第65話 信条とプライド

 初戦を制し、タイタンズ1勝のアドバンテージを含めて1勝1敗に持ち込んだドルフィンズ。

 ドルフィンズ先発の須藤に対し、タイタンズはローテ4番手投手の岩倉の先発で試合は幕を開けた。


 この試合を取ることは、ドルフィンズにとって至上命題だった。

 負けてしまえば、タイタンズに対して勝敗数でビハインドとなるだけでなく、早くも「あと1試合負ければ王手をかけられる」というプレッシャーの中でCSファイナルを戦うことになるからだ。


 まず1回表、試合後の談話で「狙っていた」とコメントした金村の先頭打者ホームランでドルフィンズが1点を先制する。

 この日1番打者に座った金村は、誰よりも第1打席の大切さ、そして先制することの必要性を理解していた。


「よし、これでリードした状態で試合を進められる。この1本は大きい。」


 3塁ベンチ前で須藤とキャッチボールをする谷口も、この一打の意味を十分に理解していた。


「須藤、このリード、絶対に守るぞ!」


 と声をかけながら、長年ともに戦ってきた須藤にボールを返す。

 普段から表情をほとんど変えないポーカーフェイスの須藤が、谷口に対して右手を大きく挙げて答える。


 2人の信頼関係と経験で、ここからタイタンズ打線を華麗に交わしていく。


 はずだった。


 しかし、タイタンズは須藤の投球術も、谷口のリードも十分に分析していた。


 1回裏、2死走者1塁の場面で、須藤はタイタンズの4番太田に逆転の2ランホームランを許してしまう。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル2回戦)

湘南 10=1

東京 20=2


 これを皮切りに、2戦目は両チームが本塁打に苦しむ空中戦となった。


 3回表、今度はドルフィンズの4番田村が、お返しとばかりに同点のソロホームランを放つ。


 しかし3回裏、次はタイタンズ7番山本が須藤のシュートを捉え、レフトスタンド上段に豪快に運ぶ勝ち越しソロホームランを打つ。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル2回戦)

湘南 101=2

東京 201=3


 再びリードを許した谷口の脳裏には焦りが出始めていた。


(まずいな……追いかける展開がこれ以上続くと、試合のペースを持っていかれる。)


 幸か不幸か、史上最弱と言われたチーム事情から、谷口は追いかける展開の怖さを熟知していた。

 自慢にもならないが、追いついては突き放される展開で負けた経験の豊富さだけは球界随一だ。それゆえに、どのタイミングでの1点がトドメとなるのかは、体に染みついていた。


(次の1点は絶対に先に与えたらまずい。)


 谷口の脳裏に、走馬灯のようにこれまでの負けパターンが駆け巡る。


 この回をなんとか山本のソロ1点に抑えたドルフィンズは、続く4回表に2死2塁のチャンスを迎える。

 打順は6番の谷口。


(このチャンスをふいにしてしまったら、裏の攻撃で失点するんだよな。いつものパターンだと……。)


 悲しいかな、こういうときの予感にだけは自信があった。


(だから、ここで絶対に打たなければ。)


 今シーズンの打率.248、本塁打3本。普段は8番を打つ谷口を、ホワイトラン監督はこの試合であえて6番に起用した。

 理由は単純明快で、投手の須藤を早めの回で下げることを予期して8番に置きつつ、打撃のいい戸高との交代を視野に入れた6番器用だった。


 乱打戦になることを予想した順当な作戦だ。


(要するに、降って湧いた6番って訳だ。皮肉なもんだね。)


 谷口が6番を打つのは、まだ20代の勢いがあるとき以来だった。


(でも、体は衰えても、経験値だけは衰えないんだよ。)


 ゆっくりとバットを寝かせて担ぐように構えながら、相手捕手・上尾の配球に思考を巡らせる。


(若くて生きのいい岩倉のボールだ。追い込まれたらあの真っ直ぐを頭に置いて変化球に対応するのはまず無理。だとしたら、2ストライクを一番早くとる選択肢をとるはず。)


 相手投手・岩倉が投げた初球を、谷口は振らないと決めていた。


「ストライク!」


 主審の右手が高々と挙がる。

 膝元にストレートが決まり、カウントは0−1。


(なるほど……さすがに俺もなめられたもんだな。)


 ヘルメットのてっぺんに手をやりながら、バッターボックスの土をならして怒りを鎮める。


 谷口は、打つとしたら2ストライク目を取りに来る球しかないと考えていた。


 真っ直ぐが速くて球種が多い岩倉に対して、初球は選択肢が多すぎる。とはいえ、2ストライクに追い込まれてからの球は打てない。だとしたら、初球で方針を見極めて、2ストライク目を取りに来る球を狙い打つしかないと考えていた。


