24 追悼/……

 どのくらいそうしていただろうか。

 雅樹は自分を呼ぶ声が聞こえたような気がしてふと目を開いた。

 再びごろりと仰向けになり、朝の光に溶け込みそうに小さくゆがんだ白い月、ダイモスをぼんやりと見上げる。


「いよいよ幻聴か……」


 彼はぽつりとつぶやいた。

 見渡すかぎり広がる、摂氏マイナス五〇度の赤い荒野。

 峡谷を吹き抜ける風がピンク色の土埃を巻き上げ、弱々しい朝日をいっそうはかなく陰らせる。

 だが、確かに聞こえたと思えた細い声は、それっきり聞こえなくなってしまう。

(絶望と孤独でいよいよおかしくなっちまったか)

 そのままずいぶん長く待ち続け、彼が失望の大きなため息と共にそう結論付けようとした瞬間、衣擦れのようなかすかな物音がノイズの向こうから響く。


「……さん」


 雅樹は自分の耳を疑った、


「おい! 誰だ? 誰かいるのか?」

「……おじさん」


 今度ははっきりしていた。

(幻聴なんかじゃない)

 雅樹はゼンマイ仕掛けの人形のように身体を起こした。


「誰なんだ? どこにいる? 答えてくれ!」


 わずかな沈黙。それだけで雅樹の心は不安に握りつぶされそうになる。


「……し、久美子です。薫も……ます。……に挟まれて……」


 ひどく雑音が混じる。


「何? よく聞き取れない!」

「バギーです! 私達、車に挟まれて動けないの!」

「え?」


 雅樹は慌てて振り向いた。砂煙を透かしてみると、崩れた縦穴のそばに、地震の激しい縦揺れで横倒しになったバギーの姿が小さく見える。


「なぜ!? どうして君達がそんな所にいるんだ?」

「私達二人、メイシャン先生に言われて急いで登って来たんです。おじさんに先生から大事な伝言が。でも、急にすごい地震で……」

「待ってろ、すぐに行くから。どこかにケガは?」

「大丈夫。挟まってるのはヘルメットだけ……だと思う。少しの間気絶してたけど、体の方は何ともないの」


 久美子は冷静だった。雅樹は彼女の冷静さに少しだけほっとすると、再び這うように穴のそばに戻った。


「おじさん。先生は?」

「その話は後だ!」


 雅樹はきっぱりと断言した。

 崩れ落ちた太い梁の下からのぞく華奢な肢体が一瞬彼の脳裏にフラッシュバックする。

 今はそれ以上考えたくなかった。

 雅樹は横転したバギーの天井に背中を押し付け、後ろ手にしっかりとフレームをつかみがら、ゆっくりと慎重に体をせり上げた。

 右足はがくがくと震え、少しでも気を抜くとそのまますとんと膝が抜けてしまいそうになる。とっくに感覚を失っていた左ひざにはドロリとした生暖かい感触が拡がるだけで、自分が本当に大地を踏みしめているかどうかすら疑わしい。

 だが、彼は気が遠くなるほど長い時間をかけ、それでもなんとか立ち上がることに成功した。


「もう少しだ! 頑張るんだ!」


 それは、子供達にというよりは、むしろくじけそうになる自分に向けた励ましだった。


「いいか! 俺がこいつをどうにか持ち上げるから、頑張って自分の力で這いだすんだ。いいね!」


 痛みと熱でかすみがちな視界の隅で、バギーの車体に挟まれたヘルメットの中の小さな顔がかすかにうなずくのが見える。


「それじゃ行くぞ! せーのっ!」


 雅樹は掛け声とともに背中に全体重をかけ、力一杯に両足を踏ん張った。右ももから、鋭い激痛がまるで百万本の針のごとく次々と背骨を突き抜け、脳髄を深々とえぐる。だが、車体はぴくりとも動かない。


「くそっ! 動けぇぇぇっ!」


のどの奥から搾り出すような大声で吼えながら、雅樹はさらに力を込める。左膝からは鮮血がドクドクと吹き出し、すねを伝って与圧服の中を満たす。のどがひりひりと痛み、口の中にまで血の味が広がった。


「うぉぉぉぉっ!」


 頭の中が真っ白になり、いつの間にか自分が獣のように吼えていることすらも判らなくなった。まるで何かに突き動かされるように、全身にありったけの力を込め、ただ、押して、押しまくった。

 と、不意に抵抗が消えた。バギーのフレームを握り締めていた雅樹は、車体の起き上がった反動でそのまま持ち上げられ、反対側まで跳ね飛ばされると、再び地面に叩き付けられた。


「どわっ!」


 背中をしたたかに打ち、息が詰まって動けない。そのままの姿勢でゆっくりとつばを飲み込み、荒い息をゆっくりと整える。そんな彼を心配そうに覗き込む二つの影があった。


「あ、あはは、無事だった? どこか痛い所はない?」


 不思議に、乾いた笑いしか出てこない。

 無言でこくりとうなずく二人の顔を見上げながら、雅樹はとめどなく笑った。笑いながら、なぜか涙が止まらなかった。


「おじさん、泣いてるの?」


 久美子が問う。


「いいや、泣いてなんか――」

「でも……涙が……」

「こ、これは、ちょっと傷が疼いて……あの」

「……おじさん」

「あ、別に…それほどつらくはないんだ。本当だ……」


 実際は痛いどころではないのだが、精神的ショックも疲労も濃いこの子達にこれ以上負担をかけるわけにはいかない。


「君達だけでも助かって良かった……」


 どうにか話題を逸らそうとして、雅樹はうかつに口を滑らした。

 その瞬間、二人ははっとしたように顔を見合わせ、お互い目をそらすようにうつむいた。子供達の肩は小刻みに震え、今にもしゃくり上げそうに大きく上下する。

 だが、久美子はそこで気丈にもきっぱりと顔を上げた。


「……メイシャン先生が言ってた。どんなにつらい時でも泣いちゃ駄目だって。つらいときにこそ笑顔でいないと駄目だって。だから私は泣かない。絶対に泣かないわ」


 そう言って久美子は一生懸命に唇を噛みしめる。

「……なんだ、九才の女の子にも俺にも同じことを言ってたのか。先生は」


 その声は不覚にもひどく震えてしまう。

 これじゃ子供達に顔が立たない。みっともない、情けないと思うのに、雅樹の目に再び涙がにじむ。


「おじさん、駄目よ。泣いちゃだめじゃない。おじさんがそんな風じゃ私達……」


 その後は言葉にならなかった。仰向けに横たわる雅樹の体におおいかぶさるように、二人は大声で泣き伏した。そんな彼女達の体を優しく抱きしめながら、彼もまた声を立てずに泣いた。


 すべてを失ったのに、自分は今だに生きている。そして、この子達の為に、まだ当分は何とかして生き続けなくてはならない。

 絶望の中で、かれはそのことだけを強く感じていた。もう厳しく叱ってくれる人も優しくアドバイスしてくれる人もいないのだ。ぼんやりしている暇はない。

 だが、しかし……

 先に逝った大切な人達を悼むために、今はもう少し時間が必要だった。

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