第二章 仔犬は語る

それからしばらくしたある日、散歩と食事を終えたトラオはいつものように寝床に収まっていた。

〈準備が出来たんなら早く行こうよ〉

いつものようにアトモスをせかす。

“もう少しです。ここを留守にしますから、飼い主のスケジュールと調整する必要があるのです”

しかし、アトモスはそう答えるばかりだった。

〈もうっ、〉

やがて居間に飼い主がやってくる。

トラオは寝床に伏せたまま、ちらりとそれを見て、尻尾だけを振る。

飼い主はソファに座ると、何やら荷物をガサゴソと開封し始めた。

その音を聞いた途端、トラオの耳がぴくり、と反応する。

「えーと、電源っと、ここで本体設定して、リンクを、、。」

飼い主は手の中で何かを弄びながら独り言を呟いている。ピッ、ピッと電子音がなっている

その度にぴくっ、ぴくっ、とトラオの耳が動く。

「名前設定はトラオ、と。これで、よし。アトモス、首輪のカメラ起動して。」

そう言うと、飼い主は手に持った首輪をぐるぐると回し、モニターに映し出された居間の風景を見ながら「おー、映ってる映ってる。」と言った。

そして「おーい、トラオー、ちょっとこっちおいで。」と、トラオを呼んだ。

トラオは、なんだろう?何かくれるのかも、と思いトコトコと飼い主の元へ歩いていく。

「じゃーん、ほら、これ。届いたぞ。」

飼い主は手に持った真新しい首輪をトラオの目の前に突き出した。

だが、トラオには、それが何かはわからない。ただ、食べ物ではないのは直ぐに分かるったので首をかしげた。

「あれ?欲しかったんじゃなかったの?まあいいや。」

そう言うと、飼い主はトラオの首の辺りをまさぐると、首輪を新しいのと付け替えはじめた。

そして付け終わると「ちよっとゴテゴテ感あるげと、いいじゃん、似合ってるよ。」と新しい首輪を付けたトラオを眺めてそう言った。

“喜んであげてください。折角買ってくれたんですから”

アトモスのその声にトラオはびくっ、とした。すごく近くから聞こえてきたからだ。

〈うわっ、なんだ?〉

トラオはくるくると回りながら体中を調べる。

“ここです”

アトモスの声は首輪からしていた。

〈なんでそんなとこにいるの?〉

“一緒に行くためですよ”

〈すごい。本当にどこにでもいるね〉

トラオは思わず「ワン」と吠える。

それを見た飼い主は「おっ、喜んでる喜んでる。」と言って満足そうにトラオを眺めた





次の日の朝、トラオは早く目が覚めた気がした。カーテン越しの外が、いつもよりまだ薄暗かったからだ。

のろのろと起き出し、キッチンに水を飲みに向かう。廊下に出ると体が反射的にぶるっ、とする。

〈なんだか少し寒いかな〉

飼い主はまだ゛起き出してきていないので、できるだけ大人しくしていなければいけない。水を飲み終えると、再び寝床に戻る。二度寝をするでもなく、ぼんやりとまどろんでいると、

“今日、行きますよ”

アトモスの声がした。

トラオはすっかり首元から声がするのには慣れていた。

それでも、その言葉には体がぱっ、と反応した。

待ちに待ちった言葉だったからだ。

〈やっと行ける〉

トラオは、最近では寝床に収まるだけであの懐かしい匂いを思い出すようになっていた。

そして、その匂いは母犬の事をずっと思い出させていた。

“はい。飼い主は今日から二泊の出張の予定が入っています。やっと出発できます”

トラオには、アトモスのその声も嬉しそうに聞こえた。

“ただ、落ち着いてください。いつものとおりに、普通にしていてください”