(しかしそれにしても、決め球にもなる真っ直ぐを初球でも安易に使うとはな。)


 岩倉は速球と多彩な変化球を武器にするオーバースロー投手だが、ファーストストライクと決め球にストレートを使うとすれば、2ストライク目は必然的にそれ以外の球種で取る可能性が高くなる。

 ようするに、狙い球をある程度絞らせても、最短ルートで2ストライクにさっさと追い込んでしまいたいと判断されたのだ。


 谷口は改めて「安パイ」と認識されたことの悔しさをぶつけるように、バッターボックスで一度フルスイングの素振りをする。


 そしてもう一度冷静になった頭で、


(だとしたら、2ストライク目はカーブ。問題は、何球目に投げてくるかだが……)


覚悟を決めた。


 あとはひたすらカーブにヤマを張って待つだけだ。


(万が一ってこともあるが、それでダメなら「ごめんなさい」だな。)


 それだけ、「負けのストックがある」という経験は武器になっていた。


 2球目、アウトコースにストレート。ボール。1−1。

 3球目、アウトコースにスライダー。ボール。2−1。


 ヒッティング・カウントになったところで、もう一度グリップを強く握り直す。


(もし俺がどこまでもなめられているとしたら……)


 岩倉がセットポジションからゆったりとしたフォームで投球モーションに入る。


(絶対に3ボールなんかに、したくないよな!)


 予想通りのコースに曲がってくるカーブを、ピンポイントでライト方向にはじき返す。


 打球は右中間を真っ二つに割ると、転々として到達した。

 それを見て2塁走者の新川は楽々とホームインする。


 抑えてきた打者だから、決め球で組み立てれば大丈夫。

 怖くない打者だから、3ボールにはしたくない。

 痛打される可能性は低いから、外野を前に出しておく。


 どれも、谷口を抑え続けてきた実績からすれば妥当な投球だったかもしれない。


「っしゃあ! どうだ!」


 相手チームの自分に対する評価を改めるように迫るかのごとく、谷口は大げさに2塁キャンバス上でガッツボーズして見せた。

 これで3対3の同点だ。


 その後、先発の須藤が4回裏を0点に抑えたと見るや、ホワイトラン監督は同点のまま須藤をマウンドから降ろし、継投策に入った。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル2回戦)

湘南 101 1=3

東京 201 0=3


 ホワイトラン監督の意図に、谷口もまた気づいていた。


(勝ち越しの重要性、それは誰から見ても明らかだ。)


 ドルフィンズは1回に逆転を許してから、同点にしては追いつかれる展開が続いている。

 前の回の攻撃で同点止まりだった以上、次また勝ち越されてしまえば、試合の流れは一気にタイタンズに傾く。

 同じ負けパターンを何度も経験したからこそ早期に気づける、「嫌な予感」だった。


 そして試合はその緊迫感を象徴するかのように、5回まで膠着状態となる。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル2回戦)

湘南 101 10=3

東京 201 00=3

湘南の継投:須藤(4回)、柏木(1回)−谷口


 6回表の攻撃を単調に3人で終えてしまったドルフィンズは、続く6回裏にマウンドに登った伊藤がピンチを招く。

 先ほどのお返しとばかりに2死1・2塁のピンチを招き、右打席にはタイタンズの4番・太田。


 一度ベンチからタイムがかかり、マウンドで投手コーチと内野陣が簡単な打ち合わせをする。


「谷口、いけそうか?」


 マウンドへ来た投手コーチが、投手の伊藤ではなく谷口に声をかけた。


 その意味に、谷口自身も気づいていた。


 このピンチに、打席には昨シーズンまでドルフィンズにいた太田。

 お互いに手の内を知り尽くしている関係にはあるものの、それが谷口にとって悪い方に転んでいたのは、今シーズンの成績から明らかだった。


 谷口がマスクをかぶった打席での、太田の打率は.332。現在の打率よりも高い。


 だが、


「はい、いけます!」


今日一番大きな声で答えた。


 相性が悪いことは知っている。

 特に秘策があるわけでもない。


 だが、楓が投げるわけでもないこの場面で、「相性が悪いから」という理由でベンチに引っ込んでしまうことは、もう正捕手の立場を自ら降りることと同義のように思えていた。


(この歳になって、結局最後は気合いかよ。)


 谷口は守備位置に戻ると、自分が出した声の大きさが今更恥ずかしくなった。


(でも、この回は、俺にとっても大事な回なんだよ。)


 ドルフィンズの勝敗と、自分の野球人生の行く末を賭けて、谷口は初球のサインを出す。


(アウトハイに、ストライクにする真っ直ぐ)


