ちる。

 葵を縛っていた魔力の糸は消え、そこから先の行動は早かった。


 今のままじゃ勝てない。蓮を取り戻すことはおろか、逆に殺されてしまう。

 それだけは、嫌だ。

 彼に、そんな罪を押し付けたくはない。


 懐から取り出すのは、二本目の注射器。異能で複製しておいた朱音の血。


「オイ待て! 二本目は」


 カゲロウの静止も聞くことなく、葵は注射器を腕に刺した。


 血が、全身に巡る。魔力が行き渡る。

 力が湧き上がってきて、けれどそれだけじゃ足りない。もっと力が、もっと血がいる。


 人間の血が、力を齎す血が。

 この渇きを潤す血が、足りない。


 視線を向けた先には、ひとりの少年が立ち上がっていて。


 なんだ、人間ならそこにいるじゃないか。


「雷纒」


 黒い雷が、砂漠の上に落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る