第60話

 葵の自宅である黒霧家は、東京都内のとある住宅街に位置している一軒家だ。二階建てでそれなりの広さを持っている。元々は家族四人で住んでいた家。

 桐原邸までも電車で行ける距離。実際、愛美に誘われて何度か遊びに行ったこともある。


 朱音とのショッピングを終えて帰って来た葵がリビングまで向かうと、すぐそこのキッチンから人の気配を感じた。同時に、空腹を刺激するいい匂いも。


「あ、お兄ちゃん。帰ってたんだ」

「おかえり、葵。向こうの仕事がひと段落したからな。もうちょいでご飯出来るから待ってろ」


 キッチンに立っていたのは、兄である黒霧緋桜。普段はアメリカの異能研究機関ネザー本部で働き、そこの宿舎で寝泊まりしているのだが。

 最低でも週に一度は、葵の様子を見に帰ってくるのだ。その時はいつもこうして、夕飯を作ってくれる。


「ご飯なに?」

「今日は俺も疲れてるから、鍋にしたよ」

「そっか。なにか進展あったりした?」


 緋桜がネザーにいるのは、あの機関とグレイとの繋がりを探るためだ。二ヶ月前のあの戦いの時、南雲は謎の魔導具を持っていた。

 対象の異能を、魂ごと吸い取る魔導具。まさしくその被害に遭った葵だが、その時に視て得られた情報は僅かなものだ。

 製造元と使用用途のみ。それでも十分なのかもしれないが、ネザーの闇を暴くには足りない。だからこそ緋桜は、未だネザーに所属しているのだ。


「いや、進展があったわけじゃないんだけどな。あっちで愛美と織に会った」

「え、本当⁉︎」


 思わぬ言葉に身を乗り出せば、緋桜は苦笑して葵を宥める。あとで詳しく話すと言って調理に戻ってしまったので、葵も一先ずは部屋に戻り、荷物を置いて部屋着に着替えた。


 ふと考えるのは、大切な友人とのこと。より正確には、前の自分と蓮のことだ。

 蓮があの子に好意を寄せていたのは、彼自身の口からも語られた事実だ。その上で改めて友人になってくれたし、葵も受け入れたけれど。

 なら、あの子は一体、蓮のことをどう思っていたのだろう。


 友人でありながらも明確な一線を引いていた。それは今の葵も知っている。言葉を選ばずに言えば、当時のあの子には恋愛にかまけてる余裕なんてなかったから。蓮の気持ちを知りつつも、知らないフリを通していた。

 じゃあ、あの子の気持ちは?

