第6話
「とりあえず、おいらは、」
そういってライトはサミュエルから聞いた「キリコ」なる人物を調べると立ち上がった。
「それで、男爵たちはどうします?」
というので、スタン伯爵が居そうなサロン・ド・ボーへ出かけ、スタン伯爵に会えれば会見をする。と言った。
「とにかく片付けられそうなものから始めるよ。なぜ彼が身代金を要求したのか。彼の側にエレナがいてくれたら、この件は終わりだ」
「なぜスタン伯爵が身代金を要求したというんです?」
サミュエルはマリアが持ってきた、焼け残った封筒のカスを見せた。
「ご丁寧に、蝋印に「スタン伯爵」と書いている」
全員が首をすくめる。
「解りました。その件は現在進行形ですからね。早期解決を願ってますよ。では、解ったらまたこちらに来させていただきますよ」
そういってライト記者は出て行った。
ライト記者の食べっぷりと食欲旺盛にマルガリタはたいそう満足し、続いたロバートやシダークレー子爵を褒め、コーヒーのみしか口にしないサミュエルに小言を言った。
サロンに貴族が足を踏み入れるのは、早くても十一時が妥当だった。競馬時期ならばレースが始まる14時に合わせ、その五分前まで券の購入ができる。あらゆる情報などを入れるために、ほとんどが12時ぐらいにやってくるので、サミュエルたちもそれに合わせて十一時半に訪れた。
すでにサロン・ド・ボーは人がたくさんいて、サマー・クラシックの後半初日のレース予想をしていた。
三人は四人掛けの席に座り、店の人を見渡した。
「居ません」とシダークレー子爵が言う。
二人は頷き、出入りする人を眺めた。
実際は、出入り口を見張っていたのはロバートだけで、サミュエルは過去に一度対面した「キリコ」の姿を思い出していた。
女王陛下による当日の夜会への参加要請に渋りながら向かった先にいた聖職者だった。
スタン伯爵がサミュエルとキリコから離れて、キリコが話を切り出した。当時、連続殺人事件が発生していた件についてだ。
―なぜ、殺人を犯すのか?―と聞かれたので、
「快楽だ」と答えた。
すると、キリコは喜び、更には持論を展開した。だがその持論があまりにも腹立たしい身勝手な印象を受けたので、サミュエルは、
「犯人は愚か者だ」
と言った。その時、キリコの黒目がギラリと睨んできた。
サミュエルはあの時、ふわっと感じたものを今も感じ、それが何なのか解った。
「憑りこもうとしていたのか? あいつは」
そう、まるでキリコの言い分は、サミュエルをキリコ側の人間だと断言し、それを否定できないように言ってきた。
だが、サミュエルはそれに乗らなかった。だからキリコの目に憎悪の火が揺れた。
と考えて、少し腹が立った。
―あいつは、私が
そう簡単に精神が崩壊などしていないし、する気などない。それほど単純だと思われていることに腹が立つ。
別れ際、キリコは名刺を渡した。教会の住所が書かれていた。その裏に読めない文字が書かれていた。そして、何と言ったか、そう
「タニクラ ナルになら読める」とつぶやいた。
「え? どうした?」
ロバートの言葉にサミュエルは首を振った。
「来ました」とシダークレー子爵が言った。
スタン伯爵は、シダークレー子爵が事前に教えていたよりも細身で、ギャンブラーらしからぬ笑顔を見せた。
「これはこれは、いつぞやの。いやぁ、まいりましたよ。あなたと会った日以来、私はあれに何度も賭けているが、さっぱりでね、どうもあなたがいてこそあの馬は勝つようですよ、」
「やぁ。私を覚えてくださいましたか?」とシダークレー子爵。
「もちろんですとも、あれほど惨敗させられてはね。おや、お連れがいるようですな、それでは、」と立ち去ろうとする。
「いいえ、今日はあなたにお話があって、」シダークレー子爵が呼び止める。
「私にですか?」
スタン伯爵はサミュエルとロバートをいぶかしく見返した。
「私は、ロバート・アームブラスト男爵、彼は友人のサミュエル。
話というのは、とある女性を探していましてね」
ロバートがそういって握手を求め、スタン伯爵はそれを握った。
スタン伯爵は、シダークレー子爵が話していた通り、伯爵という称号に似つかわしくないとてもだらしのない男だった。ロバートは一目でこの男を嫌った。
「女性? いやいや、私はそういうのを斡旋などは、」
