第29話「マイ・フーリッシュ・ハート(愚かなり我が心)」
サアヤさんの誘惑に耐え切った翌日、5月2日の火曜日も平日なので学校に行った。
今日は特筆するようなことは何もない普通の1日で、放課後はいつものようにさっさと帰宅した。
そして、例によって夕食までの時間を勉強にあてていると……
「ピンホーン」
またしてもチャイムが……
いや、もう勘弁してください……
いやいや、まだ軽音部の連中と決まったわけではない。
宅急便かもしれないし、ゆうパックかもしれないし……まあ、出るだけ出てみよう……
俺は居間から玄関へと向かい、ドアを開けた。
「あ、池川くん……」
そこにいたのはモエピで、俺はその姿を確認するや、すぐにドアを閉めてしまった。
「え!? ちょっと、池川くん……」
「ピンポンピンポンピンポンピンポーン……」
昨日のサアヤさんに続き、モエピもチャイムを連打してきたので、俺は再びドアを開けざるを得なかった。
「ひどいよ、池川くん……どうして閉めるの?」
そう言ったモエピは、今にも泣き出しそうな顔と声をしていたので、俺はあわてて謝った。
「ご、ごめんね、モエピ。もう条件反射みたいなもんなんだよ……」
「条件反射?」
モエピが不思議そうな表情で、俺のことを見る。
「そう……パブロフの犬さ……」
「犬?」
モエピは困惑していた。
「そんなことより、よくうちがわかったね、モエピ。教えてないはずなんだけど……」
説明するのも面倒なので、俺は話題を変えた。
「う……うん。パーラーが教えてくれたんだ。『池川くんちは剣術道場ですから、普通にグーグルマップに載ってますよ』って」
お、おのれグーグルめ……
俺にはプライバシーってものがないのか……
「それにパーラーが言うには、池川くんは夕方はいつも一人でお留守番してるらしいから、つい来ちゃったんだ。ごめんね、急に来ちゃって……」
「い、いや、別にそれはいいんだけど……」
おのれ、パーラー……余計なことをベラベラしゃべりおってからに……
「そ、それで今日はいったい何用なのでございますか?」
俺が急に敬語になったのは不機嫌の表れだった。
「ここじゃあちょっと……入れてくれると嬉しいんだけど……」
「はいはい、どうぞどうぞ、お入りください、ありがとう……」
「え? 池川くん、なんか機嫌悪い?」
モエピは俺の投げやりな口調から、不機嫌を察したみたいだったが、
「そんなことありませんよ! 毎日のように美女が家に来てくれて超ごきげんだぜっ!!」
俺はもう、やけくそだった。
「え? 毎日?」
モエピの疑問にいちいち答えはしなかった。
「それでご用の方は?」
居間に通したモエピは、サアヤさんみたいに俺の隣に座ってくることはなく、テーブルの向こうに座った。
やっぱりモエピは俺のことをなんとも思っていないらしい……いや、思われてたら思われてたで困るから別にいいんだけど……
別にいいんだけど……
「うん……あのね……私ね……」
モエピはなぜか言いよどんでいた。
「こんなこと……他の誰にも相談できないし、本当はしたくないんだけど……」
モエピはうつむく。
なんなんだ?
そんなに言いづらいことを、今から話そうとしているというのか?
今度はなんだ?
「私、実はレズでサアヤさんのことが大好きなんだ! 付き合いたいから協力してくれない!?」とか言われるのか?
いやいや、そんな都合よく、百合漫画みたいに、俺の周辺がレズだらけなわけはないだろう……
ならば……
「私、学校の先生と不倫してるの!! 先生と奥さんを別れさせたいから協力してよ!!」とでも言われるのか?
いやいや、アイドルを目指しているモエピが恋愛なんぞにうつつを抜かすわけもない。
今の時代、そういう薄暗い過去があったらすぐにバレて、せっかくアイドルオーディションに合格しても、事実上の合格取消のような形で強制卒業させられてしまうことぐらい、モエピだってわかっているはずだ。
それなら……
「私、どうしても馬が合わなくて、パーラーのこと殺しちゃった! どうしよう池川くん! 遺体処理するの手伝って!!」とか?
陰キャのモエピが、陽キャのパーラーに嫉妬してグサリ?
