第36話 二人一緒で
「オレは力不足なのだろうか」
翌日のことだった。
耳に届いた彼の嘆息にオレは読んでいた本から顔を上げた。
読んでいたのは彼に選んでもらった霊医術の入門書だ。
椅子を引き、振り返る。
「ん?」
「ルノにも聞こえていたと思うが……父に『お前には力が足りない』と評された」
幻のようだった昨夜の出来事。
厳めしい顔をしたアレクシスの父は、容赦なく息子を突き放すような言葉を放ったのだった。
その瞬間のことを思い出しているのか、アレクシスの眉間には深い皺が寄っていた。
「オレはグロースクロイツ家の跡取りに相応しくないのだろうか」
「…………」
その悩みには軽々しく立ち入ることは出来ないと思った。
例え彼と想いで結ばれた仲と言えど、それを理由にして肯定も否定もすべきではないと思った。所詮オレは部外者でしかない。
だからオレは代わりにこう言うことにした。
「じゃあ、もし跡取り失格って言われたらオレと一緒に生活すればいい。日銭を稼いで暮らすんだ」
それは至極軽い口調だったが、とても勇気のいる一言だった。
もしも拒絶されたら……考えるだけで恐ろしいことだったが、オレは踏み出すことに決めたのだ。
一瞬の間。
「…………ふっ」
彼の顔が柔らかく笑顔を浮かべた。
「そうか、それは楽しそうだな。むしろ跡取り失格になりたいくらいだ」
「ふん、いかにもお貴族様らしい能天気な台詞だな」
憎まれ口を叩きながらも、くすりと微笑み返した。
彼の言葉に嬉しさが溢れてくるのを抑えきれなかった。オレと一緒なら苦しみを共にしてもいいと彼は言ってくれたようなものだからだ。
「オレも、何故あんたの父親が昨晩突然現れたのか考えてた」
「何?」
アレクシスは目を丸くする。
「結果的には助けられたが、あんたに頼んでいたんだからあんたの父親が出張ってくる必要なんてなかった。それでも昨晩、学園に足を運んだのは多分……」
少し、口ごもる。
言っていいのだろうかという躊躇がある。
オレがアレクシスの父親に会ったのは昨晩のあの時だけで、それ以外のことはほとんど何も知らない。だから、これはほとんど勘だ。
「多分、心配になったんじゃないか?」
「心配に? それはオレのことが? それともヒュフナーのことが?」
アレクシスの言葉にオレは肩を竦めた。
まかり間違って息子が殺されてしまうんじゃないかと心配したのか。或いは逆に息子に親友を殺させたくないと気が変わったのか。どちらかは分からないが、『何も知らなくていい。敵を討て』とだけ息子に文を送り返した癖に途中で心変わりしたに違いないのだ。
「言葉とは裏腹に、気の迷いがあったんじゃねえのかな」
多分、あの厳めしい顔を目の前にしてだったらこんなことは言えなかっただろう。
少し時間が経った今だからこそそう思うのだ。
「そうか。ルノにはそう見えたか」
「違ったか?」
アレクシスは考えるように床に目を落とした後、ほうっと息を吐いた。
「いや。ルノはオレが見えてなかったことを教えてくれた。……ありがとう」
アレクシスは憑き物が落ちたような晴れた顔をしていた。
多分、残念ながらアレクシスとその父の間には些かの価値観の相違があるだろう。アレクシスはオレのような人間にも対等に目を向けてくれるが、父親は生粋の魔術師らしく幾分かの平民の犠牲は仕方ないと思っている節がある。
それでも人間らしい気の迷いや躊躇のある、血の通った人間同士だ。アレクシスは価値観の違いに何処かで折り合いを付けて生きていくのだろう。彼の表情を見てそう感じ取った。
「……ヒュフナー教授はどうなるんだ?」
静かに尋ねた。
「彼の諸々の悪事が明るみに出たのだから、そりゃ大罪人扱いさ」
「……そう」
アレクシスの言葉に心が沈むのを感じた。
信頼していた教師の犯した凶行にまだ心の整理が追い付かなかった。
別に裏切られるのがこれで初めてという訳じゃない。傭兵稼業の中ではそういうことも度々あった。
だが……世の中にはヒュフナー教授のような『普通の善良な大人』が本当は多くいるのだと、一瞬でも幻視していた。
教授の処分自体は当然だと思うが、彼はこれから処刑されたりするのかもしれないと思うと一抹の物悲しさを覚えるのだった。
「ショックか?」
「いや」
首を横に振った。
オレの感傷は口に出すべきではない。
何故なら、アレクシスの父が口にしていた。ヒュフナーがグロースクロイツ家の使用人を勝手に実験材料云々に、と。その使用人というのが誰の事か分からないが、使用人が急死することなどそうはあるまい。やはりアレクシスの乳母のことではないのだろうか。
だとすれば、ヒュフナーはアレクシスの大事なひとの仇だ。オレがヒュフナーに対して感じている憐憫は徒に口にするべきではないだろう。
代わりに、ニヤリと笑うと立ち上がってアレクシスのベッドに腰を下ろす。
ギシリとベッドが軋んだ。
「アレクの方こそ元気がねえんじゃねぇのか?」
彼の愛称を口にし、彼が手を伸ばせばいつでも触れられる距離まで身体を寄せた。
これなら彼を挑発していることがハッキリと理解できるだろう。
なにせ、昨晩は何もなかったのだ。
一連の騒動が終わり、二人で部屋に帰った後。
積極的な彼のことだから、すぐにでも甘い言葉を囁いてオレを優しく押し倒すのではないかと思っていた。
実際、ベッドに押し倒されはしたのだ。ただ「猫と魂を入れ替えられたりなんてしたのだから早く寝て養生しなさい」という理由だったが……。
まったくお貴族様は行儀が良過ぎる。オレは期待してたのに。
まあオレも疲れが出たのかすぐに寝入ってしまったから、結果的にはアレクシスが正しかったのかもしれない。
だが、今日は違う。
だってオレが実質告白のような言葉を吐いてやったのだから、アレクシスはもっとそれに喜び咽ぶ顔を見せるべきだ。
そっと、彼の手に触れる。
「る、ルノ……っ!?」
驚きに目を見開く彼の顔が赤らんでいくように見えた。
少し撫でただけの手の甲も、熱く熱を持っていく。
こうしている間だけでも彼の頭から煩雑なことが消え去って、元気づけられるといいのだが。
「どうした? 昨日みたいに……抱き締めてくれないのか?」
いつだったかはいきなりキスした癖に、と唇を尖らせる。
アレクは存外迫られることに慣れてないのだろうか。
「ああ、いや――――すまない。少し思考が飛んでいた」
「なんだそりゃ」
彼は目を瞬かせると、ゆっくりとオレの身体に腕を回した。
彼の腕が身体を包み込むのに合わせて、オレは目を閉じて顎を上げた。
もちろん、
「……っ」
息を呑む音。
彼の狼狽える顔が見えるようだ。
一瞬、その可愛い顔を見る為に目を開けたくなる。
その衝動を抑えて目を閉じていると……
柔らかく、触れた。
彼の口が優しくオレの唇を食む。
彼の呼吸が微かに空気を綯い交ぜる。
そして一度口が離れた感触に目を開けると、彼の瞳と目が合った。
「ルノ。好きだ」
低い囁き。
胸の内から熱いものが込み上げてくる。
「オレも、好きだ」
気が付いたら口にしていた。
束の間、呆けたように彼の顔を見つめて――――くすりと二人で笑い合ったのだった。
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