「違います。人探しです。名前はエレナ・ルカリー。アリーチョ・サルバトーリの一人娘のソフィア・サルバトーリの侍女をしていた娘さんです」とサミュエルが口を出す。
男爵と話すつもりだったスタン伯爵は眉を顰める。
「……ほぉ。……存じ上げないが、その侍女とあなた方の関係を聞いても?」
「ええ、とある方に依頼され探しているんです」とサミュエル
「とある方?」
「ええ、とても高貴な方で、自らが捜しに出歩くことができないもので、友人である私に探してほしいと」とロバートが小声で大事そうに言う。
「高貴な方が男爵に?」
「一応、私も跡を継いだばかりとはいえ、父の基盤もありますし、卒業した学校では有名侯爵家の子息もざらにいますからね。そういったつながりの方ですよ」
「なるほど。しかし、そういった方が一介の商人の家にいる侍女など、」
「どうもね、サルバトーリが開いた会で見染めたようでしてね、気が利くし、性格は朗らか、ものをよく知っている。ああいう人を側に、解りますよね?」
サミュエルはウィンクをした。スタン伯爵は鼻を鳴らして微笑み、
「なるほどね。だが、残念だが、存じ上げないなぁ」
「そうですかぁ。いやぁ、あなたがソフィア嬢とお付き合いをなさっていて、顔を見たことがあるはずだと思ったのだけど」
「え? ……あぁ、思い出した。なるほど、いや、侍女の名前などは憶えていませんよ。
いやいや、それ以前に、いいですか? 私はソフィア嬢とはお付き合いなどしていませんよ」
「ですが、」
ロバートが口を出すと、スタン伯爵は手を上げて制し、
「確かに、私がソフィア嬢を送り迎えしたけれど、私にだって付き合いがありましてね、その方のためにやったのですよ」
「その方の名前をお聞きしても?」
「……まぁいいでしょう。ソフィア嬢はカスタゴ伯爵と婚約されたようですし、彼も諦めているでしょうしね。
エンリコ・キンケイドと言う内科医ですよ」
「内科医?」
三人が声をそろえた。
「驚くことじゃない。確かに今は、カスタゴ伯爵と婚約して、ずいぶんな身分を勝ち取ったが、所詮は商人の娘ですよ。医者の奥方になることだって十分な出世でしょう?
だが、あれはよくない。
ソフィアはそもそもキンケイド医師と付き合っていたんですよ。それは父親のサルバトーリも公認のね。
キンケイド医師は今は央都で開業医をしているが、地方の領主、つまり貴族が土地を放棄して、そこを治めていた領主一家の末裔で、資産は十分持っている。
容姿だってなかなかの美男子だ。まぁ、難点と言えば、気が弱いところではあるけれど、それだって内科医で成功していることを考えれば大した欠点ではない。
それが、ある夜会で、ソフィアはカスタゴ伯爵と出会い、彼の「伯爵」に魅かれキンケイドを捨てたんですよ。
私はね、さっさとああいう女を忘れるべきだと言ってやってるんですが、まぁ、しばらくは、まだ傷心でいる事でしょうね」
スタン伯爵は首をすくめた。
「キンケイド医師の住所をお教え願っても?」
「いいですよ、」
ロバートが差し出した手帳にスタン伯爵は住所を書いた。
そして満面の笑みで次のレースの馬券を買いにカウンターへと向かった。
三人はその場に残りお茶を口に含む。
「どう思う?」とロバートが聞く。
「嘘は言って無いだろう。キンケイド医師というのは、その
「……僕はね、あの一件以来、この
ロバートが頭を掻く。
「君は本当に優しいねぇ。
だが、人々はあの不幸な事件をとうとう忘れ去り、あの一帯の土地は高騰して、たくさんの家々が建ち並んでいる。その下に広がっていた下町にまでその勢力が広がり、今では丘の向こう側まで開拓しているありさまだ」
「そうだってね。……僕は、やはり央都には住めないね」
ロバートはそういって住所を見た。
「スタン伯爵に、卿だとは、名乗らないでよろしかったので?」
「ああ……。ロビー、君は彼をどう思った?」
「どう思ったって、ギャンブラーだと思ったけど?」
「ほかには?」
ロバートがスタン伯爵のほうを見た。
カウンタ越しに賭け親と話している後ろ姿しか見えない。だが、
「……、サミュエル。……出ないか?」
ロバートは立ち上がるとすぐにそこを出た。
サミュエルはスタン伯爵のほうを見る。
スタン伯爵もこちらを見ている。いや……見ているというのはおかしい。彼は賭け親とまだ話している最中だ。だが、顔はこちらを向いている。顔というか、顔に見える、
「黒い靄が、見えた」