 分からない。記憶は共有されていても、抱いた感情までは共有されないから。


 いや、仮にそれが分かったからなんだという話だ。それはあの子達のもの。今の葵のものではない。

 もしもあの子が蓮のことを好きだったとしても、今の葵には関係のない話。

 同じ黒霧葵だけど、あの子達は私の一部だけど。私は私。あの子達とは違う存在。

 その筈だ。


 それ以上は思考に蓋をして、リビングに向かう。テーブルには既にカセットコンロが置かれていて、後は皿や箸を並べて鍋を持ってくるだけだった。

 キッチンの方に向かい、緋桜に声をかける。


「並べるの手伝うよ」

「おう、ありがとう。鍋も一先ず完成だ」


 緋桜が先に鍋を持っていき、その後ろから皿と箸を運ぶ。準備が出来たら向かい合わせで座り、二人揃っていただきます。


 こう言った家族とのなんでもない時間は、ちょっと複雑な気持ちになる。


「それで? 愛美さんと織さんに会ったんだよね? 二人とも元気だった?」

「元気だったよ。織の方は普段を知らないけど、愛美はなにも変わってなかった」

「そっか、ならよかった」


 愛美が大丈夫なら、織も大丈夫だろう。今の葵として交わした言葉は少ないけれど、二人がどんな人物なのかは理解してるつもりだ。

 どちらか片方が挫けそうでも、もう片方が支えて、何度でも立ち上がれる。そういう二人だから。


「でも、あの人たちってイギリスにいるんじゃなかったの?」

「イギリスの石持ちは全員倒したから、次はアメリカだそうだ」

「え、まだ一ヶ月しか経ってないのに?」

「毎日戦ってたらしいぞ。さすがに世話になってる屋敷の人に、定期的に休めって怒られたらしいけどな」


 なにが面白いのか、くつくつと笑う緋桜。いや、笑いごとじゃないだろう。

 毎日戦ってたなんて、そんなの。つらいに決まってる。苦しいに決まってる。体力的にも、精神的にも。

 二人がどれだけ強くても、全ての戦いが無傷で終わるはずがない。

 きっと葵が本人達に言ったところで、大丈夫だと笑い飛ばすのだろうけど。


「今は、ちゃんと休んでるのかな……」

「週に一日休みを取ってるってさ。心配しなくても、あの二人なら大丈夫だって、葵は知ってるだろ?」

「そうだけどさ……」


 それでも、心配なものは心配だ。

 たしかに二人は強い。魔女から譲り受けた賢者の石も、葵よりも強力な異能も持っている。それだけでなく、精神的な強さまで持ち合わせている。


 そんな彼女の背中に憧れた。

 愚直なまでの正しさと、鮮烈な優しさを併せ持った、とても強くてカッコいい先輩に。

 葵の中にある一年間の記憶にも、桐原愛美は強烈な存在感を放っている。


 だから、二人のことを疑いたいわけじゃないけど、安心して待っていることなんて出来ない。少しでも力になりたい。

 それが不可能だと分かっているから、こんなにも落ち着かないのだけど。


「二人のことはこれくらいでいいだろ。そっちはどうなんだ?」

「どうって?」

「カゲロウ、だっけか。グレイの息子とかいうやつ」


 豆腐を口に運びながら、緋桜はなんとなしに問うてくる。

 これまで兄とカゲロウのことについて話したことはなかったが、蒼から報告が行ってるのだろう。知ってて当然か。


「カゲロウはいい奴だよ。あの吸血鬼の息子だなんて思えないくらい。警戒する意味も特にないかな」

「なるほど。なら葵が悩んでるのは、別の理由か?」

「……悩んでなんかないけど」


 悩みなんてない。時折、考え事に耽ることかあるだけだ。悩みや葛藤なんてものにすらなっていない、それ以下の代物。

 誰かに打ち明けたところで、どうしようもない類のものだ。ただの自問自答なのだから。


 皿によそった野菜を食べながら、そっぽを向くように視線を外す。そんな妹の可愛らしい様に、緋桜は優しい笑みを落とした。


「ま、なにかあったらお兄ちゃんに相談しろよ。可愛い妹のためなら、なんだってしてやるからな」

「お兄ちゃん……」


 頼もしい兄の笑顔に、心があたたかくなる。

 いつか、この閉じた迷路のような自問自答に、答えが出たら。その時は、話してみようかな。


「特に好きな男とか出来たときはお兄ちゃんに相談しなさい。俺が葵に相応しいか見定めてやるから」

「お兄ちゃん……」

「おっと? 同じ呼ばれ方なのにこの温度差はなんだ?」