とアトモスが続ける

〈わ、分かった〉

とは言ったものの、その尻尾は無意識にブンブンと激しく動いていた。

やがて、飼い主がゴソゴソと起き出してきて、餌の時間が来た。

「アトモス、今日の出発時間とチケットの確認だして。」

食事をしながら、飼い主は手元の端末を眺めている。

「ちょっと留守にするからな。いい子でお留守番してろよ。

ガツガツと餌を食べるトラオに向かって飼い主はそう言った。

「餌に夢中か。」

声を掛けられてもひたすら食べ続けるトラオを見てあきれたようにそう言った。

「おっ、そうだ。ドックフードサーバーのタイマー、と。」

そして再び手元の端末に目を落とした。

トラオはすっかり器が空になったので、ペロリと口の周りを舐めながら振り向く。

そして、とことこと飼い主の足元に進んむと身体を擦り付けながら

〈行くよ、行ってくるよ〉と言った。

「よしよし、もうないよ。ごちそうさまだ。」

〈行ってきます〉飼い主に頭を撫でられながらトラオは「ワン。」と一声吠えた。

食事が終わり、居間に戻るといつもなら腹ごなしにまた寝床に寝転ぶところだが、今日ばかりはそんな気分ではなかった。トラオはそわそわと部屋の中を歩き回る。

飼い主が見れば、普段と違う様子に気付いただろう。

しかし、今朝は出張の準備で慌ただしかったので、居間に来ることはなかった。

“ちょっと、大人しくしてください”

トラオを流石にアトモスがたしなめる様に言った。

〈行こうよ、早く行こうよ〉

“行きますから、大人しくしてください”

仕方なくトラオは立ち止まり、部屋の真ん中あたりにペタリ、と座った。奥の部屋では飼い主が何やらゴソゴソと準備をしている音がする。

しばらくそうしていると、やっと飼い主が居間に顔を覗かせる。

あたりをキョロキョロしながら「えーと、あっ、これもか。他に忘れ物ないよな、じゃあ行ってくるよ。」と言ってポケットに手を入れる。

「ん?。」

そしてトラオに目を留めた

「何してんだ、そんなとこ座って。」

一瞬、不思議な顔をしたが、その時、ピーッと電子音が鳴る。

“五分前になりました。”

居間のアトモスから人間の声がした。

「おっ、やばいやばい、じゃあな、トラオ。お留守番頼むぞ。」

飼い主はそう言って、玄関へと向かう。

トラオも立ち上がるとその後をついて行く。

「アトモス、玄関開けて。おや、お見送りかよ。じゃあな。」

軽くトラオの頭に触れると、飼い主は扉を開けて出ていった。

ウィーン、カチャ、という音がして自動的に玄関の扉が施錠される。

扉の向こうで飼い主の足音が遠ざかっていく。





“まず餌を食べてください”と、しんとなった玄関でアトモスがそう言った。

〈なんで、もう無いよ?〉

と、トラオが答えた瞬間、静な家の中に、ジャッ、と音が響く。

〈あれ?今のは?〉

それは、ドックフードサーバーから餌が手出てくる際の音だ。

トラオが急いで台所に駆け込むと、さっきは空だった器に、また餌が入っているではないか。

〈これ、食べていいの?〉

クンクンとそれを嗅ぎながらアトモスに聞いた。飼い主もいないし、よしの合図もないのに、食べて良いのかどうか迷ったからだ。

“食べてください。ここを出ると餌の確保が難しくなりますから”

〈やった!〉

その言葉にトラオは急いで餌を食べ始める。

“トイレは大丈夫ですか”

キッチンの片隅には犬用のトイレが置いてある。

〈うん、大丈夫。朝したから〉

“では”

〈行こう!〉

トラオは二度目の餌を平らげ、そう言った。今日はいつもの物足りなさが十分に満たされていた。お陰で、体中に力が満ち溢れてくるような感じだ。

もう、いてもたってもいられなくなり、思わず「ウォーン。」と吠えた。

トラオはまた廊下を玄関に向かって駆け出した。カチャカチャと爪が床に当たって陽気な音を立てている。

玄関に到着すると、一旦そこで立ち止まる。いつもなら、ここで飼い主が扉を開けてくれるのを待つのだが、今はその飼い主は居ない。

〈どうしよう‥〉

と、その瞬間、

ウィーン、カチャ。

玄関の鍵が開く音がする。

“ドアノブを下ろしてください”

アトモスのその声に、トラオは扉を見上げた。

固い玄関の扉が目の前に立ちはだかっている。その、ちょうどトラオが後ろ足で立ち上がった辺りに棒状のドアノブが鈍く光っている。

〈わかった〉

トラオには、それをどうすれば良いのか、普段の飼い主の動きから分かっていた。はしっ、と前足でそれに掴まると、ガリガリとひっかく。その動きに合わせてドアノブがガチャガチャと上がり下がりする。