ロバートが吐きそうに言った。
「気分が悪い」
「そうだろうね。……彼は今まさにあの黒い靄の中にいて興奮しているようだ」
サミュエルが出てきてそういった。
「黒い、靄?」
シダークレー子爵にはそれは見えなかったようだ。
ロバートはその後気分を回復させることができずに、ラリッツ・アパートに三人は戻ることになった。
定刻終業後エレノアがラリッツ・アパートに帰宅した。
具合が悪くまだ寝ていると言われロバートの部屋へ行き、ロバートと連れ立って降りてきてのは八時を回っていた。夕飯を一緒に摂る。
「いやぁ、まいったよ」
ロバートは食後、深々と椅子に腰かけて言った。
「黒い靄が居たんですって?」
エレノアの言葉にサミュエルが頷いた。
「一体どういうことなのかしら?」
「エレノアさんもご存じなんですか、黒い靄を」
「えぇ、もともとは私が彼らに引き合わせたと言いますか。きっかけでもあるんですけど」
エレノアは申し訳なさそうに言うので、ロバートが「そんなことはない」とか、「気にしないように」などの言葉を言った。
「今日は、具合が悪くなってしまって中途半端になってしまったが、本当ならあのままキンケイド医師の所へ行くつもりだったんだろう? 明日の朝行くのかい?」
「ああ、そのつもりだ」
「では、僕も行こう」
「大丈夫かい?」
「大丈夫だろう。あの靄を見て驚いただけだからね」
エレノアの厳しい目がサミュエルを見る。サミュエルは首をすくめるだけだった。
「それにしても、ソフィアはスタン伯爵ではなく、キンケイド医師と付き合っていたとは、」
「商人の娘にしては確かに玉の輿だが、伯爵には劣る。あの親子は、そろって、愛情よりも地位や名誉と言ったものに執着しているようだね」
「キンケイド医師は相当堪えているようですからね」とシダークレー子爵。
「彼女の性格を理解しきれていない、盲目的愛情による悲劇だろうね」
サミュエルはそういってコーヒーを飲んだ。
翌朝。
ロバートが起きてくると、仕事場に向かうエレノアと玄関先で会った。
「無理をしないでくださいね?」
「ありがとう。あなたも気をつけて」
ロバートに見送られてエレノアが出ていく。
「エレノアさんは実に魅力ある方ですね? 男爵」
シダークレー子爵に言われロバートは耳まで赤くして食卓に着いた。
サミュエルはすでに起きていて、何かを読んでいた。読み終わるとそれをロバートのほうに投げてよこした。
「エンリコ・キンケイド。内科医として
まじめな性格で、眼鏡をかけ、細身で、背が低い。
……相変わらずこういうデータを収集するのが手早いねぇ」
ロバートの言葉にサミュエルは鼻で笑う。
「これだね、サロン・ド・ボーの常連だから、スタン伯爵に見つかったのだろうね」
「いいや、スタン伯爵の頭は常に馬券だ。
君は競馬をするかい? 付き合い程度で、一、二度かぁ。じゃぁ、詳しくは知らないだろうが、この特待入場券というのは、特別待遇という意味で、よく競馬場の見晴らしのいい場所にボックス席が用意されているだろう? あそこに入れるというものなんだ。しかも、共同馬主であるので、それはそれはいい場所で競馬を楽しめる。そればかりではなく、一般新聞で報じられている以上の情報を得ることだってある。
スタン伯爵が欲しいのはまさにそれだよ。特待入場券をもった共同馬主など、ギャンブラーにとってはこの上ないものだ。そして金だ。
ここで判るのは、キンケイド医師はソフィアが欲しい。スタン伯爵はキンケイド医師の馬主特権と、ソフィアの金が欲しい。何という利害の一致」
「だから、スタン伯爵はソフィアとの懸け橋をかってでたと?」
「ああ、おとなしい医師が彼女を誘えるわけないからね」
「それならば、なおのこと、医師がエレナの居所を知っているとは考えにくくないですか? 善良なる医者ですよ?」
「シダークレー子爵。あなたもロバートに負けず劣らずいい人だ。
医者がすべて善人であると思わないほうがいい。利益に走るものもたくさんいる」
「だけど、キンケイド医師がそうだとは、」
「もちろんです。キンケイド医師はまじめだという評判だから、純粋にソフィアを愛しているのだろう。だが、彼女はその愛を踏みにじった。彼はどうするだろうかね?」
「おとなしく、祝福する。と思いたいね」とロバート。
「まったくだね」とサミュエル。