 やっぱり話せそうにない。ていうか、蓮のことを友人として話すだけでも、この兄はなにをしでかすやら。

 食事中、ついぞ葵の視線に温度が戻ることはなかった。そういうとこだぞ黒霧緋桜。



 ◆



 翌日、着替えや水着などの荷物をまとめて向かった先は、待ち合わせ場所の桐生探偵事務所。葵が着いた頃には、既に他のみんなは集まっていた。


「ごめん、遅れちゃった?」

「まだ時間前だよ」


 事務所前に立っていた蓮と軽く挨拶を交わして、その少し離れた場所で魔力を練っている二人とそれを眺める一人に視線をやった。


 有澄と朱音の二人が、複雑な術式を描いている。緻密で美しいその構成は、思わず感嘆の息が漏れてしまうほど。

 二人が小さく短い詠唱を口にした途端、術式に魔法陣としての形が与えられた。放出される魔力はどこまでも広がり、やがてこの街全体を覆う結界へと変わる。


「こんなもんですね。ありがとうございます有澄さん。私一人だと、このレベルの結界は無理でしたので」

「いえいえ、それはわたしも同じですよ。やっぱり凄いですね朱音ちゃん。流石です」

「えへへ」


 有澄に褒められて顔を綻ばせる朱音。微笑ましい光景だが、今しがた二人が行使した魔術は、葵のような普通の魔術師にとって信じ難いものだ。


「特定の相手からの侵入だけを完全に遮断する結界って……そんなのアリなんだ……」

「結界ってそういうもんじゃねぇのか?」


 疑問を呈したのは、朱音と有澄の魔術を興味深そうに見ていたカゲロウ。葵に軽く手を上げて挨拶し、こちらに歩み寄って来た。


「たしかに侵入を防ぐタイプの結界はあるけど、そもそもそれ自体もかなり難しいんだ」

「その上で、対象を事前に絞り込んでおくとか、殆ど反則技みたいなものだよ」


 結界には様々な種類が存在している。結界内への侵入を防ぐタイプであれば、人払いの結界などもその一種だ。しかしそれは、あくまでも人払い。意識から逸らすに過ぎない。

 他方で、たった今朱音と有澄が張った結界は、文字通り侵入を遮断するもの。いわば壁だ。それ自体は普通の魔術師でも使えるが、壁である以上は入るだけでなく出ることもできなくなる。

 その上で石持ちの魔術師のみに対象を絞っているのだ。葵は異能を使えば可能だろうが、純粋に魔術のみとなると、できる人間を探す方が難しい。


 一泊だけとはいえ、街を留守にすることを朱音が不安に思ったから、こんな大規模な結界を張ったのだろう。魔物が出現してしまった場合は、留守を任せる白い狼が対処してくれるだろうし。


「その分、持続時間も長くはないですが。丁度二十四時間と言ったところでしょうか」

「あ、おはよう朱音ちゃん、有澄さん」

「おはようございます。それにしても葵さん」

「どうしたの?」


 葵を見て、ニヤリと口角を上げる朱音。こういう時の朱音は大抵ろくでもないことを考えているのだが、今回ばかりは葵にも心当たりがない。

 まあ、これから向かう先を考えれば、朱音の脳内では幾らでもあることないこと妄想できるのだろうけど。


 なにせ沖縄だ。海だ。水着だ。バカンスだ。葵とて多少は漫画とかも読むから、創作の中においてそれなりのイベントであることは知っている。


 が、朱音の口から発せられたのは、旅行先でのことではなくて。


「随分と気合の入った服ですね」

「え、そうかな?」


 今日の葵はいつも着ている学院の制服姿ではなかった。マキシ丈の白いワンピースの上から、ベージュの夏用カーディガンを羽織っている。もちろん髪はいつものツインテール。

 多少は幼さが目立つが、清涼感もあるコーディネートだ。


「いいと思いますよ? せっかくの旅行ですので。ね、師匠」

「うん、普段中々見ないから結構新鮮だし、可愛いと思うよ」

「そ、そう? ありがと……」


 別に全然一切全くこれっぽっちも意識していたわけではないけど、面と向かって可愛いとか言われたら照れてしまう。ていうか、そこで蓮に話を振らないで欲しい。

 若干の熱を持ってしまった頬を冷ましつつ、葵はそんな二人の服装も確認してみる。


 制服を着ていないのはなにも葵だけでなく、朱音と蓮も私服に身を包んでいた。朱音は愛美のお下がりなのか、ホットパンツと半袖のティーシャツ。足は黒のタイツに包まれている。本当に小ちゃい愛美みたいだ。