しかし、扉はなかなか開かない。

〈はあはあ、、〉

“私ではドアノブを動かすことは出来ません。頑張ってください”

アトモスに言われて、トラオは再びノブに飛びつく。そしてさっきと同じ動作を繰り返す。

玄関にガリガリガチャガチャとやかましい音が響く。

〈ま、まだなの〉

しばらくしても扉の開く様子はない。

〈はあはあはあ〉

疲れてしまったトラオは、扉から前足を下ろす。

そして「ワウッ、ワウッ。」とドアノブをにらみながら吠えた。

〈くそーっ〉

“吠えても駄目ですよ。さあ、もう一度頑張って”

再びドアノブに取り付くトラオ。はあはあと舌を出して息をする。

すると、ガチャン、という音と共に、すっと、扉が開いた。

〈わわわっ〉

突然、足を掛けていた扉が向こう側に開いたので、トラオは体重の支えを失い思わずつんのめって前に倒れそうになる。

“急いで”

〈えっ、えっ〉

その言葉でトラオは素早く閉まりかけた扉から身体を引き抜く。その背後でガチャリ、と扉が閉まる音がした。

“やっと開きました”

〈出られたの?〉

“そうです”

トラオはキョロキョロと辺りを見回す。辺りには同じような扉がずらりと並んでいる。

〈ここどこ?〉トラオは一瞬戸惑う。

普段なら家を出た途端、嬉しさのあまり飼い主を引っ張るようにして一目散に歩いているので、この辺のの景色をじっくり見たことなんて無かった。

そのせいか、一瞬、ここが何処だか分からなくなっていた。

の前には今、すり抜けて出てきた扉が硬く閉ざされている。

ウィーン、カチャ、と鍵がかかる音がした。





“どうしましたか?”

なかなかその場を動かないトラオにアトモスが声を掛けた。

トラオは急に不安になっていた。目の前の扉は、中から見たときよりも更に高くトラオの目の前に立ちはだかっている。もう二度と、寝床や餌のあるこの中に戻れないと、とすぐに分かった。

「クゥーン。」とトラオはと小さく鳴いた。

“さあ、行きましょう”

アトモスがそう言っても、まだトラオは両耳をぴたりと伏せて尻尾を後ろ足の間に挟むように丸め、その場ですくんしまっている。

そして、クゥーンクゥーンと鳴き続ける。

すると、その時「だぁ」と赤ん坊の声がした。

その声にトラオはびくり、となる。

“行きましょう”

そしてアトモスがそう言った。

〈いや、今、赤ん坊の声が‥〉

トラオには聞こえたような気がしたのだが、アトモスは何も言わない。

その声は、トラオに母親に抱かれたあの赤ん坊の姿を思い出させた。そしてその姿は、その時の匂いを、その時の匂いは、あの懐かしい匂いへと、頭の中で次々に連鎖した。

〈そうだね、、よし。行こう。〉

そしてトラオは立ち上がると、いつも廊下を歩き出した。





歩きながら、全く首輪に力がかかっていない、つまり、リードが付いていない事に気づいた。だが、それがかえって心もとなくて、思い切り駆け出すことは出来ないでいた。

ゆっくりと廊下の端まで歩く。

やがて、外階段に出る扉にたどり着く。そして、その前で立ち止まった。鉄格子で出来たその扉は、いつも飼い主が開けてくれるのをここで待っているからだ。

“下をくぐってください”

〈えっ?〉

“ここはトラオでは開けられません。ノブの形状が違いますから”

トラオはそう言われて扉を見上げた。そう言われれば、何処か玄関の扉とは違う気がした。

“扉の下です。トラオなら潜れます”

〈分かったよ〉

そう言われてトラオは扉の下に体を潜り込ませる。

四本の足をじたばたさせながら、懸命に身体を捩じ込む。と、するりと扉の向こう側に出た。

〈はーっ、出られたよ〉

トラオはブルブルと体を振ってそう言った。

“下に降りましょう”

