第19話 Red Red Red(3)

(1)

 

 ――遡ること、約二十六年前。リントヴルム東部国境沿いの街スラウゼン――



 咽返るような血の臭気が鼻腔の奥まで流れ込む。

 咥内は錆びついた鉄の味が拡がっている。

 オークの巨木に杭で打ち付けられた両の手足の骨は砕かれ、筋や腱も切れている。顔の形が変わるまで殴打されたあげく、左目を抉り取られた。薄茶色の髪の色素が抜け落ち、真っ白に変わってしまった。


 万が一、否、億が一、一命を取り止めたとしても、もう二度と銃を撃つことは叶わない。それどころか、歩くことも腕を動かすことさえも最早ままならない。

 不具と成り下がった以上、日の当たる場所で生きていくことすら困難だろう。ただし、この状況で一晩放置された状態では生きて助かるとは到底思えないが。



『あの女を囲ったせいで夫は病に侵されて死にました。夫の死をきっかけに追い出そうと思っていたのに、息子まであの女の美しさに惑わされ、父の使い古しだというのに囲い始めたのです。そしたら、息子まで事故で死んでしまいました。あの女が屋敷に来てからというもの、我が家には不幸が相次いでいます。きっと、あの女は魔女の類で、我が家を乗っ取ろうと密かに呪詛を行っていたのでしょう!』



 リザを囲った男の一族の女達は、何の根拠もない訴えを持って教会へと駆け込んだ。彼女の類まれな美貌や愛人としての裕福な生活を羨み、嫉妬心を膨らませていた街の女達もこぞって賛同し、リザは魔女裁判に掛けられる羽目に。

 魔女を育てた罪への罰だと、すでに彼女の両親は拷問を受けた末に火炙りの刑に処せられた。

 だから、教会に隣接する魔女の塔に監禁され、拷問を受ける筈だった彼女を連れ出し、共に街から逃げようと――



(……先を行かせたあいつが、街の追手に見つからずに、この森を抜け出してくれていれば、いいが……)


 この、ヤドリギの実が多く成る巨大オークが自生する森は、幼い頃の二人の遊び場だった。と言っても、猟師の父の手伝いで、猟銃を手にウォルフガングがこの森に狩りへ出かけるのを、彼より四つ年下のリザが興味津々の体で勝手にくっついてきた、というのが正しかった。

 子供が木登りするにはかなり高い位置に成るヤドリギを、よく銃で撃ち落としてはその実を二人で分け合い、食べていた。如何に実を潰さないよう慎重に、確実に枝を撃ち落とすのを繰り返している内に、ウォルフガングの銃の腕は日を追うごとに上がっていった。現在の彼が東方軍一の腕を誇る狙撃の名手と成り得たのも、この少年時代の日々が根底となっている。


 しかし、どんなに狙撃の腕が高かろうと、日々厳しい鍛錬に励み、強靭な肉体と体術を得ようとも、素人とは言え武器を手にした五十人以上の多勢に無勢が相手では敵う筈がない。増してや、最大の武器である銃は護身用にリザに持たせたため、彼は丸腰であった。三十人弱までは体術で制したものの、徐々に体力が弱まっていくにつれて形勢は逆転していく。


『魔女を匿い、あまつさえ逃がそうとした。法的な罪に問われない代わりに我々が罰を下す』


 私刑。

 数を笠に着た民衆の凄惨な暴力がウォルフガングに襲い掛かる。


 二十四年前、魔女マリアを討伐したゴードン・ギュルトナーが元帥に就任すると、法で魔女狩り及び、関連する拷問や私刑は禁止された。にも拘わらず、元々教会の力が他の土地よりも根強いスラウゼンでは法の目を掻い潜り、魔女狩りや拷問が行われ続けていた。

 しかも、スラウゼンの魔女狩り対象者は本物の魔女ではなく、『あくまで魔女の疑いあり』というだけで、何の力も持たないごく普通の女性であることが圧倒的だった。つまり、魔女狩りにかこつけて気に入らない者を糾弾し、排除するのが目的のようなもの。

