海、悲しみ

 彼女から大切なものを奪ってしまったのは他でもない僕と僕の仲間たちだった。

 だが僕らは悪意を持っていたわけではない。この世界に決められた規則に従って動いていただけだった。それでもこの世界に存在する限り、全てのものは何かを壊しながらあり続ける。



 *****



 船にぶつかった波が水しぶきをあげた。

 一隻の小型船が浮いているのはどこを向いても陸の見えない大洋のど真ん中だ。

 一面に広がるのは青のみ。

 船の船体には大きく浩二こうじ丸と書かれている。


「いやあ、参ったな。ちょっと冒険してみようと遠くまで来たら、船のエンジンが壊れるとは……」


 体格が良く、立派なあごひげを生やした、いかにも船乗りであろう雰囲気の男が頭を掻きながら大海原を見渡した。

 この船の持ち主、北島浩二だ。

 浩二が困っている横で、小さな女の子がつぶやく。

 

「お父さん、お家に帰れる?」


 黒いサラサラの髪の毛、大きな瞳、キュートな唇をもつ少女だ。小学生低学年ぐらいだろうか。


あい、心配するなって。大丈夫、助けは呼んだからいずれ家に帰れるよ」


 藍と呼ばれたその少女は父の言葉に不安げだった表情を少し和らげた。

 遠くの空に黒い雲が渦を巻いている。


「そうだ」浩二は自分の首から、緑色の石で作られた飾りを外した。

「藍にこれをあげよう」


 彼はしゃがみ込んで目の高さを合わせると、彼女の首に飾りをかけた。


「これはお父さんが作ったお守りだ。藍のことを守ってくれる」


 藍は自分の首にかけられた、宝石のような首飾りに目の奥を輝かせた。

 彼女の心はすっかりそれに魅了された。


「お父さん、ありがとう! 大切にするね」


 藍は綺麗なお守りを大切に手で包み、目を閉じた。


「でも……」藍は困った顔で父を見上げた。

「お父さんのお守りは無くなっちゃうけどいいの?」


 浩二は顔の前で軽く手を振った。


「また作るからいいよ。石を削るのは得意なんだ」


 彼はにこっと笑顔を浮かべ、立ち上がった。


「藍は本当に良い子だな。しばらく時間があるから、少し昼寝をしていなさい」


 藍は頷くと船室に戻り、横になった。



*****

 


 大きな揺れで藍は目を覚ました。


「うーん……お父さん?」


 船は上下に大きく動いていた。

 船室に白い光が飛び込み、続いて大きな雷鳴が轟いた。

 藍は不安を抑えられなくなって船室を出た。

 浩二は甲板で空の様子を見ていた。


「お父さん?」


 藍の声に彼は振り向いた。

 その背後に広がった空には、黒い渦が巻かれている。


「藍、起きたのか。どうも嵐が来そうだ」


 父がそう言うのと同時に激しい雨が降り出した。

 波で船体が大きく揺られ、バランスを崩しかけた藍を浩二が支えた。


「外にいると危ない――」


 浩二の声に被せて稲妻が走る。大きい波が船に打ち付け、水しぶきが藍の顔にかかった。

 まるで海の怪物が藍を海へ引きずり込もうと手を伸ばしているかのようだった。

 父は藍の小さな手を握った。


「船室に行こう。あっちの方が安全だ」


 これまでで一番眩しい光が二人を覆い、藍は目を覆った。腹に伝わってくる轟音。ビリビリと震える空気。

 突然、海の中から大波が姿を現した。

 船をあっさりと包み込んでしまいそうな大きさだった。


「藍、急ぐぞ!」


 藍は浩二に抱き上げられた。大波が船に向かって来る。


 次の瞬間、藍の体が宙に浮いた。

 波が船に食らいついた。

 藍は船室の床に体を叩きつけられて呻く。

 船室にも大量の海水が流れ込んできた。彼女は近くにあった手すりに捕まり、体を流されないように張り付いた。

 落ち着いてきたところで彼女は船室の中を見回したが、浩二の姿が見当たらない。


「お父さん……?」


 藍は開け放たれたドアから甲板を覗いたが、やはり父の姿はどこにもない。

 藍の脳内に今の状況が雪崩れ込んできた。


 父は彼女を船室に投げ込み、そのまま波にさらわれてしまったのだ。

 藍はその場に呆然と立ち尽くした。

 ひとりぼっちになってしまったのだ。

 急に恐怖が彼女の心を覆い始める。


 荒れ狂う海のど真ん中。ひとりぼっち。

 藍は静かに船室の扉を閉めた。



 *****



 翌日、藍を乗せた船は知らない国の海岸に流れ着いた。

 地元の人間がそれを見つけ、藍は救助された。


 自国に帰り、藍は父の葬式を挙げた。

 目の前に父の写真があった。

 だが父の体はもうここにはない。彼は大きな海のどこかに眠っているのだろう。


 藍の目から静かに涙が流れ落ちた。

 涙は彼女のお守りの上に落ちた。

 


 これが僕と彼女の出会いだった。僕は彼女の悲しみとして彼女を初めて目にしたのだった。

 僕は彼女のことを一人の不運な少女としてみていた。彼女がこれからどんな人生を歩んでいくのか、少し気になりもしたが僕はその場から流れていき、彼女の元を去ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る