第24話 鳥を見た
新宿御苑にほど近いとあるマンション、バブル時代よりもずっと以前に建てられたそこに三人の家族が引っ越してきたのは二〇世紀最後の年のことだった。
窓から御苑の景色を臨むことこそできなかったが、徒歩数分で御苑の東端に位置する
そんな日常が一人息子の不登校をきっかけに崩れ始める。彼の両親は彼が幼いころから受験よりも情操教育に力を入れてきた。そのおかげで彼はクラスの誰よりも感受性が強かった。しかしそのことが災いしたのだろう一学期が終わるころには教室内で孤立、そして彼が登校を拒否して自室に引きこもるようになったのは高校一年生の夏休み前のことだった。
それから数年後、彼は人気急上昇中のアキバ系アイドル
一人息子が起こした事件の全容を知った父親は体面を気にしての自主退職、彼ら夫婦は自慢の住まいも売却して他所でひっそりと暮らすことを選んだのだった。
「……と、まあそういうわけだ。人それぞれに歴史ありってやつだな」
署内の来客スペースで
「社長、例の資料を二人に見せてやってくれ」
すっかり油断していた社長は突然の指示にあたふたしながら目の前の角形封筒からクリップ留めされた数枚の資料を取り出すとそれを二人の前に差し出した。
「捜査の情報を部外者に教えるなんてことは普通ではあり得ないんだが、おまえらは特別だ。ただし、ここで知った情報は他言無用だぜ」
警部はウルスラグナの顔を見ながら噛んで含むように言った。
「ウルトラちゃん、他言無用って意味はわかるな?」
「承知している。だが警部、我が名はウルトラではない、ウルスラグナだ」
ウルスラグナはムッとした顔で警部を睨み返した。
「ハハハ、結構、結構。それでは話を続けようか」
むくれるウルスラグナと呆れた笑みを浮かべる孝太を横目に相庵警部は資料の中から一枚の写真を差し出した。黒縁メガネの奥で焦点が合っていない虚ろな目をしている真面目そうな青年、それがEQuAを襲った青年だった。
「
警部は続いて二枚の写真を並べる。
「これがヤツの部屋だ。どうだ、いかにも、って感じだろ」
PCデスクの上にはたくさんの小さなフィギュア、それらが楽し気に液晶モニターを取り囲んでいる。正面向かって右に見えるショーケースと書棚も様々なスケールのフィギュアで埋めつくされていた。
それらに混じって目につくのが部屋のいたるところにあるEQuAのロゴ、そしてその極めつけは棚の向かい側、正面向かって左の壁に掲げられた大きなタペストリーだった。
「それにしてもこの部屋、やたらとEQuAのグッズが目立ちますね」
「かなり熱烈なファンだよな。それで俺は直接聞いてみたんだよ、あの
「エ、EQuAにっすか、警部さんが?」
「あれの父親とは、まあ、いろいろあってな、コネやら
「タペストリーっすか?」
「そう、それ、それなんだがな、そいつはファンクラブ発足のときに販売された限定品だそうだ」
「ってことはかなりコアなファンっすね」
「ああ、娘がスタッフに調べさせたらしいんだが、会員番号はひとケタ代、八番だったそうだ」
そこまで熱心なファンだった彼がなぜあんな事件を起こしたのか、孝太にはそれがさっぱり理解できなかった。
「それで俺も気になってな、先日取り調べに顔を出してみたんだが、これがどうにも話にならんのだ」
警部は孝太に逮捕劇のあらましを話した。
会場で逮捕されて連行されるまでの彼は極度の興奮状態だった。しかし所轄の警察署に到着したときには今までのそれがまるでウソだったかのようにおとなしくなり、まさに放心状態、挙句にそれまでの記憶の大半が失われていたのだった。
もちろん、名前や家族、自分の住まいや境遇などは覚えている。しかし事件当日とそこに至るまでのある一定期間の記憶がすっぽりと抜け落ちていたのだった。
「鳥……」
そしてそれが彼の口から出た唯一の言葉だった。
「そこで、これも見てくれ」
それはPCデスクに置かれたキーボードの左端あたりを写したものだった。
パイン集成材の明るいカラーに黒いキーボード、そのすぐ脇には爪楊枝とマッチ棒が数本ずつ、それに輸入タバコらしき鮮やかな水色のパッケージが無造作に置かれていた。その封は切られており、そこから取り出されたであろうタバコは半分に折られ
そして何より不可解だったのがマッチ棒、そのいくつかは頭薬部分が剥がされてただの棒になっていたのだった。