 彼が属する東方司令部の幹部達も、街の者達の報復を恐れ、魔女狩りについては『関与せず』の態度を貫き、放任している。


 ウォルフガングとリザは生まれ育った街の因習を幼い頃から忌み嫌っていた。

 彼が軍人を目指したのも、好戦的な隣国ヤンクロットの襲撃から家族やリザを守りたいという思いの他に、いずれは東方軍の最高司令官となり、スラウゼンの因習を取り払いたいという願いからきていたのに。

 リザが魔女の嫌疑をかけられ、彼女と逃亡を図ったことで彼の生家は家族ごと焼き払った、と私刑を執行する男達の暴行を受けながら聞かされた。


 夢も家族も愛する女も失った今、彼に残されたものなど何一つとして、ない。

 せめて、リザだけは、無事に生き延びて欲しい。


 僅かに開いたままの、虚ろな右目も閉じかけている。

 遠のいていく意識を手放すまいとするだけ、無駄かもしれない。


 残された生を放棄するかのように、ウォルフガングの意識は今にも途切れそうだった。









(2)


 白い石と赤煉瓦を組み合わせて建設された、古い尖塔。

 防衛目的で建設された砲塔の一角だが、教会と隣接することから、現在では魔女の嫌疑をかけられた者を幽閉し、拷問にかける為に使用されている。

 老朽化に伴い、煉瓦の赤は禿げた赤茶色に、白石の白は薄灰色に変化した壁。

 塔の最上階にて、壁を白い指先でなぞりながら、リーゼロッテは鉄格子を設けられた小さな窓から月をずっと眺めていた。そうでもしなければ、平静を保っていられないから。

 

 何故、私が。

 ここ数年、何百何千と胸の内で繰り返されてきた言葉が過ぎる。


 弱みに付け込み、金に物を言わせる五十も上の老人に、無理矢理囲われ者にされたこと。想う人がありながら、愛してもいない男に偽りの笑顔を向け、肌を許さねばならなかった日々。

 それ以上に彼女を苦しめたのは、厭らしい欲望の視線で見つめる男達に、嫉妬を露わにさせる女達。二十にも満たない娘にとっては想像を絶する気苦労の連続。 

 かつての恋人ウォルフガングが東方軍一の狙撃の名手となり、ヤンクロットとの国境防衛戦で活躍しているという話を風の便りで聞くことだけが、唯一の慰めだった。

 彼の噂を耳にするように、巷で流れる自分への(謂れなき)悪評は彼の耳にも届いているかもしれない。

 最期に、一目でいいから会いたい。けれど、スラウゼンの英雄と、男を惑わし不幸に陥れる魔女では、いかにも釣り合わない。

 それに、出世の道を邁進する将来有望な若い軍人を、他の女が放っておく筈などない。結婚したとは聞いていないが、恋人の一人くらいはいるだろう。


 薄っすらと死臭が漂う、冷たく、薄汚れた石の牢獄の部屋で一晩過ごしたら――、明日は尋問と言う名の拷問にかけられる。

 鉄の処女に閉じ込められ、全身を針孔だらけにされるのか。もしくは、牽引器具で手首が鬱血しても尚、天井高く吊るされ続けるのか。

 清廉潔白な身にも関わらず、拷問と火炙りに処せられた両親を思うと、自分も同じ目に遭うべきなのかもしれない。そう、怖くなんか、ない。怖く、なんか……。


「??」


 塔の外に設置された階段から、コツコツコツと、人の足音が響いてくる。

 一体、誰――、窓から背後の扉へと視線を移動させ、身を固くさせる。

 ガチャガチャと、錠を外す音。

 

「誰なの?!」


 思わず叫んだのと、扉が開くのは同時だった。

 開いた扉の先には、人並み外れた長身、薄茶色の髪、鋭い青紫の三白眼の軍服を着た男が立っていた。


「……ウォルフ……」


 四年前に別れたきりの、会いたくて仕方がなかった男が、リーゼロッテのすぐ目の前に現れた。大きな戸惑いと僅かな歓喜がないまぜになり、その場から動くことも口を開くことも出来ない彼女の元へ、ウォルフガングは足早に近づいてくる。