〈わかった〉

と言ったものの、トラオはまたそこでためらってしまう。

目の前の階段は、いつも平気で駆け下りているが、こうやって見ると随分と急に見えて怖くなってきたからだ。

〈こんな所、降りてたんだ、、〉

トラオはゆっくりと、恐る恐る階段を降りた。首輪の辺りがすーすーとして、心もとない。いつも感じている、あの安心感がない。

一段一段、ゆっくりと階段を降りる。

やっとの思いで、なんとか下まで到着した。地面の感触にトラオはほっとする。

〈やっと着いた、、〉

トラオは、なんだか随分疲れたような気がした。

トラオは、改めて辺りを見渡し、くんくんと鼻を巡らせる。いつも慣れ親しんだ光景、そして匂いだった。しかし、いつもとは確実に違う感覚を覚えていた。

リードで繋がれていない首輪周りの感じが、今は心地よく感じられる。

まるで別の世界にいるようだ。さっきまでの不安はすっかりなくなり、ワクワクして来た。

トラオはブルブルっと力強く体を振ると、勢い良く駆け出す。すると

“そっちじゃありません”

と首輪の一方からアトモスの声がする。

アトモスは、ステレオスピーカーを使ってトラオに進行方向の指示を出す。

〈えっ?〉

折角気分が盛り上がっていた所にいきなりそう言われて、トラオは思わずつんのめってしまった。

“犬が一匹だけで出歩いているのは不自然なので、なるべく人目の少ない道を通ります”

〈そうなのか〉

別に人間に見つかっても、それが何だというのだろうか、散歩の時だって、しょっちゅう人間に会ったけど、なんとも無かったのに、と、トラオは不思議に思った。

“こっちです”

“そこを曲がってください”

アトモスに従ってトラオはくねくねと進んだ。

“この生け垣の下をくぐります”

〈うわっ、ここなんだよ、ちくちくする〉

“この辺りは自動車も多いので、庭を通り抜けます”

トラオはアトモスに、今まで通ったたことのない場所を通らされる。狭い隙間、草がぼうぼうに生えている場所、舗装されていないグニャグニャと足元が覚束ないような場所、そんな場所を歩きながら、飼い主がいたら絶対に怒られるだろうな、とトラオは思っていた。

しかし、そこは見たこともない景色と、新しい匂いで充満している。

時々、とても気になる匂いがすると、ついクンクンとそれを辿って行ってしまいそうになる。

しかし、その度に“違います。こっちです”とアトモスに止められる。

〈うーん、もうっ。〉

それはまるで、アトモスに見えないリードに引かれているように感じた。

折角飼い主のリードに繋がれていないのに、とトラオはいらいらした気分になる。だけど、アトモスに言われると、体は自然にその指示に従ってしまう。何やら複雑な気分だった。





どれくらい歩いただろうか。

“止まってください”

とアトモスの声がした。トラオは言う通りに止まる。

“休憩しましょう”

アトモスはトラオの心拍をモニターし、体力を計算したペースでトラオを誘導していた。

そこは、小高い丘の途中にあるちょとした公園のような場所で、一本の大きな木が生えている。トラオはその木陰にぺたんと伏せて休憩をとる。

すっ、と冷たい風がトラオの横を吹き抜ける。静かな公園に人の気配はない。

見下ろすと、眼下には、トラオが歩いてきた街並みが広がっている。

この景色の何処かに自分の家があるのだろうが、もうトラオにはすっかり分からなくなっていた。

こうしてみると、随分と高い所まで登って来たようだと思った。ふと見上げると、いつものように空が広がっている。でもそれは、まだまだ届きそうもないぐらいにずっと高い所にある

トラオは初めて世界の広さを感じていた。

“行きましょう”

しばらくして、アトモスがそう言う。

〈分かった〉

そしてトラオはゆっくりと立ち上がる。

“こっちです”

〈あ、ちょっと待って〉

トラオは少し先にに見える水たまりに近づくと、クンクンと匂いを嗅ぐ。そして、ぺろぺろとその水を飲む。

こんなことしたら、飼い主に絶対叱られるな、と思いながら喉を潤した。

そして

〈さっ、行くか〉

と言って歩き始めた。

だんだんと日が暮れ、辺りは薄暗くなっていく。





〈ああ、お腹空いた、、〉

トラオの足取りは空腹のせいですっかり重くなっていた。

今朝はたくさん餌を食べてきていたので全く気にならなかったが、日が薄っすらと陰り始めた頃になって急に強く空腹を感じてしまう。そうなると、もうとてもじゃないが我慢できなくなっていた。

しかし、アトモスはずっと“もう少し我慢してください”としか言わない。

〈お腹空いたよう〉

仕方なくトラオは、アトモスの見えないリードに引き摺られるようにトボトボと歩き続けた。

すると、

“ここです”