エンリコ・キンケイド内科医院。に到着したのは昼休みになるだろう頃だった。
「貴重な昼休みに申し訳ありませんね」
サミュエルがそういって自己紹介をした。だが、卿であることは伏せた。
「いえ、いったいなんでしょうか? 急患。だと聞きましたが? 見た限りでは十分元気そうですが?」
「ええ、健康体でしょう」
「では、いったい何の用でしょうか?」
警戒がなかなか解かれない、だが、小心者独特のおどおどした感じが白衣には不釣り合いだった。
「スタン伯爵からお聞きしまして、」
「スタン伯爵? スタン伯爵と言いましたか?」顔色が徐々に青ざめていく。
「ええ、何か?」
「……いえ、あの、それで、何を? 何をお聞きになりたいと?」
キンケイド医師があからさまに動揺し、興奮しているのはすぐに解ったが、サミュエルは、
「エレナ・ルカリー嬢をご存じありませんか?」
と、冷静かつゆっくりと聞いた。
「エレナ、……ルカリー」
キンケイドが口の中でそう言った。
「いや、いや、いや」
キンケイドは頭を振って、立ち上がり、その辺りを二度往復し、そして椅子に座り、
「エレナ・ルカリー」
ともう一度言った。
「わ、わ、わた、私は、嫌だったんだ。……だって、彼女は、ソフィアじゃなかった。ス、ス、スタン伯爵は、ソフィアだと思って連れてきたが、彼女じゃなかったんだ。
彼、彼は、用がないならと―。
それ以来、伯爵とは連絡がつかず、彼も、彼も、そう、私は違うと言ったんだ。だが、彼が、彼が―」
キンケイド医師を落ち着かせるために椅子に座らせ、そこにあったブランデーを飲ませる。
その途端、激しく咽喉を掻き毟るので、慌てて医者を呼ぶ。
―内科医のもとに医者が駆け込むなど、たぶん、もう営業できないような失態だろう―
キンケイドはすぐにほとんどを吐き出したおかげで命に別状はないが、咽喉が焼かれてしまって呼吸がしにくいらしく入院することになった。意識ももうろうとしているので、あれ以上の情報は聞き出せそうもなかった。
サミュエル、ロバート、シダークレー子爵は警察署の応接室にいた。
顔をしかめて、ホッパー警部が入ってきた。
「驚きましたよ。ガルシア卿が殺人容疑で捕まったと聞いてね」
サミュエルが愉快そうに笑う。
「正直、あまり笑えませんけどね。
それで、もう一度最初からいいですか?」
ホッパー警部はまじめに聞き、サミュエルは「もちろん」と答えて始終を話した。
「スタン伯爵……。実は、我々も彼を追っているんですよ。彼は、以前のスタン伯爵と違い、賭け事のために、詐欺を働くやつでね、その詐欺の手口が巧妙すぎて、さぎに引っ掛かったと解るまでに時間がかかり、被害が大きくなった今ごろになってようやく事件扱いですよ。
まさに、半年前、スタン伯爵はどこからともなく央都に現われ、気の弱そうな人を騙して金を巻き上げてます。まぁ、気が弱いから騙されるのでしょうが、それが、貴族の連中にまで手を広げているんですよ。
やつの行きつけのサロン・ド・ボーで下級貴族を捕まえては架空投資話を持ち掛ける。気付いた時にはそんな投資話嘘だということになり、スタン伯爵を探そうにも、そもそもそんな奴いないので、捜査が難航していたんですよ」
「サロン・ド・ボーで、昨日会ったがね」
「ええ、奴はよくあそこに行っているんです。ですから、昨日も、それこそ今日も行き、奴の姿を捉え、では捕まえようとした時には姿を消してしまっているんですよ」
「人、一人が消えるなんてことはないでしょう」とロバート
「ええ、俺だってそういって、昨日、今日の捕り物に同行しましたが、ええ、あなた方が出てきてすぐに入っていきましたよ。―ええ、ロバートが少し回復した後にね―
だけどね、ずっと見ていた巡査が消えた。と言ったとおり、さっきまで話していた掛け頭すら、急に消えたといったとおり、ふっと消えたんですよ」
「警部はその瞬間を観ましたか?」
「いや、残念ながら、……昨日も、今日も、店の前まで行くと、言い得ない気分の悪さを感じ、部下に行くよう指示するだけで精いっぱいでね、」
「ロバートと同じ症状ですな」
「そのようです。何とも言えない気分の悪さを感じたんですよ」
「スタン伯爵の家は突き止めたんですか?」
「いいえ、奴がどこに寝泊まりしているのか不明なんですよ。ホテルやら下宿屋らを当たっているのですがね」
「スタン伯爵が競馬好きだという情報は?」
