第87話 いつもの景色

 湘南スタジアムでの第3戦、先発マスクは予想通り谷口だった。


 この日先発の大久保とベテラン同士のバッテリーを組むと、守っては老練なリードで活きのいいファルコンズ打線の裏をかき、打っては4打数4安打の大暴れ。以前戸高に「今回出たら、もう自分の野球人生で日本シリーズはないかも」と言っていたとおり、悔いを残さぬ活躍を見せた。


ドルフィンズはこの日、6対1と完全にファルコンズを圧倒し、待ちに待った日本シリーズ初勝利を手に入れた。


やはりベテランの奮闘というのはチームに活力を与えるものである。この1勝でドルフィンズに勢いが戻ってきた。


次の試合は1対2で惜しくも落として王手をかけられたものの、迎えるホーム最終戦に勝って、まだまだシリーズを終わらせてなるものかとドルフィンズナインは一層奮起した。


そして迎えた日本シリーズ第5戦。


ドルフィンズはこの日も3試合連続の先発マスクを被った谷口の2点タイムリーで先制するなど一時4点のリードを作るが、6回表にファルコンズ打線が爆発。一挙5点のビッグイニングを作られ、逆転を許してしまう。


そのまま4対5で試合は進行し、迎えた8回裏の攻撃後、ホワイトラン監督が突然ブルペンに現れた。


「次の回、立花を左の篠田に当てる。」


 入るなり開口一番、楓に投球練習の指示が下った。


 篠田はファルコンズ不動の三番、今シーズンは3割30本30盗塁をマークした左打者のスター選手だ。


(どこまで投げられるか分からないけど、やるしかない――。)


 楓がそう決意を新たにしようとしたときだった。


「反対です! 今シーズンは立花の左手を温存すべきです。」


 楓ははっとなって振り返る。


「戸高くん……どうして。」


 楓に返事をする暇も与えず、すぐに割って入ったのは戸高だった。


 不振と精彩を欠いたプレーから出場機会をほとんど与えられなかった戸高は、ホワイトラン監督がブルペンに足を運ぶのを見て、予感に従って追従していたのだった。


「なぜだ? チームドクターから3試合に1度のワンポイントなら、登板可能と診断が出ている。」


 楓のこととなると事ある毎に食ってかかる戸高に対して、今回ばかりはさすがにホワイトラン監督も苛立ちをあらわにした。


「そうやって立花の選手生命を消費するんですか?!」


 戸高も負けずに食ってかかる。間髪入れずにまくし立てた。


「ドクターはそう言うかもしれない。でもそれは『投げることは可能』という医療上の判断に過ぎません。それに投手の体は消耗品だ。ましてや体の華奢な女子選手ならなおさら。1球ずつ立花の投球が体を蝕むことを知りながら、この負け試合で起用するんですか?!」


 戸高は言い終わると肩で息をしている。


 ホワイトラン監督は、すべて戸高に話させるために黙っていたようだった。


「なぜ『負け試合』なんだ?」


 短い返答に戸高はぎくりとした。


 こめかみから一滴の汗が垂れるのが、端から見ても分かった。


 少しだけ口をまごまごと動かしてから、喉の奥から絞り出すように答える。


「これまでの――これまでのファルコンズの戦い方を見てきたからです。立花は、もっと勝ちを拾いに行く場面で投げさせるべきです。」


 ホワイトラン監督は再び最後まで聞いてから、ゆっくりと口を開いた。


 まもなく9回表の守備が始まるため、球団スタッフが呼びに来たが、右手を静かにかざして制止しながら話す。


「私はこの試合を諦めていない。だから立花を起用するんだ。ワンポイントというのは、そういう場面で投げる投手のことだ。たった一人の打者への投球で、一つのアウトの数だけでなく、試合の流れも手に入れる投手のことだ。だから安心しなさい。話は以上だ。」


 そう言ってベンチへの通路へ翻ろうとしたときだった。


「なら、俺が受けます。」


 決意に満ちた声に、ホワイトラン監督の足取りが止まった。


 しかし、


「私が君を起用すると思うか?」


と答えたホワイトラン監督の口調は、聞いたこともないくらい冷徹だった。


「ビジターでの2試合を壊し、ホームゲームで途中起用されても甘いリードで痛打を許した。加えて、代打で出場してもノーヒット。そんな選手をどうして試合に出さねばならない?」