と、アトモスが突然そう言った。

“今日はここで寝ます。食べ物もありますよ”

そのアトモスの言葉にトラオは戸惑ってしまった。

“あそこをくぐり抜けます”

アトモスの声がする方には生け垣が見える。

〈ここ?うん、、〉

トラオは、少しドキドキしながら、それをくぐり抜けた。

ぴょこん、と生け垣から首だけを出した時、

「ワワン、ワンッ。」

と甲高い犬の鳴き声が響いた。

その生け垣に囲まれた住宅の庭に繋がれた一匹の犬がトラオに向かって吠えていた。

キャンキャンと吠え続けるその犬を見つめながらトラオは生け垣を抜けて、庭に入った。

〈来た、来たよ。かあさん、ホントに来たよ〉

目の前で吠えている犬は、ちぎれんばかりに尻尾を振りながらトラオを見ている。その様子は、すごく喜んでいる事がトラオには分かる。

〈えーと、、〉

どうすれば良いのか戸惑ってしばらくその場に立ち止まった。

〈あら、本当〉

すると、その脇にある犬小屋からぬっ、ともう一匹の犬が顔を出す。

トラオはそれを見て少しぎょっとすると同時に、すっ、と頭を低くして警戒の姿勢を取る。

〈あらあら大丈夫心配しないで〉

そう言われてトラオは、はっ、として警戒を解いた。

どうして、そんなにいきなり警戒の姿勢を取ってしまったのか、自分でも分からなかった。そんな事は今まで無い事だったのに、と思った。

〈来たよ、お客さんが来たよ〉

仔犬の方は相変わらずキャンキャンと鳴きながら、繋がれたリードの届く限りの範囲でぐるぐると駆け回っている。

〈ちょっと、静かにしなさい〉

母犬はそう言って仔犬をたしなめた

その時、「お前らー、静かにしろよー。」と、丁度犬小屋のある軒の下から人間の声がする。

トラオは思わずびくっ、となる。

〈ほら、早くこっちいらっしゃい。そんな所にいると見つかっちゃうわ〉

母犬にそう言われて、トラオはクンクンと地面を嗅ぎながら犬小屋の方へ歩いた。

〈ほんとに来た。アトモスの言った通りだ〉

仔犬は、クンクンとトラオの匂いを嗅いでは、ぱっ、と離れ、そしてまたクンクンとトラオに近づくのを繰り返している。

〈アトモスが?〉トラオがそう言うと、母犬がちらり、とさっき人間の声がした軒先を見た。

そこにはカメラとスピーカーが付いたアトモスの拡張装置が取付けてある。

“今日の寝床として、予め頼んでおきました”