神妙な顔で写真を見つめる孝太に警部が続ける。
「鑑識の連中も首を傾げてたよ。とにかくこの部屋にはタバコを喫った形跡がないってんだ。マッチだって何のために点火部分を剥がしたんだか皆目見当がつかん。それに爪楊枝だ。まさかタバコの葉っぱと楊枝で毒矢でも作ろうとしてたのか、なんて笑い話になってたぜ」
毒矢、その言葉に反応したウルスラグナが孝太の手から写真を取り上げるとそれをまじまじと見つめて言った。
「コータ、このタバコというのはどこで手に入るのだ?」
「そりゃコンビニでも自販機でもどこでも買えるよ、オレは喫わねぇから買うことなんてねぇけどな」
すると二人の向かいに座る社長がにやりとしながら胸ポケットからタバコの箱を取り出して、それをウルスラグナの前に置いた。
「ほらウルスラグナちゃん、これがタバコだ。喫ってみるかい?」
「おい社長、ここは禁煙スペースだ」
警部にたしなめられて照れ笑いする社長などそっちのけでウルスラグナはタバコの箱を手にして香りを確かめてみる。パッケージの中から漂う甘い香りが彼女の鼻をくすぐった。
社長はウルスラグナの手からタバコの箱を受け取ると、それをポケットに戻しながら写真に写るパッケージをトントンと指差した。
「ここに写ってるタバコ、ゴロワーズってんだけど、どこにでもあるってわけじゃないんだ。新宿広しと言っても扱ってる店は限られてるんじゃないかな。同じ両切りタバコでもピースならまだしもゴロワーズなんてかなりマニアックだと思うよ」
「よし、ならばこっちはその線をあたってみる、ゴロワーズを扱ってる店だな。社長と便利屋は部屋の片付けを頼む」
「承知しました。それじゃキバヤン、よろしく頼むわ」
いきなり話を振られた孝太が思わず聞き返す。
「頼むわ、って社長、オレがですか?」
「もちろん仕事として依頼するよ。ウルスラグナちゃんと二
そんな二人の会話に相庵警部がやけに神妙な顔で割って入った。軽口だった社長も警部を真似ていきなり険しい表情をしてみせた。
「実はな、その部屋なんだがちょいと訳ありでな」
「そうなんだよキバヤン、とにかく妙な話なんだよこれが」
社長はいつものクセでつい胸ポケットのタバコの箱に手を掛けたものの慌ててそれを引っ込めると、目の前の冷めた茶をすすりながら話し始めた。
「
「どういうことなんです?」
「それがわかれば苦労はないよ。これまで三回チャレンジしたんだけどさ、みんな結果は同じさ。部屋に入るだろ、すると一瞬目が眩んで気がつくと部屋の外さ」
「なんっすか、それ?」
「な、おっかしいだろ。それで部屋に入った連中がみんな同じことを言うんだよ」
「同じこと?」
「ああ、鳥を見た、ってんだ。その部屋で鳥なんか飼ってもいないのにさ」
社長の不思議な話に三人はすっかり黙り込んでしまった。その中でただ一人、ウルスラグナだけが手にした写真を神妙な顔で眺めていた。
「ウルス、どうしたんだよ、何か気になることでもあんのか?」
「そうだよ、どうしたのウルスラグナちゃん、顔が怖いよ」
その様子が気になるのか相庵警部までもが身を乗り出す。
「なあウルトラちゃん、言いたいことがあるなら言ってくれや」
ウルスラグナは写真を見つめながらぼそりとつぶやいた。
「
「ウルス、それって以前に言ってたこんな小さいヤツか?」
孝太が両手で二〇センチほどの隙間を作って見せた。
「そうだ。
「ってことは野の民ってのがこっちに来てるってことなのか、ウルスや
「なるほどな。ウルトラちゃんも業田もアッチの世界から来てるんだし、なら他にもそんな連中がいたとしても不思議じゃないってことか」
「もしそうだとしたら、ヤツらは危険だ。謀反の裏には常にヤツらがいた。こちらの世界でも何か企んでいるのかも知れない」
ウルスラグナの話を聞いた相庵警部が二人に不敵な笑みを向けた。
「それならなおのことコイツはおまえら向きの仕事じゃないか。
「キバヤン、なんならおれも一緒に行こうか。君らの話を聞いてるだけでおれまでワクワクしてきちゃったよ」
こうして孝太、ウルスラグナに便利屋の社長の三人で問題の部屋に向かうことになるのだが、まさかそこで再び事件が起こることになろうとは当の三人はおろか相庵警部すらもこの時点ではまるで考えていなかったのだった。
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