 今度はホワイトラン監督が矢継ぎ早に戸高を責め立てた。


「これまでの君の貢献は十分に認めている。試合全体を俯瞰する洞察力と、冷静な判断。君がいなかったら日本シリーズにも出場できなかっただろう。だが、そのような頭脳を持つ君が、なぜ今の君を起用すべきだと言うんだ?」


「それは……。」


 戸高は返す言葉もなく、唇をかみしめている。


 河本コーチを始め、ブルペンの面々も両者のあまりの気迫に入っていくことができない。


 張り詰めた沈黙が流れていたそのときだった。


「私が望むからです。」


 口を挟んだのは楓だった。


「今の私は、スクリューも新しいシンカーも投げられません。入団した頃の、シンカーの大小しか投げ分けられない、球の遅い投手です。」


 突然の自虐に、ホワイトラン監督も真っ直ぐに楓の方を見て聞き入る。


「監督も言ってましたよね。私のボールは遅い、進化する必要がある、って。その進化の過程で手に入れたボールは使えません。でも、入団した頃の私が打者を抑えられていたのは――」


 戸高の方に向き直って続ける。


「私のボールを最大限に引き出してくれる、最高の捕手あいぼうがいたからです。」


 楓の一言に、ブルペンの空気が一層張り詰める。


 河本コーチが、ブルペン捕手の面々が、リリーフカーの側に控えたチアリーダーさえもが、呼吸をするのも憚られるほど固唾をのんで様子を見守っていた。


 戸高にはその沈黙が、一時間にも二時間にも思えた。


「まったく、私もほとほと甘いな。だからメジャーでは通用しなかったのかもしれないな。」


 ホワイトラン監督はわざとらしく大きくため息をついて、両の手のひらを上に向けながら首をかしげた。場の空気を和ませようとする、こんなときだけ欧米人らしいゼスチャーをするのが、彼の癖だ。


 一瞬目を輝かせて監督の方へ歩み寄ろうとする楓に言う。


「リリーフに失敗したら、分かってるな。これは戸高の選手生命を賭けた戦いでもある。」


 たまにこの人は、どこまで本気か分からないような、本当に恐ろしいことを言う。


 そして戸高の方に向き直ってもう一言。


「相棒に感謝しなさい。それから――」


 少し間を開けてから、


「君はもう少し、上司への礼儀をわきまえた方がいい。儒教を学びなさい。」


その場にいた誰よりも日本人らしいセリフを言うと、ブルペンにどっと笑いが起きた。


◆◇◆


 9回の裏、無視走者なし。


 迎えるバッターは三番・センター篠田。


 湘南のファンにとって聞き慣れた、だが懐かしい響きすらあるアナウンスがこだまする。


《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせ致します。キャッチャーの谷口に代わり、戸高。バワードに変わりまして、ピッチャー――》


 いつも通り少しためを作ると、場内へ緊張感が走る。


《立花。背番号98。》


 湘南スタジアムのドルフィンズファンが、一斉にどよめきにも似た歓声を上げる。


 これまでなりを潜めていたワンポイント投手の名が、日本シリーズで始めて告げられたのだ。


 日本一に王手をかけられ、1点ビハインドのこの場面。


 必ず“要所”で登板する投手の登場に、「まだ試合を諦めていない」という監督の思いがファンにも伝わったのだった。


 近づいてくる久々のマウンド。


 リリーフカーから見る、慣れ親しんだ視線の高さ。


 夜であることを忘れるほど煌々と注ぐカクテル光線。


 足下に響くベース音と共に鳴る自分のテーマ曲。


 マウンドへ向けて背中を押すかのような、大きな歓声。


 そして、マウンドからこちらを見る、マスク越しの眼差し。


「ありがとう! いってきます!」


 久しぶりのかけ声と共にリリーフカーを降りると、楓は戸高の待つマウンドへ駆け出した。

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