あり得る……
いやだよー……そんな揉め事に巻き込まれたくないよー、平和に生きたいのにー。
ていうか、遺体処理を手伝ったら、俺まで共犯で逮捕されてしまうではないか……
もしそうなってしまったら、池川家の先祖代々に申し訳が立たん……
ならば、今の俺にできることはただひとつ……
「何があったのかは知らんがモエピ、素直に自首した方が……」
「え? 自首? いったい、なんの話してるの、池川くん?」
モエピの俺を見る視線がいつになく冷たい。
「何言ってんだ、こいつ。怖い」とばかりに冷酷な、怯えたような視線を俺に向けている。
そりゃそうか……この平和な
「いや、ごめん。ちょっと眠くて、おかしなことを口走っちゃった……そんなことよりモエピ、話があるならお早めにどうぞ……」
「うん、ごめんね。今から話すよ……実は私ね……今……今、すごいスランプなの!」
「え? スランプ? アメリカの大統領?」
自分が想像していたのよりも、はるかに程度の低いトラブルの話をされたので、俺はつまらないボケをかましてしまった。
「それはトランプでしょ……スランプだよ、スランプ」
「うんうん、スワンプ・ロックね、CCRだ、CCR」
「ん? 何それ?」
「説明するのめんどくさい……」
自分で言っといて、それはないと思うが、でもスワンプ・ロックについて説明しようと思ったら、また文字数が増えることに……
「池川くん、やっぱり機嫌悪い? 私、来ない方がよかった?」
モエピは俺の投げやりな口調に敏感だったし、本当は、腹の底では「うん、来ないでくれた方がよかったね」とか思ってしまっていたが、そんなこと言うと、モエピの繊細な心を傷つけてしまいそうなので、俺は嘘をつかざるを、相談に乗るふりをせざるを得なかった。
「そんなことないよ。で、いったい何がスランプなの?」
「うん、演奏が……キーボードの……」
「キーボード? ああ、こどもの日にライブするんだってね、昨日サアヤさんにチケットもらったよ」
「そう、それ。その、こどもの日のライブのために、放課後、みんなで練習してるんだけど、キーボードってピアノとちょっと違うんだよ。それと、今まではずっと一人で弾いてたから、他の人と演奏するのって初めてで、上手に弾けなくて、みんなに迷惑かけちゃってて、申し訳ないなって……」
モエピはまたしても泣きそうな顔になった。
「はあ……それでなんで俺に相談しに来たの? だって俺、楽器経験ゼロでなんのお役にも立てそうにないよ」
そんなモエピにこんな返事をするのは冷淡だと、自分でも思うが、事実なのだから仕方がなかった。
「うん、それは知ってるよ。パーラーに教えてもらったから。池川くんは楽器ができないから軽音部入部を拒否し続けてるんでしょう?」
パーラーめ……やっぱりあいつは知ってることなんでもかんでもしゃべる奴だな……ナナのこともどっかでポロッとしゃべってるんじゃないのか? 心配だ……
などとは思うが、モエピにそんなこと言ってもしょうがないので、俺はモエピとの会話を続けた。
「まあね。だから俺にできることは何もない……」
「ねえ、池川くん。私が軽音部に入部したのって、池川くんが誘ったからだよね」
突き放そうとする俺のことをまっすぐに見つめたモエピが食い下がってきた。
「う、うん、そうだけど……」
「もし、池川くんが誘わなかったら、私はこんなことで悩まずにすんだんだよね……」
「え?」
た、たしかに?
俺は自分が楽器弾くのがめんどくさいって理由で、モエピをむりやり軽音部に入部させたんだよな……
それでモエピが悩んでいるってことはつまり?
「責任取ってよ、池川くん……」
言葉だけ聞くと、俺がモエピを妊娠させたみたいだが、安心したまえ、俺は依然として童貞だ。
でも、いつにないモエピの攻勢に俺は動揺してしまった。
モエピは大人しくて、押しに弱い子だと思っていたけど、そうではなかったのか?
