嘘つきの信頼

復活

 翌日、人の心配をよそに後輩はあっさり回復した。


 とはいえ、後輩本人から回復の報を聞いたわけではない。だが俺が出勤すると、既にオフィスには同僚と元気そうに談笑している後輩の姿があった。同じマンションに住んでいるといっても、毎朝、保育園へ百瀬を送っている後輩と俺が入り口でかち合うことはまずない。後輩が引っ越してきて以来、ご近所だというのにあいつの存在に気づかなかった理由はここにある。


 しかし治ったらなら一言くらい言えや。


 何も朝一で連絡してこいとまでは言わない。俺だって、子供のいる家の朝がどれほど修羅場なのかは知っている。けどせめてLINEなりなんなりで『治りました』の一言ぐらいあって然るべきではないだろうか。


 なんとなくムカムカしていると、相手はこちらの存在に気づいたらしい。入り口近くのコピー機の前で印刷をしていた後輩は、よっと気安げに手を上げてきた。


「せんぱーい!今日は早いっすね!おはようござ──ぶっ!?」

「うっせぇ。何事もなかったかのように挨拶してくんな」


 あまりに腹立たしかったので、挨拶替わりにアイアンクローを決めてやると後輩は悲鳴をあげた。


「痛い痛いいたたたた!先輩ちょっと、ギブギブ!」

「やかましい。治ったなら治ったで一言ぐらい連絡しろや」

「いや、後でしようと思ってたけど、先輩が予想以上に会社来るの早かったから……ていうか、なんで今日だけこんな早いんすか?いつもはもっと遅くくるでしょ先輩」

「お前が治ってなかったら早退して百瀬の面倒みようと思ってたからだよ」


 万一の場合は俺が手伝おうと思っていた。そのため、今日は午前中に仕事を片付けてなるべく早く帰るつもりだった。


 憮然と告げると、後輩はなぜか呆気に取られたようにポカンとなった。


「……前から思ってたけど、先輩って見た目チンピラのくせになんでそんないい人すぎんの?ひょっとして、なんか俺に弱味でも握られてる?」

「訳の分からんことを言うな。つーか、ワンオペで育児知り合いが体調崩してたら、そりゃ近所に住んでれば手助けくらいはするだろ。そこまで心狭くはねぇよ」


 子育てというのは大事業だ。その上、長期プロジェクトでもある。いくら昼間は保育園に通っているとはいえ、ワンオペ育児はいつか無理が出る。四つ子育児の最中に文字通り死にかけた姉を見てきた俺は、そのことをよく知っている。


 だいたい、病気の時はただでさえ辛いのだ。そこに子供の世話まで加わったら、治るものも治らないだろう。姉はインフルエンザで三十九度の 高熱が出た時、関節の痛みと頭痛で泣きながら授乳していた。なのでせめて、出来る限りをしようと思ったのだ。


 俺は百瀬の叔父でも親戚でもないが、できることがあって助けられる距離にいるならば。せめて手を貸すくらいはしてもいい。多分それは、特別なことでもなんでもなく、ごく普通のことだと思うから。


 そう伝えると、後輩はひどく奇妙な表情を浮かべた。困っているような、笑いを堪えているような、とても眩しそうな、あるいは今にも泣き出しそうな。


「っとに先輩は、そういうところが、そういうところなんだよな……うん。すみません。あれだけ世話になったのに連絡遅れたのは、確かに俺の不義理でした。おかげさまで、もう全快です」

「そうか、よかった。百瀬は?」


 移っていないかと念のために尋ねると、後輩はあっけらかんと言った。


「大丈夫。元気に保育園行きましたよ。俺ら兄妹、わりと頑丈なんす」


 それは昨日、高熱を出したばかりの人間が言うにはあまりに説得力に欠ける気がしたが、それを指摘するより先に別の所から声がかかった。見ると、足立と同じ部署の女性──確か堀川さんだったか──が書類を抱えながらやってくる。


「足立くん。人事の佐々木さんが、先日の申請の件でちょっと確認したいことがあるそうです」

「げ、なんだろ。書類の記入漏れかな。すいません先輩、この件は今度なんかお詫びしますんで」


 じゃっ、と片手を上げて足早に去っていく。そして後輩と入れ違いになった堀川女史が、不思議そうに聞いてきた。


「立花さん……足立くん、お詫びとか言ってましたけど、またなんかやらかしたんですか?」

「いや、やらかしたってほどでは……」


 風邪を引いただけだし、俺が勝手に世話を焼いただけで別に頼まれたわけでもない。あれ、そう考えるとひょっとしてあいつ、何も悪くないのでは、とそんな疑念が脳裏をよぎるが。


 堀川さんはふぅんと興味なさげに頷くと、少しだけ周囲を窺うような素振りを見せたあとで、すっと俺に身を寄せてきた。なぜだ。


 堀川さんと俺は仕事の絡みは殆どない。過去に同じ部署に配属になったこともないし、同じフロアということもあって名前と顔くらいは一致するが、間違ってもこんな距離感で雑談をするような仲ではない。


 色白でどこか小動物を思わせる堀川さんは、まるで内緒話でもするかのように、少しだけ背伸びをして俺の耳元に口を近づける。


 前の彼女と別れて以来、俺の周囲には殆ど女っ気がない。職場には女性もいるので、全く異性と話さないということもないが、こうして普段あまり接点のない相手に話しかけられると少しだけ緊張する。相手が若く可愛い女性とあっては尚更だ。しかし彼女の質問を聞いた瞬間、俺の期待は一気に瓦解した。