 蓮はスキニーのデニムに七分袖のニットと、細身な彼に似合っているコーディネート。うん、まあ、正直カッコいい。


 因みにカゲロウはいつも通り。適当なジーパンに適当なシャツ。水着を買いに行ったついでに、服も蓮に見繕って貰えば良かったのに。


「全員揃いましたし、早速現地に向かいましょうか」

「転移使うんですか?」

「はい。時間も惜しいですし、カゲロウ君がいますからね」

「カゲロウが?」


 転移の術式を構成し始めた有澄が、カゲロウをチラと見やる。それにつられて三人ともが同じ方を向けば、カゲロウは申し訳なさそうに頭を掻いた。


「吸血鬼は水を渡れねぇんだよ。橋が架かってたり、転移したりは問題ないんだけどな。船なり飛行機なり、直接泳いで渡ったりはできねぇ」


 ああ、そう言えば吸血鬼の弱点にそんなものがあったか。半吸血鬼のカゲロウは、その弱点を中途半端に受け継いだのだろう。

 しかし、転移はともかくとして、橋は渡れるのか。基準がよく分からない。


「まあ、転移した方が早いからいいとは思うけど」

「あんまりバカンスって感じじゃなくなるな」


 苦笑する蓮の言う通り。宿へ向かう道中も含めて、バカンスの醍醐味と言えるのに。

 そもそも転移だって、葵が異能で使ったり朱音や愛美たちが簡単に使ったりしてるけど、それなりに高度な魔術なのだ。実際に葵は魔術では転移できないし、蓮だって使えない。


「それじゃあ行きますね」


 なんか色々麻痺してきてるなぁ、とか思いつつ、葵の視界は一瞬にして景色を変えた。



 ◆



「でか……」


 沖縄に転移してまず最初に訪れたのは、本日泊まるホテルだった。

 のだが、葵、蓮、カゲロウの三人は、そのデカさと漂う高級感に、フロントでフリーズしてしまっていた。


「えぇ……なんだこれ……オレたちが入っていい場所なのか?」

「ドレスコードとかないよね? 大丈夫だよね?」

「それは大丈夫だと思うけど……場違い感が凄いな……」


 まず、一階のフロントなのに天井がめちゃくちゃ高い。しかもそこにはシャンデリアが吊るされているし、その他の照明もなんかゴージャスな感じがする。

 広さは言わずもがな。休憩スペース的な場所にはソファとかめっちゃ置いてあるし、そこに座ってる人たちは見るからにセレブだし。


 と、葵の語彙力では言い表せられないほどの高級ホテルだった。ただの高級ホテルではない。最高級ホテルだ。一泊だけでも一体幾らのお金がかかっているのか。


 しかし一方で、お金の価値など存在しない未来からやって来た朱音は、全く動じずに有澄と並んで歩いている。


「綺麗なとこですが、装飾がなんだか派手ですね。壊したくなります」

「ダメですよ。たしかに何の意味があるのか分からないものばかりですけど、こんなのでも値打ち品ですから。弁償代もバカになりませんし」


 いや、それ以前に公共の場にあるものを壊そうとするな。

 受付でチェックインを済ませる有澄と、興味深そうに隣から覗き込んでいる朱音。しばらくしてから戻ってきた有澄は、蓮にカードキーを渡した。


「男女別で二部屋取りました。鍵は失くさないでくださいね。それからオートロックなので、締め出されないように気をつけてください」

「なんか、手慣れてますね……」


 この場においてあまりに堂々とした立ち振る舞い。葵たちと違って雰囲気に浮いているということもなく、むしろ有澄は馴染んでさえいた。

 いつもは図書室の優しいお姉さんなのだが、実は家が愛美や晴樹などに負けないくらいのお金持ちだったりするのだろうか。いや、そうでなくても人類最強の妻なんてやってるのだから、相当裕福な暮らしをしてそうだが。


「ふふっ、これでも昔は、お姫様だったんですよ?」


 冗談めかして微笑んだ有澄は、エレベーターの方へと歩き出してしまった。その後を追いながら、強ち嘘でもなさそうだなぁ、とか思っちゃうから不思議だ。


 エレベーターで十五階まで上がり、部屋の前で蓮とカゲロウとは別れる。因みにホテル自体は二十階建てだ。

 三人で部屋に入ると、葵はまたしても驚愕することになった。


「スイートルーム……!」

「さすがにペントハウスは取れませんでしたから、ワンランク下げちゃいました」


 有澄がどこか申し訳なさそうな意味がわからない。ていうか、このホテルはペントハウスまであるのか。


 三人に割り当てられた部屋は、かなり豪華なスイートルームだ。いわゆるロイヤルが付く感じの。

 リビングにダイニング、ベッドルームとバスルーム。その全てが完全に分離していて、高級マンションの室内などと見分けがつかない。ベッドルームにはクイーンサイズのベッドが二つ。リビングには大型テレビがあり、バスルームの浴槽なんて三人一緒に入れるほと大きい。