まあ、たしかに、アイドルになりたいという強い意志を持っているモエピが、ただ押しに弱いだけの子とは思えないが……
「せ、責任と言われましても、いったい何をすればいいのか、さっぱり見当がつかない……」
「あーあー、防府の小さいライブハウスでもうまいこと演奏できないような私がアイドルになるなんて絶対無理なんだー! 軽音部に入ればアイドルになれるなんて嘘をついた人が恨めしい!!」
モエピが突然、大声を出したものだから、俺はビビッた。
「呪ってやろうかな……」
モエピは鋭い眼光で、俺のことをにらみつけた。
どうにもこの子の性格は複雑で、よくわからない。
弱気でおどおどしている時もあれば、自己紹介の時や、今のように強気でグイグイ来る時もある。
それはまるで、アルバムによって好不調の波が激しいことで有名なバド・パウエルのようだった。
ピアノの腕前だけではなく、そんなところまでバド・パウエルに似ていると申すか……
などといろいろ思ったけど、そんなことモエピに言えるわけもなく、俺はことを穏便にすませようと、モエピをなだめることにした。
「モ、モエピ……やる前から諦めるのはよくないよ……」
「池川くん、責任取って、私の言うこと一つ聞いてくれる?」
「い、言うこととは?」
最近の話の流れだと、「責任取って、デートして」とか「責任取って、チューして」とか言われそうで、そう言われたらどうすればいいんだと怯えていた俺だが……
「ねえ、池川くん。パーラーに聞いたんだけど、池川くんちには本やCDがいっぱいあるらしいね」
アイドルを目指しているモエピが、そんな不純な要求をしてくるわけはないのであった。
そして、パーラー……あいつは本当になんでもしゃべる奴だな……
「う、うん。親父やおじいちゃんがそういうの好きでいっぱい持っててさ、あっちの部屋にいっぱい置いてあるんだけど……」
「私ね、落ち込んでる時とか、ピアノの演奏を聞いて、心を落ち着けるタイプなんだよね」
「はあ……それで?」
「池川くんオススメのピアノのCD聞かせてくれない?」
「は?」
「だから、その部屋にあるCDの中からオススメを1枚持ってきてほしいんだけど……」
「そんな……俺、レコード屋の店員じゃない……」
「やる前から諦めるのはよくないんでしょう、池川くん」
「う……」
自分の放った言葉がブーメランのように帰ってきたので、俺はおののいた。
「別にそんな無理難題を押しつけてるつもりはないんだけど……池川くんが私に押しつけてきた無理難題と比べればね……」
「うう……」
普段、大人しいモエピの嫌味だか皮肉だかは、俺の心にグサグサと刺さりまくった。
「わかった、持ってくるよ」
俺は立ち上がった。
「あ、バド・パウエル以外でよろしくね。バド・パウエルは子供の頃からお父さんに散々聞かされてるから、もういいよ」
「う、うん……」
俺は一人で書庫に向かった。
そして書庫にある、ジャズピアノのCDの前で、一人立ち尽くしていた。
オススメのと言われても、俺はジャズピアノはそんなに好きじゃなくて、あまり聞いていないから、知識はほとんどなかった。
「キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』にしようかな? いや、これ長いんだよな……さっさと帰ってほしいから、短めのアルバムをオススメせねば……これは? セシル・テイラー? いや、ここでフリージャズなんか聞かせたら、モエピは一生口聞いてくれんわ……」
俺はぶつぶつひとりごちながら、CDを棚から出しては戻し、出しては戻しを繰り返した。
そして……
「ベタベタだし、モエピ知ってるかもしれないけど……もう、これでいっか……」
俺は1枚のCDを携えて、居間に戻った。
「あ、あの……持ってきたよ、モエピ」
居間のテーブルの前に座り続けているモエピに、俺は自分の持ってきたCDを差し出す。
「これは?」
「うん、知ってるかもしれないけど、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』だよ」
「ううん、知らない。初めて見た」
「そうなの? ジャズピアノ史上屈指の名盤だと思うけど……なんたって、俺でも知ってるぐらいだからね」
「そうなんだ。聞きたい、聞かせて」
「じゃあ、親父のパソコンで聞こう」
俺は「ワルツ・フォー・デビイ」のCDを親父のノートパソコンのディスクドライブに入れた。
パソコンの前に座る俺の隣に、いつの間にかモエピが座っていて、一緒にパソコンの画面を眺めていた。
