第2話 思い出の少女

中学以来数年ぶりに引っ張り出された自転車は、その節々から快いとは言えない音楽を奏でながら、図体だけ大きくなった私を乗せて進んでいる。雲一つ無い晴れ渡った空から降り注ぐつよい日差しは、長い間室内で暮らしてきた青白い肌には痛いけれど、朝はあんなに忌み嫌った太陽も、今は頼もしい存在に思えた。ただがむしゃらにペダルをこいでいると、普段の陰気で閉塞的な思考をする余裕などなかった。耳元で風を切る音が聞こえる。風を感じて進むのは心地よかった。向かい風に乾燥する目も、細かな凹凸の多い道から伝わる不規則な衝撃も、それは不快なものに違いなかったが、懐かしさも感じられた。自転車をこいでいる。それだけなのに、充実感が胸を満たしていた。昨日見た映画なんかを思い出しながら、汗だくで進む。深夜にテレビでやっていた、戦争を取り扱った作品だったように思う。終戦の日も近いので、関連させた選択だろう。リアリティを求めたと語られていたその作品は、戦争の悲惨さがひしひしと伝わる、心痛む内容で、新鮮な驚きをもたらしてくれた。しかし今はどうだっていい。爽快な気分だった。


 山の中腹にはレジャー施設があって、私の目指す景色はそこからさらに登らなければならなかった。ここまでは舗装された道があったが、これより先は自分の足で登らねばならない。と言っても、坂道の途中ですでに自転車は無用の長物となっていた。世間的には平日の昼間なので、駐輪場はガラガラだった。なんだか後ろめたさを感じつつも、自転車に鍵をかけた。


 登山コースには様々な種類があった気がする。子供の頃の記憶を追い求めてここにきたものの、なにせ10年以上前の記憶なので、どこを登ればいいかは分からなかった。けれども、どうせなら最も高い場所からまちを見下ろしてやろうと思っていた。とにかく高いところがよかった。そこまで行けば納得できるだろうという確信があった。何を納得させるのか、自分でも分からない。高いところを求めるのは、男としての本能なのかもしれない。対抗のない対抗心に火だねがついていた。


 まずはどこからどう登ぼるか知る必要があるので、経路の書いてある看板へと向かった。看板には先客がいた。軽装の女性だ。白い手足、そしてうなじに目が行く。きっと若く、自分とさほど年は離れていないように思う。彼女が立ち塞がっているので看板が見えない。しかし、彼女に声をかける度胸を私は持ち合わせていなかった。私は女性が苦手だった。なので傍観することにした。見たところとても集中しているようだ。それに、女性が苦手ではあっても嫌いではないのだ。少しの間待っていると、彼女は後ろに迫った気配に気がついたようでスッと身を引いた。


「すいません。」


 その声は私にとって稲妻だった。全神経が鋭敏にその音信号を捉え、脳細胞を駆け巡った。人の記憶は音や匂いに結びついていると聞くが、彼女の声は私の中の多くのことを呼び覚ました。木造教室の落ち着く独特の匂いや、休み時間になると校庭で遊んだこと、そしていつも教科書越しに見ていた彼女の横顔。中学校は違うところに通うことになったけれど、あの時代の私を煩わせたのは彼女の輝く笑顔だった。会うことさえ困難、というよりはもともと会うことなど求めてはおらず、美しい想像と汚れることのない記憶の中でだけ彼女は存在していた。そう、彼女は小学校時代の同級生であり、私の初恋の人だった。雷に打たれたようにその場で動けずにいた。私が山を求めたのは、つらいことなどなかった過去への憧れの気持ちがあったのかもしれない。彼女はその最たるもので、私の思春期の象徴とも言える人物だった。


 あまりの衝撃から動けないままでいた。不審に思った彼女は私のほうへ顔を向ける。身長は大きくなったが、小さな顔は当時感じた儚さを依然残している。病的なほど白い肌は自前のものだろう。変わらずの透明感を保っていた。少年のように笑っていた口元も、その面影がある。全体的に大人になったと思った。けれども、私が求めた彼女からはかけ離れてはいなかった。それになぜかほっとしていた。控えめに会釈をすると、うれしさや緊張や懐かしさから、不思議と上がる口角を隠すようにそそくさと彼女の視界から外れる。こみ上げる感情の高ぶりを彼女に知られまいと思った。きっと見られれば、私のことに気づいてしまうだろう。それが嫌だった。彼女の中では、こんな堕落した人間ではなく、快活な少年時代のまま生きていて欲しかった。それが彼女にとっても私にとっても幸せなことだと思われた。そう求めているはずなのに、今は自分の身だしなみを気にしていた。表面上は関わりたくないと思っているのに、関係を期待している自分を隠しきれない。そういう自分が気持ち悪い。そんな自分に嫌気がさす。だからこそ彼女には私のテリトリーの中に踏み込んできて欲しくなかった。

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