 一通り部屋の中を見て回って、葵は呆然とする他なかった。まさか生きているうちに、こんな住む世界が違う場所に来るなんて。


「葵さん! ベッドふかふかですよ!」

「ああ! そんな思いっきり飛び込んだらダメでしょ! もっと丁重に扱わないと……!」

「そこまで気を張り巡らせることないですよ。寛ぐための場所なんですから」


 勢いよくベッドへダイブする朱音にハラハラしていると、有澄の苦笑気味な声が届く。そうは言われても、こんな高級な部屋、身構えてしまうのが当然だと思うのだが。


「これは父さんと母さんに自慢できますね。そしたら、今度は三人でこんな部屋に泊まれるかもです」

「織さんは嫌がりそうだけどなぁ」


 なんて会話をしながら、一度リビングのソファに腰を落ち着かせる。

 わざわざ沖縄まで来たのも、こんな高級ホテルに泊まるのも、仕事があるからだ。それを忘れてはならない。


「この後はどうするんですか? 夜までまだ時間はありますけど」

「昨日言った通りですよ。好きに過ごしてくれて構いません。せっかく水着買ったんですから、海に行きますか?」

「いや、でもクラーケンの出現場所とか、下見とかは……?」

「もう分かってるので大丈夫です」


 なら問題ない、のか……? たしかに海で遊びたい気持ちは葵にもある。せっかくそれなりに気合を入れて水着を選んだのだから、お披露目してみたい。

 だから海に行くのは確定として、今のうちに情報は共有しておかないとダメだろう。


「ちなみに、その場所ってここから近いんですか?」

「ええ、目と鼻の先ですよ。この部屋からも見えますし」


 言われて、窓の外を見る。

 広がっているのは先も見えない大海原。太陽の光を反射して綺麗に輝いているそこは、このホテルが所有するビーチだ。今も宿泊客の多くが、そこで海を楽しんでいるだろう。


 ……いや待て、まさかとは思うが。


「ここに出るんですか⁉︎」

「はい」


 ニッコリ笑顔で頷く有澄。周辺住民とか言ってたから、もっと別の場所だと思ってたのに。いや、クラーケンの大きさを考えれば、このホテルから最も近い民家への被害もあり得るかもしれないけど。なんか騙された気分だ。


「場合によっては、ちょっと面倒かもしれませんね」


 神妙な顔で呟く朱音。面倒どころの話じゃない。葵たちは、このホテルをすぐ真後ろに構えて戦わなければならないのだ。今から避難を呼びかけたところで、宿泊客が聞く耳を持つわけない。


 何よりも肝心なのは、常に想定外を予想して動かなければならない点。

 それは例えば、夜に出現するはずのクラーケンが、昼間に出現したりとか。


「夜には完全に人の出入りが途絶えるわけじゃない。どれだけ被害を抑えようと思っても、予期せぬ巻き添えがあるかもしれない。もちろんわたしがホテルと海の間に結界を貼りますし、出来る限り注意を払うつもりです。ただ、もしもこのクラーケンが、裏の魔術師によって手引きされていた場合も考えておかないといけません」


 冷静に考えればおかしいのだ。そもそもクラーケンとは、北欧の伝説や伝承に登場する海魔だ。船乗りをその船ごと遅い、海の底へと引きずりこむ。

 たしかに沖縄は、船が多いだろう。日本本土から離れたこの県は、いくつもの島で構成されているから。それにしたって、こんな陸に近い場所に現れるなんて。しかもここの海は海水浴場。船なんてない。


「もしも魔術師が手引きしてたら、どうするんですか?」

「もちろん、そちらの排除も同時に行います。わたしか朱音ちゃんで当たりますから、葵ちゃんたちはクラーケンの相手に集中してくれていいですよ」


 やはりそうなるか。

 有澄が同行した理由は、その辺りの可能性を考慮してのこともあったのだろう。

 魔術世界では、常に想定外を考えておかなければならない。でないと命なんていくつあっても足りないから。葵の記憶にある中でも、依頼が予定通りスムーズに終わったことなんて殆どなかった。

 安倍家での怪盗騒ぎに、湖の調査の筈がガルーダとの遭遇。魔女と向かった依頼なんて、石持ちの魔術師を初めて確認した。

 その度にあの二人を助けるため、葵は無理矢理身体の主導権を奪って表に出てきた。


 今から思えば、それこそがあの二人を消してしまう原因にもなっていたのだけど。


「とまあ、仕事の話はこの辺りでいいでしょう。どうせ予定通りに行くわけないですし、今は楽しいことを考えましょう」


 一先ずこの話はここまで。そう言わんばかりに手を叩いた有澄は、立ち上がって荷物を漁り始める。その中から取り出したのは水着だ。恐らく有澄のものであろうそれは、水色のビキニとパレオ。


「早速海に行く準備しましょうか! わたしも蒼さんから楽しんでこいって言われてますし!」


 ちょっとはしゃいでる有澄は、年齢よりも幾らか幼く見えて可愛い。

 そんな可愛いお姉さんに倣って、葵も水着の準備を始めた。


「その水着、師匠が気に入るといいですね」

「朱音ちゃんうるさい」

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