「このアルバムは1曲目の『マイ・フーリッシュ・ハート』が最高なんだよ」
「『マイ・フーリッシュ・ハート』?」
「そう、邦題は『愚かなり我が心』」
「『愚かなり我が心』……」
「元々は同名映画の主題歌で、ヴィクター・ヤングって有名な作曲家が作った曲なんだ。この『ワルツ・フォー・デビイ』の1曲目の『マイ・フーリッシュ・ハート』は、最初の2音が素晴らしいんだよ」
「最初の2音?」
「そう、『テン、テーン』って、ビル・エヴァンスの最初の2音と、そのあとのドラマー、ポール・モチアンのブラシワーク、『ジョワワワワーン』ってのがたまらないんだよ」
俺は知らないうちに饒舌になっていた。
「そうなんだ。池川くん、楽器は弾けないくせに、音楽には詳しいんだね、バド・パウエルのことも知ってたし」
「弾けないくせに」ってのにはトゲを感じたが、そんなことにいちいち引っかかっていては会話ができないので、無視することにした。
「いや、全部おじいちゃんの受け売りだよ。おじいちゃんは洋楽が大好きで、俺は子供の頃から洋楽の英才教育を受け続けてきたんだよ」
俺は、今は亡きおじいちゃんのことを思い出して、少しセンチメンタルな気分になりながら、CDを再生した。
「テン、テーン……ジョワワワワーン……」
「綺麗な音だね……」
それがモエピの感想だった。
「うん、ベースのスコット・ラファロも素晴らしいよね。この人は天才ベーシストとして高く評価されていたんだけど、このアルバムを録音した、わずか11日後に交通事故で死亡してしまうんだ」
「そうなんだ」
「最良のパートナーであるスコット・ラファロを失ったビル・エヴァンスの悲しみは大きく、以降彼は、美しいピアノの演奏とは裏腹のすさんだ人生を歩むことに……」
「ふーん……」
「ちなみに、『愚かなり我が心』って映画は、『ライ麦畑でつかまえて』で有名なサリンジャーの短編を映画化したものなんだけど、その出来に大きな不満を抱いたサリンジャーは、以降自身の作品の映像化を拒否し続け……」
「池川くん、ちょっと黙ってくれる! ピアノが聞こえないから!!」
モエピに、今までにないほど大きな声で怒鳴られた俺は、「ご、ごめんなさい……」と言ったきり黙り込んだ。
そして、モエピと二人で、黙って「ワルツ・フォー・デビイ」を聞いていた。
モエピはよっぽど気に入ったらしく、聞きながらテーブルの上で両手の指を動かしていた。
エアピアノってやつだろう。
気がついたら、「ワルツ・フォー・デビイ」の全曲を聴き終えてしまっていた。
「ど、どうだった?」
俺は恐る恐るモエピに尋ねた。
「最高だよ、こんな素晴らしいアルバムがあったなんて、知らなかったよ。私、愚かだった。つまらないことで悩んで落ち込んでて、本当にバカみたいだったよ」
「お気に召していただけたみたいでよかったよ」
「ねえ、池川くん、この家にはピアノある?」
「え? いや、ないけど……」
「じゃあキーボードは?」
「キーボードならあるけど……」
俺が昔、楽器に挑戦してみようと思って、イ○ンで1万円で投げ売りされていたやつをお年玉で買って、1ヶ月もしないで挫折し、今となっては押し入れの肥料となっているやつがね。
「じゃあ貸して! 今すぐ弾きたいの! そういう気分なの!」
「え? でももう外は暗くなってるし、いい加減帰った方が……」
「貸して!!」
強気な時のモエピの圧には誰もかなわなかった。
本当にこの子は、二重人格か何かなんだろうか?
じゃあ今のモエピはジキル博士じゃなくて、ハイド氏なんだろうな……
俺が押し入れから取り出したキーボードを、モエピは笑顔で弾きまくり、そろそろ親父やチカさんが帰ってきそうな20時頃にモエピはようやく帰っていった。
「ありがとう! これで明日からの最終リハーサル、うまくいきそうだよ! そんな気がする!!」
それがモエピの別れの言葉で、モエピはいつになく元気だった。
まるでクスリかなんかやったあとみたいにハイだった。
俺にはよくわからないが、ビル・エヴァンスの音楽にはそんな麻薬みたいな力があるのだろうか?
まあ、なんにせよ、モエピに満足していただけたみたいで、少しはお役に立てたようで何よりだった。
「楽しみだな、こどもの日のライブ……」
俺はそう思いながら、ゴールデンウィークと言えども、いつもと変わらない、平穏な平日の夜を過ごした。
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