「リザ。今すぐ、ここから逃げるぞ」

 それだけ告げると、ウォルフガングはリーゼロッテの手を強引に取ると、扉まで引っ張っていく。

「ま、待って、ウォルフ!逃げる、って言っても……、外には見張りが……」

 そもそも、彼はどうやって見張りの目を掻い潜り、あまつさえ塔の鍵を手に入れたのだろう。

「……見張りの者には『ここに幽閉された魔女は大層美しい女だとか。拷問で美貌を損なわれる前に一目見ておきたい』と、金を握らせて鍵を借りた……」

「貴方、馬鹿でしょう?!」


 恐らく『スラウゼンの英雄』の立場を利用し、強引に行動を起こしたのだろう。

 夜更けに鍵を奪ってまで囚われの女を見物しに行く――、ただ会うだけのつもりでないくらい、誰でも分かることだ。


「何で、そんな……!そんな、貴方の評判を下げるような真似……!!……呆れた!!」

 気付くとリーゼロッテは、昔のようにウォルフガングに怒りを露わにさせ、突っかかっていた。

「私のせいで、お父さんもお母さんも死んでしまったのに!!貴方にも類が及ぶようなこと、私はしたくない!!今すぐ出てって!!」


 あんなに会いたいと願っていたのに。勢いに任せてリーゼロッテは、出て行け、帰れ、と、喚き散らした。

 ウォルフガングは、泣きそうな顔で怒り狂うリーゼロッテをしばらく黙って見下ろしていたが、やがて諦めたように「……分かった……」とだけ言うと。

 彼女との距離を一気に詰め、力一杯か細い身体を抱きすくめた。


 予想外の出来事に怒りよりも驚きが勝り、彼の腕の中で暴れることもせずリーゼロッテは急に大人しくなった。

 彼の体温や匂い、鍛え上げれた腕や胸の感触が軍服越しに伝わり、嬉しい様な切ない様な、懐かしい感覚で胸の奥が激しく疼きだす。

 このまま、ずっとこうしていられたら――、次第に夢心地の気分に陥ってきたリーゼロッテに、ウォルフガングが語りかける。


「……あの時、『一緒に逃げて欲しい』と訴えてきたお前を追い返したことに関しては、後悔していない。だが、一年前にカスパル爺さんが死んだ時、すぐにでもお前を取り戻すために屋敷に押し掛ければ良かった、とは後悔している……」

「無理よ……。この前死んだ新しい当主が、きっと理由をつけて手放さなかったと、思う……」

「そうだろうか……。そうしてさえすれば、もしかしたら、お前が魔女の疑いなんてかけられずには済んだかもしれない」

 口調こそ平坦だが、彼の後悔や怒り、悲しみの念はリーゼロッテを抱きしめる腕の力が強まったことで痛い程伝わってきた。

「ウォルフ……、苦しい……」

 さすがに苦しくなってきたリーゼロッテが彼を見上げ、青紫の瞳と視線が絡み合った、その時。リーゼロッテの唇と、ウォルフガングの唇が重なり合った。

 

 四年前までの、唇が軽く触れ合うだけのようなものではなく。

 引き裂かれてから互いに秘め続けていた想いを確認し合い、ゆっくりと味わうような、激しく、濃密なキスを交わし合った。


 白雪姫は王子様のキスで目覚めたけれど。

 リーゼロッテはキスだけでは到底物足りなかった。


 この街から上手く逃げ延びて、二人で幸せに暮らせるのかどうかなんて。

 不幸に見舞われ続けた彼女には、どうしても信じられなかった。

 だから、今すぐ彼の全てが欲しかった。


 

 数時間後、彼女の悲しい予感は見事に的中し、二人は再び離れ離れとなってしまったのだから。

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