「……あの、立花さんって足立くんと仲が良いですよね?足立くんて、彼女とかいるんですか?」


 なんだ。この人も足立目当てか。


 そういえば、プライベートの駄目っぷりをよく見ているせいで忘れがちだったが、あの後輩は会社での評判が割と高いのだった。仕事が出来て顔もよく外面と愛想もいい。最後の二つに関しては、ただし俺以外にはという注釈がつくが。


「あー……多分いないと思いますけど、ひょっとして堀川さん、あいつ狙いなんですか?」


 途端にがっかりした気持ちをうまく押し隠しながら尋ねる俺に、彼女はにっこりと微笑んだ。


「狙いってほどじゃありませんけど、足立くんは競争率が高いですからね。気になってる子も結構いるんですよ。それにほら、彼っていつも帰り早いし、最近じゃ飲み会にもあまり顔を出さなくなってたし。ひょっとして彼女でもできたのかなーって」


 前は結構飲みに行ったりもしてたんですけどねぇ、と呟く彼女に、俺はそうなんですかと適当な相槌を打っておく。後輩が早く帰るようになった理由は間違いなく百瀬だろうが、そこまで堀川さんに教えてやる義理もない。


「そうだ。せっかくだから教えてくださいよ立花さん。足立くんって、どういう子が好みなんですか?」

「知りませんよそんなもん……つーか、そんなに気になるなら本人に聞けばいいじゃないですか」


 どうして朝っぱらからこんな質問を受けねばならないのか。若干うんざりしながら素っ気なく告げるが、堀川さんはは怯んだ様子もなくひょいっと細い肩をすくめてみせた。


「本人に聞くとうまくはぐらかされちゃうんですよ。今のところ、挑んだ子たちは全敗みたいだから、ここで新しい情報がゲットできれば後々役に立つかなーって」


 ペロリと舌先を覗かせながら悪びれなく言ってくるが、そのあっけらかんとした口調のせいか妙に憎めない。なんとなくだが、この人は後輩と同じタイプっぽいなと思った。


「──で、どうなんです?実際のところ」

「だから知りませんって。そもそも、どうしてそんなこと俺に聞くんですか」

「え、だって立花さんって、足立くんと仲いいじゃないですか」

「えっ」


 あまりにも当然そうに言われて逆に驚くが。彼女はむしろ、俺のそんな反応に面食らったようだった。


「えっと……仲良いですよね?ほら、足立くんの研修の時に担当してたの、確か立花さんでしたし」


 ああ、なるほど。仲がいいというのはそういうことか。要するに彼女は、部署は違えど付き合いがあったと言いたいのだろう。


「確かにあいつの指導担当は俺でしたけど、別に仲がいいってほどじゃありませんよ。ていうか、あいつって誰とでも仲良いじゃないですか」


 これは本当。後輩が入社してすでに三年経つが、俺は未だにあいつの悪口を言っている人間を見たことがない。それなりに人数が多いとはいえ、会社という閉鎖された空間で『誰の敵もならない』ということをやってのける後輩は、割と本気で凄いと思う。それでいて、ただの八方美人に収まらず結果を出すというのが恐ろしい。顔が良く仕事も出来て万人から好かれる愛されキャラ。改めて言葉にしてみると、ちょっと化け物みたいな奴である。


 なので、俺と後輩の仲がいいというのは誤解である。正確には、俺とだけ仲がいいわけではない。そう告げると、堀川さんはなぜかキョトンとなった。


「あの……私が言いたいのはそういう意味じゃなくて。確かに、足立くんって誰にでも愛想がいいけど、あの人って立花さんに対してだけはそうでもないっていうか、むしろ普通に失礼じゃないですか」


 ……あれ?

 そういえば、そんな気もしてきたぞ。


 確かにあの後輩は、基本的に誰に対しても愛想がいいが、俺に対してはそうでもない。確かそれでも出会った当初はそこそこ礼儀正しかった記憶があるのだが、いつの間にやら妙に馴れ馴れしいというか、端的にいえば雑な扱いを受けるようになっていた気がする。


 誰にでも好かれる後輩が俺にだけ態度が悪かったという、突如判明した悲しい事実に俺が密かに凹んだが、堀川さんの解釈はまた違うようだった。


「なので足立くんって立花さんにだけは随分と気を許してるだなぁって思ってたんですよ。彼、あなたと一緒にいるときだけはなんというか、すごく自然体な感じだったから」

「…………………」

「だから、立花さんなら足立くんの本心というか、好みなんかも知ってるかなーって。とい

うわけで教えてくださいよ」


 ねっと、手のひらをぱちんと合わせ、ついでにわずかに小首を傾げながらお願いしてくる堀川さんは、大変に愛らしい。愛らしすぎて、その望みを叶えるためならばついなんでも話したくなってしまうような愛らしさだが、残念ながら俺は後輩の好みなんぞに心当たりはない。強いていえば、見た目より遥かに食への執念が高いことぐらいだろうか。


「さぁ。知りませんよ。興味もないですしね。ああ見えて、意外と食うことが好きな奴なんで、料理が上手い人の方が気が合うとは思いますけど」


 掛け値なしに本心だったのだが、その回答はどうやら堀川女史のお気に召さなかったらしい。彼女は愛らしい顔にむっとした表情を浮かべた。


「そんな当たり障りのない答えを聞いてるんじゃないんです。もー、立花さんってははぐらかさないでくださいよ」


 別にはぐらかしたつもりはないのだが。不機嫌になってしまった堀川さんにそれじゃあと挨拶だけをして、俺は逃げるように早々に自分の席へと向かった。

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