8 懐古ということ
へんに懐かしくなる。今はもうない街角が。
まるで見たことがあるかのように懐かしく思えた。青銅のガス灯に煉瓦造の家々。石畳の道には貴婦人や馬車が謳歌していて薄闇には家なし子がいる。オペラを見るために劇場へ急ぐ、妻に飽きた男たちが娼館に急ぐ、ディナーに間に合うためにレストランへ…
俺は外つ国に行ったことがないのだけれど、しかも海外風の家にすら住んだこともないのだけれど、あの西洋の窓とランプが脳みそに焼き付いていた。
街角の、ふとした折に横目で見たときの、その向こう側にある幻が苛む。俺の目には絶対にドレスと燕尾服が写っているのに。
いつだか江里咲に佐々木の別邸は洋造だと聞いた。
ガラス張りの温室があって、思わせるのは博覧会を開いたという
…行ったら、この焦燥にも似た記憶がどうにかなるのかもしれないね。
つまりは治せ、と、そういうことだった。文字を書くな、という言葉とも同義だ。俺の文字たちの源泉は疑いようもなくその幻なのだから。
「お前の家に行ったら、治せるのかい」
随分久しぶりに顔を見せた友達はこれまた随分とやつれていた。だけど着ているものは上等なウールのジャケットだ。そのやつれと引き換えに手に入れたものだろう。
俺の言葉を聞いた佐々木は本から顔を上げた。彼が手にしているのは懐かしい俺が初めて出した本。若気の至りが満載で、時々読み返しては羨ましい。
「…病は気から、というが、お前の場合気が病だからなぁ。来たところで寝具が変わるくらいだろうよ」
それよりもちゃんと食事を取れ。似た説教をされる。
「甲斐甲斐しいあいつのことはしばらく忘れろ。そして頼れ、俺たちを。友人一人くらいならまかなえる程度には立て直した」
「まさかそのために復興したなんてお言いでないよ」
「言う」
ざ、と衣擦れの音は二つ。だから目線は会う。まともに見た目には深い青が宿っていた。もしくは儚い雪柳。洋装のよく合う友人は口を開いた。
「俺たちは3人であいつを待つと約束しただろう。末期にとらわれるな。本当に逝ってしまうぞ」
矛盾しているよ、とは言わなかった。生きるための
復員者が続々と港に着く中、幾人かの”一人”と知り合いになってしまうくらいには待った。何人かは諦めて生活に戻っていったし、何人かは狂っていったし、後の何人かは後を追いかけていった。俺はしぶとい内の何人かだ。
彼の話を、面白いくらいに聞かない。
復員者の話に耳をそばだてたり、伝言板を見に行ったりしても、不思議なくらい目にしない。彼のあの珍しい、漢字をこねくり回したかのような名前を見れない。一体どこの所属で、日本にいたのかそれとも外つ国に行ってしまったのかすらわからなかった。
出征したことは確か。
そして彼が存在したということも確か。
でも日がな一日外にいることがもうできない。
佐々木に彼がどこの所属になったのか聞いたことがある。彼の家ならそんなことを調べるのは朝飯前だ。だけど返ってきたのは「空軍、らしい」というなんとも不確定で絶望的なものだった。
いっそ泣けなかった。
「佐々木、伊沙楽はなんで帰ってこないんだろう」
同病相憐、なのだろうか。彼はそれが嫌で帰ってこないのだろうか。
「大丈夫、荻原は、あいつは、お前ほどやわじゃない。変な笑い方しながら帰ってくるさ。だから生きろ」
伊沙楽が帰ってきたらこの、西洋風の焦燥は消えるのだろうか。
漠然と思った。
多分、否だ。
俺の焦燥は本物だから。伊沙楽のとは違う、本物だから。
——知っているのでは?理由を
俺たちは似ている。確かに同じものを見ている。けれど、見ているものが同じでも感じ取るのは個人。傾ぐ。ずれる。
白い部屋でも俺は水と低い音。高い天井の隙間から覗く薄青の空。つまりは美術館の静謐。
彼は絶望だけだったんだろうか。
このズレはその内”差”になる。何の”差”か。つまりは天才か否か。彼はこれに気づいた?
「だけど俺は君がいないと書けない」
俺は書かないと生きてゆかれない。君は、否だ。羨ましい。
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