第395話 間章・とある王国の片隅で(序)
作業をする物音が聞こえるから、小屋の主は中にいるのだろう。久し振りなため少しの緊張を含めたノックの後、「どうぞー」という声に招かれ、少年は引き戸を開けた。
木槌を叩いている大きな背中は三年前と変わりはなく、何となくほっとする。立ったまま挨拶の言葉を探しているうちに、黒い鼻先がこちらを向いた。
「よお、よく来たな、久し振りじゃあないか。トトイから、金持ちの家に引き取られたって聞いたぞ? 元気にしてたか?」
「うん、おっちゃんも元気そうで良かった。十歳記で王都に行ってそのままだから、挨拶もできなかった。……けど、返品されちゃったから里帰りにきたよー」
「何言ってんだ、物じゃあないんだから」
快活に笑うその声には応えず、曖昧な笑顔で返して小屋の中へと入る。
「三年いない間にチビたちが増えてるし、急だったから寝床もないんだ。今晩はここに泊まらせてくれない?」
「ちゃんと院長センセーの許可があるなら構わないぞ?」
話しながらも持ち込まれた修理品のひとつが仕上がったらしく、それを脇に置いて次を手に取る。
四本のずんぐりとした指は道具を扱うには不便そうなのに、意外なほど器用なため村に居ついてからは金物修理や道具の手入れなどを小銭で請け負っていた。特に建築が得意らしく、この辺にある新しい家のほとんどはこの男が手を貸して建てられたものだ。
深く被ったフードを押し上げる頭上の耳、巻いた布では隠し切れていない鼻と口。おまけに手袋と袖の間からは真っ黒い体毛がのぞき放題、上着の裾からはふさふさしたしっぽの先が揺れている。
本人に隠す気があるのかないのか、暗黙の了解として村人たちは見て見ぬふりを通しているが、その内心を占めるのはきっと優しさなんかじゃない。万が一、何かあった時に「自分たちは知らなかった」と言い逃れをするためだろう。
少年は壊れたトンカチを修繕する器用な手先から視線を外し、定位置となっている椅子代わりの木箱へ腰を下ろす。
小屋を訪れた時はいつもここに座って話し相手になってもらい、男が作業をしている間はひとりで魔法の練習をするのが常だった。
懐かしい木工の匂いを胸いっぱいに嗅ぎながら、雑然とした室内を見回す。
生活に困らない程度に整頓はされているが、不用品から修理品まで次々に持ち込まれるのと、家具作りという趣味のせいで、とにかく物が多い。最後に訪れた時よりも増えているから、このままいけばそのうち寝るスペースまで埋まりそうだ。
隣接する倉庫へ移してはどうかと提案をしたこともあるけれど、そちらも一杯らしい。中には大事な預かりものが収められているとのことで、大きな錠前のついた扉が開いたところは見たことがない。
「なんだ、暇そうだな? ならこんな所にいないでトトイと遊んできたらどうだ、久しぶりなんだろう?」
「んー、挨拶はさっきしたから、いいよ」
「どうした、前はいつも一緒にいたのに。ケンカでもしたか?」
「そんなんじゃないけど」
もとより、トトイとつるんで遊んでいたのは幼い時まで。八つを過ぎて物の分別がつくころになると、子どもらしい遊びよりもこっそり魔法の練習をしたり、ここで道具や調理について習うほうが面白くて、いつも小屋に入り浸っていた。
物知りで優しくて、たまに愉快で、うるさい説教もしない、理想の大人だ。
抱えていた膝にあごをのせてフードの横顔を見上げると、黒い鼻先がひくひく動いていた。
……小さい頃からずっとあの鼻にさわってみたかったし、垂れた耳をいじりたかったし、長毛のしっぽを撫で回したいと思っていた。そう思うだけで一度も実行できていないけれど、こんな子どもじみた願望を伝えて許されるのは今が限度だろう、いっそダメ元でお願いしてみようか?