「知ってますよ。ですが、サマークラシックに一体何人が集まると思っていますか?」
「では、キンケイド医師の知り合いで、彼のコネで、特待席に入れるというのは?」
「……キンケイド医師とつながりがあるですって? いや、それは知らない情報ですな。スタン伯爵の動向を監視している中で医師との接点はなかった」
「尾行、監視をしていたんですか?」
「ええ、一応ね。アジトで詐欺行為の書類などを押収しないと、証拠物件なくして詐欺は捕まえられませんからね」
「なるほど。では、スタン伯爵がソフィア・サルバトーリと会っていたのは?」
「あぁ、何度か馬車で迎えに来てましたな。ですが、先に馬車を降り、馬車を見送り、その後はお決まりで競馬ですよ」
「ソフィアを乗せた馬車を追った?」
「いいえ」
「なぜ?」
「なぜって、」
「ソフィア・サルバトーリを乗せる。どこに住んでいるか不明の男が、わざわざ彼女を迎えに行って、同じ馬車に乗っていたのに、なぜ、その馬車の行く先を追跡しなかった? もしかすれば、その行く先にエレナ嬢がいたかもしれないのに」
サミュエルが眉をしかめ腕を組み、身を背もたれに投げた。
「エレナ嬢とは?」
「ソフィア・サルバトーリの侍女をしている娘さんで、ソフィアの身代わりで誘拐されたのではないかと、我々は考えています」とサミュエルの代わりにロバートが答える。
ホッパー警部は、そんなこととはつゆ知らず、誰も後を付けていなかったことを悔やむ様に呻く。
「スタン伯爵はどこで降りましたか? いつも同じ場所ですか?」
「……巡査を呼びましょう」
しばらくして尾行担当していた巡査が二名きた。
「降りた場所は多少のずれはあっても、ほとんどが、集合墓地の東側です」
と答えた。
「多少のずれというのは?」
「まぁ、ちょうど路肩に止め易ければ少し手前や、先で止めるような感じです。
そこから競馬場まで抜け道のような場所を通れば二分とかからず競馬場裏手に出られるんです。もし、正門から入ろうとすれば、その墓地からぐるっと回り、馬車だとしても十分はかかるでしょう」
「ソフィア嬢を乗せるのはほぼ毎日でしたか?」
「ええ、競馬が開催されている日は……一度、競馬のない日に、ソフィア嬢を乗せ、クルック通り裏のアパートに降ろしてから、馬車を走らせ、駅方面に行ったはよかったんですが、駅近くになって見失ったことがありました」
「クルック通り? それはどこだ?」
サミュエルの大声に巡査は臆し、その後矢継ぎ早に「どこだと言ってる?」とホッパー警部の声に委縮した巡査が、地図を指さす。
「この辺りであります」
通称クルック通り。正式名称は東地区時計通りという。大きな時計のあるアーケード街で、時計屋が軒を並べている商人の商店街だ。鳩時計が鳴るのでクルック通りと呼ばれているといった。
「ソフィア嬢が入っていったのはどのアパートか解るか?」
「いえ、そこまでは見ておりませんでしたが……そう、黄色い庇が入り口にあるところでした」
サミュエルたちは一斉に立ち上がった。
「そこに居ると思うかい?」
馬車に乗り込む。
ロバートが訪ねると、サミュエルは眉間にしわを寄せたまま
「伯爵と逢引きするには安い場所だ。だが、内科医なら別だ。しかも、キンケイド医師の病院とは背中合わせの場所じゃないか。昼休みに病院を抜け出し庭つたいに行ける。
ソフィアと会う理由が無くなれば、人一人隠すには十分な場所と言っていいじゃないか?」
「だが、先ほどのキンケイドの騒動を聞いて、スタン伯爵がエレナを、」
そう言ったロバートに頷き、
「そうならないことを祈るだけだね。
ねぇロビー、銃を持ってきているかい?」
「よく解ったね。昨日のあの靄を見て、どうしても不安で仕方なくてね」
「なるほど。では、銀の弾もあるんだね?」
「ああ」
「……銀の弾とは珍しいですな?」シダークレー子爵が興味深そうにロバートの手を見る。
「よく解らないのだけど、ここぞという不安なときにはいつも持っていないといけない気がしているんだ。何故だか、解らないのだけどね」
ロバートが返事をする。
「僕が撃てと言ったら、容赦なく撃つんだ」
ロバートは一応頷いたが、サミュエルの語意には、ロバートや、他人の「安全確認後」という優しさはないように感じた。
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