 普段回またぎのリリーフもできる伊藤だが、CSでは1回限定での起用を言い渡されている。

 伊藤も普段の枷が外されて、生き生きと大きなフォームで初球を投げ込んできた。


 太田のバットは豪快に空を切り、カウントは0−1。


 しかし、


(まずいな……。)


ドルフィンズファンの歓声をよそに、谷口は少し思案してから伊藤に返球する。


(スピードが乗ってるのはいいけど、真っ直ぐが手元でシュートしてる……太田はこれに……)


 ちらりと太田の顔色をうかがう。

 しきりに手首を返す動きを確かめるような素振りをしている。


(気づくよなあ……さすが、元ドルフィンズ不動の4番打者だよ。)


 マスクの奥で唇を少しかむと、再び頭を巡らせる。


(どうする? もう太田は気づいてる。だけど、タイプ的に真っ直ぐで押す伊藤が変化球を中心に組み立てたって、絶対に打たれる。しかもこの場面、1点もやれない……くそっ、どうする……?)


 これ以上待たせてしまうと伊藤にも不安を与えると考え、1球外にカーブで外すサインを出す。

 カウントは1−1になった。


 次のボールを出そうにも、「ストレートが悪いときの交わし方」のバリエーションは全部太田の頭の中に入っているだろう。


 もう1球外して様子を見る。

 当然のようにこれを太田は見逃して、カウントは2−1。


 自分の武器で勝負できない伊藤も心なしかイライラしているように見える。

 こうしたイライラを見せるのも、谷口を信頼している証拠だ。


 普段から伊藤をはじめ、投手陣からも谷口は慕われていた。


 「抑えたら投手の手柄、打たれたら捕手の責任」が谷口の信条だった。

 打たれたときには原因分析を誰よりも早くして、投手とともに解決策をコーチのところへ持っていく。いい抑え方をしたときは、勝因を明確にして、監督に報告にする。


 そういう投手一人一人の評価にも気を配った「試合外でのインサイドワーク」も、投手たちが谷口を信頼するゆえんだった。


 結果、谷口は20代半ばにして正捕手に抜擢され、以来ずっと正捕手の立場を10年近く守ってきた。


(いいよ、わかった。お前も悔いがないように投げたいもんな、伊藤。)


 心中する覚悟を決めると、谷口はアウトローへストレートのサインを出す。

 これまで何度も伊藤が打者を打ち取ってきたボールだ。


 伊藤は満足そうに頷くと、セットポジションから今日一番大きなフォームでストレートを投じる。


 予想通り、ナチュラルにボールがシュートして、真ん中に入ってくる。

 谷口はそれを予期して、真ん中よりにミットを構えていた。


(これで、シュートしても真ん中低めにはならない!)


 太田は待ってましたとばかりに打ちに来る。


(ここからシュートしてインコースへ……きた!)


 谷口の狙い通りのコースへ来た。


 だがその瞬間、太田のバットに触れると、ボールは一瞬で谷口の目の前から消えた。


 シュート回転がかかったボールを捉えた打球は速い回転がかかり、一度レフト方向に舞い上がるとなかなか落ちなかった。

 狙い通り低め厳しめのコースに来ていたが、しっかりと捉えられてしまっていた。


 打球はそのままレフトの頭上を越えてフェンスに直撃し、ドルフィンズは勝ち越し点を許してしまった。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル2回戦)

湘南 101 100=3

東京 201 001=4

湘南の継投:須藤(4回)、柏木(1回)、伊藤(2/3回)−谷口


「伊藤、わりい……。」


 ばつ悪そうにマウンドに歩み寄る谷口。


「いえ、しょうがないっす! 俺にも他になかったですし。」


 からっとした顔で答える伊藤。


 その通りだった。だから問題だった。


 谷口の考え得る中で、最良の選択肢をとって、そして打たれた。

 「打たれたら捕手の責任」が信条の谷口にとって、それは「何をしても打たれる」ということを意味していた。


 投手コーチが再び出てきて、交代を告げる。


「伊藤、谷口。次は立花だから、2人ともお疲れ様。」


 本来ならもう少し早く出てくるべきだった楓がここを抑えて、ドルフィンズはなんとか最少失点差で切り抜けた。

 しかし、結局追いつくこともなく、このままこの試合を落としてしまう。


◆試合結果(東京−湘南・CSファイナル2回戦)

湘南 101 100 000=3

東京 201 001 00X=4

湘南の継投:須藤(4回)、柏木(1回)、伊藤(1/2回)、立花(1/3回)神田(1回)、バワード(1回)、大嶋(1回)−谷口、戸高


 これで星は1勝2敗と1つビハインドだ。


「しゃーなし! まだまだここからですね!」


 すっかりムードメーカーの1人にもなりつつある楓が遠くで話すのを横目に、谷口が試合後のベンチで戸高に声をかける。


「戸高、ちょっといいか? 大事な話があるんだ。」

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