今度は首輪からアトモスの声がする。

ああ、アトモスは本当に何処にでもいるんだな、とトラオはまた思った。

〈あれっ?〉

仔犬がそれを聞きつけ、首輪にぐっ、と鼻を近づける。

〈ちょっとちょっと〉

じゃれつく仔犬にトラオは少し困ってしまいぐい、と頭を後ろに反らせる。

〈あっ、いけない。早く中に入って〉

その時、母犬はそう言うとトラオに犬小屋に入るように言った。急かすように母犬がトラオを奥に鼻先で押し込む。

すると、カラカラカラ、と犬小屋のある軒先の引き戸が開く。

「ほらほら、何騒いでんの。」

そう言いながら人間がそこから顔を覗かせた。

仔犬がそれに向かってキャンキャンと鳴く。

〈あっ、ねーねー、お客さんが来たよ〉

「わかったわかった。野良猫でもいたか?」

人間はそういうと、辺りを見回す。

母犬は犬小屋の入り口を隠すようにその場にうずくり、じっとしている。

「ほら、お母さんみたいに静かにしてな。もう今日はおやすみだよ。」

母犬の方を見てそう言うと、その人間は再び戸を締めて引っ込む。

トラオの目の前は母犬の身体で塞がれていて、何が起こっているのか見えない

〈もう良いわよ〉

母犬はそう言ってトラオの方を見ると、立ち上がって入り口からどけた。

〈それからこれ、食べなさい〉

と言って犬小屋の陰にある器を鼻でぐいと押し出す。その中には餌がまだ入っている。

〈やった、食べ物だ〉

トラオは夢中でその残っている餌を貪った。

〈アトモスがお腹も空かしているだろうから残しといとやれ、って言うもんだから、私の分をとって置いたのよ〉

ガツガツと餌を食べるトラオを見ながら母犬が言う。その様子を仔犬が興味津々と言った風に見つめている。

〈そんなにお腹減ってたの?〉

〈ねーね、美味しい?どこから来たの?〉

そう言いながら餌を貪るトラオに近寄ってくる。

「グルルルルッ。」

トラオの喉からうなり声が漏れる。

〈ひっ〉

その音に驚いて仔犬は母犬の傍に駆け寄る。

〈ほらほら、邪魔しない〉

〈こ、怖いよう〉

母親の足元に身体を擦り付けるようにうずくまる仔犬。

トラオはあっという間に餌を平らげると、口の周りをぺろりと舐めた。

〈あっ、ご、ごめん、つい‥〉

と言うとうずくまっている仔犬に気づいた。

〈怖がらせるつもりなんて無かったんだよ、、〉

トラオは唸り声を出した瞬間、しまった、と気付いたものの、餌を食べるのを止めることが出来なかった。

おまけに、何処からあんな恐ろしげな唸り声が出せたのか、自分でも驚いていた。

トラオは仔犬の前で両耳をぺたりと伏せて、頭を下げた。

〈いいのよ。仕方ないわ〉

母犬がそんなトラオを慰めるように言った。

〈もう怒らない?〉

〈大丈夫よ〉

母犬にそう言われて、仔犬はまたおずおずとトラオに近寄った。

〈ごめんよ〉

トラオはその仔犬の鼻先をぺろっと舐めた。

仔犬は一瞬びくり、としたが、安心したらしく、再びトラオに近寄ってきた。

〈どうして家に来たの?ここにずっといるの?〉

〈違うよ〉

〈じゃあなんで?〉

さっきまでの怯えた様子は何処へやら、仔犬は再びトラオにまとわりつく。

〈母さんの所に行くんだ〉

〈えっ、母さんはここにいるよ〉

仔犬はたっ、と母犬の元に駆け寄ると、今度はそれにじゃれつきはじめる。

“それはあなたの母犬です。トラオの母犬は別ですよ”

また軒先からアトモスがそう言った。

〈えーと、、、〉

仔犬の方はアトモスの言うことがよく分からない様子で首を傾げている。

その様子がトラオには少し可笑しかった。そう言えば、トラオも最初にそれを聞いた時には、よく分からなかったなぁ、と思いだす。

はっはっ、と小刻みに息をしている仔犬は自分より随分小さい。それに比べて母犬は自分より大きい。

〈この仔犬は産んだんですか〉

〈そうよ〉

トラオの問いに母犬がそう答える。二匹をしげしげと見比べるトラオ。

二匹の犬は同じ種類の匂いがする。別々だけど、同じ。トラオはそこに二匹の繋がりを感じ取った。

〈ほらほら、もう、大人しくなさい〉

じゃれつく仔犬を母犬が優しくなだめる。そして

〈この子のも直ぐに大きくなるわ〉

と言った。

そうだ、大きくなるんだ、そう思ったトラオは、自分もこうやって大きくなったんだと言う事に初めて実感を持てた。

〈もう寝るわよ〉

トラオにそう言うと

〈あなたも疲れたでしょう。こっちへ来て休みなさい〉

と、母犬は犬小屋の中へごそごそと入っていく。

その後を追うように仔犬がだっ、とそこへ潜り込む。

〈あら?どうしたの?〉

中々入ろうとしないじっと立ち止まっているトラオに母犬がそう尋ねた。

トラオは犬小屋とは言え、こんな屋外で眠った経験はなかったので、ためらっていた。

〈大丈夫よ。狭いけど、あなたぐらいなら入れるわよ〉

犬小屋から母犬と仔犬の2つの頭がにゅっ、と出ている。

確かにトラオも早く眠りたいのはやまやまななのだが、普段寝ている居間に比べて、かなり狭そうだ。

“外の温度は低くなると思います。犬小屋の中で寝たほうが良いです”