人前でフードを取るのは嫌みたいだから、ならせめて鼻だけでも……。そんなことを考えていると、不意につやつや光る黒い目がこちらを向いてどきりとする。
よこしまな考えを見抜かれたのかと思い身を竦ませると、深く切れ込んだ口が開いて、鋭い牙がのぞく。
「くっふ、ケンカじゃないなら何があったんだ? 誰にも言わないから話してみろ」
「……」
見慣れれば愛嬌があってかわいい笑顔だけど、知らない人間が見たら悲鳴を上げて泣くか逃げ出すかするだろう。
フードの下で急かすように動いている耳を見上げながら、少年は小さく嘆息を落とした。
「オレだって久しぶりに会えて嬉しかったし、帰ってきたのを喜んでくれると思ってたのに。アイツ、「次はいつ行くんだ?」ってさ。オレの引き取り先が決まった時のご馳走がうまかったから、また食べたいんだって」
「そいつぁ、まあ、食い意地の張ったトトイらしいと言えばそうなんだが。あいつも悪気はないだろ?」
「わかってるよ。なにも考えてないだけで、本心から、ただご馳走にありつきたいだけなんだ。わかってる。オレだって昔は同じようなこと思ってた……」
養子として引き取られる子どもが決まると、『家』ではいつもささやかなお祝いが開かれる。
特に良家との話が決まった時には支度金をたくさん貰えるらしく、普段は食卓に上ることのないような柔らかい肉や甘い菓子にありつくことができた。
青い髪のべリーチェ、きれいな紫の目をしたアレサンド、オーゲンがずっと憧れていたアネット。
見目の良い子どもほど金持ちに引き取られることが多かったから、養子は顔で選んでいるんだと皆が口を揃えて言っていたし、自分もそう思っていた。
派手な赤毛がよく目立ち、村の少女たちからも好意を寄せられることの多い自分なら、きっと同じように金持ちの家の子として選ばれるだろう、なんて自惚れるくらいには。
「どうしても居辛いなら、連れて出てやろうか?」
「え?」
言われた意味がわからなくて、ぱちぱちと瞬きをする。すると、手にしていた道具を置いて手袋を外した男は、背を丸めたまま体ごとこちらへ向き直った。
「引き取られた家が合わなくて、この村にも居辛いなら、よその領に連れてってやろうかって訊いてんだ。こう見えて元商人の端くれだ、信用できる伝手くらいあるんだぞ?」
「だって、おっちゃんは村の外に出らんないだろ。それに、ここでお
「まぁ、うん。そうなんだがな……」
気まずそうに鼻の頭をかく爪は、短く切り揃えられている。そんなに深爪をして大丈夫なのかと心配になるくらいの短さだけど、人間用につくられた道具はどれも爪があると扱いにくいらしい。
黒い手は傍らの盆から小さな籠を持ち上げ、それを互いの間に置く。中には赤紫色の木の実が入っており、遠慮なく二粒もらって口へ放り込む。
王都のお屋敷では久しく味わうことのなかった野趣あふれる甘酸っぱさに、目の奥がつんと沁みた。
「大丈夫だよ、次の引き取り先はもう決まってるらしいし。働きに出て仕送りしてくれてる兄ちゃんたちよりもずっと楽なんだから、居辛いってだけで逃げたりしない」
「そうは言ってもなぁ……なんかあったんだろ、向こうでいじめられたのか?」
「こんなにお肌スベスベ髪はサラサラで、うんと背も伸びたのに、ギャクタイされてるよーに見える?」
「いや、元気そうなのは良かったけど、じゃあ何で急に帰ってきた? せっかく養子にもらったのに、返すなんてあるのか?」
そもそも養子として迎えられたわけじゃないけれど、それをこの男に言ったところで変に心配させるだけなのは分かり切っている。
自分が知る中で唯一の信頼できる大人。『家』で育ててくれた先生たちよりもずっと大切だから、面倒事には巻き込みたくなかった。
あとほんの数年、十五歳を過ぎてひとり立ちできるようになるまでの辛抱だ。
こんな髪色だけでなく、自分には特別な才能があるから成人すればちゃんとした仕事をもらえると、聖堂の偉そうな官吏が言っていた。「人前では決して魔法を使わずに」という決まりだって守っている。
「ちょっと反りが合わなくて返されたけど、次の家では上手くやるから。そんで成人してひとり立ちしたらさ、おっちゃんの
「ああ、そうなんだが……。もしかしたら、ひょっこり明日にでも戻ってくるかもしれんし、おれのことは気にせんでくれ。この暮らしも案外気に入ってるんだ、このままのんびり待つさ」
たぶん笑顔を浮かべているのだろう、口の端をにいっと持ち上げて見せる。
その言葉通り、ここでの暮らしが気に入っているというのは嘘ではないと思う。でも、遠く離れた故郷には帰りを待つ相手がいることを知っている。
この村に来るまでは行商人として聖王国中を旅して周り、見たこと聞いたこと、面白かったもの珍しかったもの、何でも手紙に書いてその人に送っていたのだと、照れくさそうに話してくれたことがある。
何年も戻らない雇い主を待つためここに縛られて、大事なひとの所へ帰ることもできないなんて。そんなのはあんまりだ。
自分と違って本当の家族がいるなら、どうにか帰してあげたいと思う。
あれこれと話し込み、おやつに出された木の実を半分ほど平らげる頃には日が傾きだしていた。
寝床がないなんて嘘は、とっくにお見通しだろう。
それでも、今晩だけはここで一緒に過ごしたかった。明日、『家』へ戻る頃には王都から迎えの馬車が来ているはず。
一日だけでもと何度も願って、引き渡しの合間に帰ることを許された。
何も知らない男は「物じゃあないんだから」なんて笑ってくれたけど、自分は物だ。道具だ。
成人するまでは人間ですらない。
あと数年の我慢。十五歳になれば役割は終わって、自由になれる――
そんな切実な思いを胸に抱きながら、共に過ごしたのが最後。
【『勇者』の故郷を襲った悲劇、凶悪な魔物による大量惨殺事件】
大きな題字を掲げた新聞が舞い踊る。片田舎にある村が一夜にして血の海に沈んだ悪夢。大人も子どもも誰ひとり残さず、罪なき住民たちをその鋭い爪の餌食とした、はぐれ
王都を騒然とさせ、あらましの綴られた伝記を回収してもなお長く語り継がれることになる凄惨な事件。
その元凶と言われる獣と過ごした、最後の日だった。
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