第108話 返事をきかせてくれないか―2



「君が……駄駄をこねる、なんて……めず、らしいな……」



 エッドはそう呟くと同時に、ぽたりと頬に何かが落ちてくる感覚を得る。

 ぬるいはずのその液体は、熱湯のようにエッドの頬を灼いた。


「いけない? 私だって……たまには“わがまま”を言うわ」

「たまに、か……。だれも、言わないだろう、から、言うが……。君はけっこう、わがまま、だぞ……」 


 からかいの笑顔を作りたかったが、顔の筋肉が命令を無視する。

 それでもエッドは、聖気を含んだ水を瞳いっぱいに溜めている想い人を見上げた。


「わきまえてる、ようで……けっこう、ハッキリ言う、し……。かるい、冗談にも、本気で、怒るし……。それに……いちど決めたら、ぜったいに……ゆずらない」

「なっ――!」

「ぜんぶ……俺が、すきなところ、さ……」


 弱々しいが、今度は上手く笑えたと思う。エッドの頭上で、小さく鼻をすする音が聞こえた。


「メリ、エール……。聞かせて、くれないか……? 君の……“返事”を」

「……」


 早鐘を打つ心臓をとうに失くしているからか――それとも彼女の返事がどのようなものであれ、辿る道は決まっているからだろうか。エッドの心は、不思議なほど静かだった。

 

 まるで本当はこの言葉を伝えるはずだった夜の、穏やかな海のように。



「小さなコウモリ姿のあなたが部屋に来て、私を“拐って”くれた日から……ずいぶん経った気がします」


 目元を赤くしたまま、懐かしそうに聖術師は微笑む。


「もちろん実際の歳月としては、とても短いのよ。けれど……私にとって、あの日からあなたと過ごした日々は――まるで、別の時間を生きているようだった」

「……わるい、ことを……したか?」

「ええ。とんでもなく罪深いことよ」


 真面目に眉根を寄せたメリエールだったが、すぐに柔らかな表情に戻って続ける。


「これまでの自分では考えつかなかった、新しい“生き方”だったわ。好きなものと好きな人たちに囲まれて、ひとつの場所で生きる……」


 静かに語る想い人は、懐かしき住処がある方角を見つめている。

 この荒野と海を越えた先に、彼女の帰りを待ち望んでいる住人がたくさんいる――そう伝えたかった。


「聖堂で主の息吹を感じながら尽くすのもいいけれど、私は――あの場所をとても気に入ってしまったの」


 声を上げられない自分に代わり、乾いた夜風が合いの手のように吹き抜ける。


「あなたには……教えられてばかりです、エッド。旅の心構えに、野営のやり方。実際の戦いを生き抜く方法――」


 パーティーに誘った頃からの話だろうか。エッドは黙ってわずかにうなずく。


「それから最近では、自分を休ませてあげる方法。そういう日に、どうやって全力で“遊ぶ”のかも。……正直、この辺りはまだまだです。たくさん、やってないことがあるんだもの」


 苦笑しながらも、彼女は丁寧に細い指を折って数えた。


「“花束の谷”の草花でポプリを作りたいし、ポーラの店の果物を使ってお菓子を焼く予定もあるの」

「ああ……」

「ペッゴさんのお店の飾りつけお手伝い中だし……それから、ニルヤに借りている本も返さないと。二回も読んでいたら、遅くなってしまって」

「はは……盛りだくさん、だな……。みんな、君を……まってるぞ……」


 またじわりと目元に溢れた涙を指で拭い、メリエールは続けた。


「……村人たちに害のない治癒術がないか、ログと研究しているの。でも、思いつかなかったら――みんなが気軽に立ち寄れる、お茶のお店でも開こうかと思っています」

「そりゃ、いいな……。みんな、よろこぶよ」


 密かに抱いていた夢だったのだろう。想い人は、わずかに頬を上気させている。

 しかし細い喉に深く息を通すと、小さな声で言った。


「――でもね、エッド。私が一番楽しみにしているのは、別のことなの」

「……?」

「笑わないでくださいね。あなたと――」


 背にした満月と同じ白い肌に、一条の涙が伝う。



「ただ……あなたと、一緒にいることなんです。エッド」

「!」



 今日は、たくさんの人の泣き顔を見てきた。そんな自覚のあるエッドだったが、目の前の泣き顔ほど心を揺さぶるものはない。


「……っ」


 死にさえ屈しなかった丈夫な身体だというのに、肝心な時に動かせないとは。エッドは震える牙で唇を噛む。


 聖気がなんだろうが、この人を抱きしめたい。

 一人葛藤するそんな亡者をよそに、メリエールは呟いた。


「何でもないことを聞いてほしい時に、あなたは必ず側にいてくれた。自分でも夢見がちだと思っている考えを、笑わずに何度でも聞いてくれた」

「メル……」


 雫が、エッドの目の端に落ちて頬を滑る。目に入ったらどうなるかなど、もはや魔物は気にしていなかった。


 命の灯火が消えるその瞬間まで、ただ彼女の顔を眺めていたい。


「いつも、新しいことを教えてくれて。一緒に試して、失敗して……。私、ちゃんと人とケンカしたのも、あなたがはじめてだったのよ」



 そういえば、そんなこともあった。


 なんでもない、些細なケンカだったのだ。

 何が原因だったのかも、今となっては思い出せないほどの。


“もう! どうしてそんなに頑固なんですか!?”

“そのまま返すぞ、その言葉。君こそ、頭を冷やせよ”

“……っ、そうね! 私たち、立派なオトナだもの。一度、冷静になったほうがいいわ”

“そりゃ大賛成――ってなんだよ、杖なんか向けて!?”


 バチバチと弾ける白金の雷を長杖にまとわせたメリエールを見、その日の自分は後ずさった。想い人の瞳には、煌々とした蒼き光が揺らめいている。


“もちろん、頭を冷やすのよ――お互いに、ね!”

“お、おい……! ログ、防御を”


 闇の防御壁を期待して友にふり向いたエッドは、いつの間にか空席となった肘掛け椅子だけを目撃する。


“あ、あいつ――!!”

“さあエッド。心行くまで、話し合いましょう!”



「……あのときの、君の術は……なかなか、強烈、だったな……」

「あ……それは、ごめんなさい……」


 律儀に謝罪する想い人に、エッドはぎこちなく笑う。



 そんな他愛のない日々が、今では途方もなく懐かしかった。

 もう二度と、自分の身には訪れない――そう、わかっているからだ。



 メリエールはふたたび深呼吸し、翠玉の目をしっかりと開いた。


「私はきっともう“勇者”のパーティーにいた、従順で生真面目な聖術師じゃない」

「メル……?」

「口ではどんなに崇高なことを言っていても、中身は変わってしまったの」


 エッドは身体の奥で、何かが脈打つのを感じた。


 澱ほどしか残っていない、魔力の胎動か。

 それとも、小さなもう一人の亡者の声か――。


「どんなに愚かで、わがままだと言われようと……私は、あなたと一緒にいたい。これからも、ずっと」


 想い人のまっすぐな声が、エッドの頭の奥にまで届く。



「エッド・アーテル――私も、あなたが好きです」



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