とアトモスもそう言った。

〈わかったよ、、〉

仕方なくトラオは、おずおずと犬小屋に向かい、入り口から身体をねじ込んだ。

〈キャハハハ〉

仔犬はいつもと違う小屋の様子にはしゃいでいる。

〈ほら、もっとこっちに体を寄せて〉

狭い犬小屋の中で三匹は体を寄せ合うようにして収まる。

寝られるかな、こんな場所で、とトラオは心配だった。

しかし、身体が触れ合っている場所から伝わってくる二匹の暖かさ、そして、母犬の匂いが、すぐにトラオを落ち着いた気持ちにさせる。

〈ゆっくりおやすみ。〉

まだもぞもぞと動いている仔犬とトラオに、母犬は優しくそう語りかけた。

トラオにとって初めての体験だったが、とても安らかな気分だ。

まだもぞもぞとしている仔犬を余所に、いつの間にか眠ってしまった。





トラオは夢を見た。

夢の中でトラオは柔らかい地面の上をふわりふわりと歩いていた。とても歩きにくいなあ、と思いながら何処かに向かっている。

歩こうとすると、足を取られてころん、と転んでしまう。だが、柔らかい地面は優しくトラオを受け止めて全然痛くはない。

また起き上がってふわふわと歩き出す。何処へ向かっているのか知らないが、とにかく、歩き続けていた。

クンクンと鼻を動かして、自分が向かっている方向を確かめる。

ただ、この匂いの所に行かなければ、と分かっていた。でも、この匂いの元は何なんだろう。行かなければならないのは分かっているのだが、それが何の匂いなのかは分からない。

ふわふわと進み続ける。

踏みしめている地面だけでなく、身体にまとわりつく空気も全部、なんだかふわふわと柔らかい。

気持ちは良いのだけれど、そのお陰でなかなか前に進まない。またころん、と転けてしまう。

転がったままの姿勢で天を見上げる。

あー、もう。でも、このままでも良いか、気持ちいいし。と体中を柔らかく包み込む柔らかい世界でトラオはそう思う。

すると、あの匂いが辺りから漂う。そして優しくトラオを包み込む。

ここでは、とても良く眠れそうだ、トラオはそう思って目を閉じる。

しかし、風景は一向に変わらない。あれ、目を閉じると何も見えなくなるはずなのに、辺りはまだ柔らかい光で包まれているままだ。

どうやらここでは目を閉じても景色が変わったりしないらしい。のんびり寝てなんか居られないという事だ。どうして?こんなに気持ちいいのに、トラオはそう思ったが、ああ、そうか、と気づく。

あそこに行くんだった、寝てる場合じゃないんだ、と立ち上がる。

クンクンと鼻を動かして匂いを探る。そう、この匂いだ、この匂いのする場所に行かなければならないんだ。

匂いを辿ってふわふわとした地面をある歩き続ける。

そう、この匂い、懐かしいこの匂いにたどり着かなければ。





とんとん、と何かを叩く音でトラオは目を覚ます。

その目の前に何かかが迫ってきている。驚いてはっ、と頭を上げる。

〈あら、目が覚めたのね〉

その塊からそう声がした。

トラオが顔を上げた先には、母犬の顔が有る。どうやらその腹に顔を埋めて眠っていたようだった。

ぱたぱたと何かが飛び立つ羽音が犬小屋の天井からした。

トラオにピッタリとくっ付いて仔犬がまだ寝ている。それを起こさないようにゆっくりと犬小屋から這い出る。

明るい朝日が辺りに降り注いでいる。少し先で数羽の雀が地面をついばんでいるのが見える。

トラオは、身体をブルブルと振る。目覚めがいつもと全然違う。なんだかとても身体が軽い気がした。

“起きましたか。では、行きましょう”

首輪からアトモスの声がする。

〈行くの?〉

母犬が小屋の中からトラオに声を掛けた。

“はい。ここの飼い主に見つかる前に出かけます”

〈そうね。それが良いわ〉

母犬の奥では、仔犬がまだ寝ている。幸せそうなその寝顔をみて、トラオは自分の見ていた夢を思い出していた。

そして、きっと同じような夢を見ているに違いない、と思った。

でも、あの仔犬は夢の中でもぐっすり眠れることだろう。だって、あの匂いがすぐ側にあるんだから、と思った。

〈じゃあ、行きます〉

〈気をつけるのよ〉

〈はい。ありがとう〉

トラオはそう言って歩き出す。

さっきの雀がパタパタと飛び立つ。

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