第369話 間章・とある深い森の片隅で④


「……あ、そうだ、水を替えてあげるの忘れていたな」


 トレイの上が包帯で一杯になってしまい、それを片付けたらもう一度戻るつもりだった。エルネストは卓上の水差しを見て思い出し、新しいものを用意させるのも面倒だからとそれを手に再び隣室へ向かう。


 そっと扉を開くと、少年は先ほどと同じ姿勢のまま静かに眠っていた。

 薬を飲ませてもあまり深くは眠れないようで、すぐに目を覚ましてしまう。熱と痛みのせいか、それとも元々睡眠が浅い体質なのか。自分にも執務があり、頻繁に様子を見に来られるわけではないから、枕元の飲み水くらいは多めに用意してやりたかった。

 ソファのそばのローテーブルに持ってきた水差しを置いたエルネストは、そのまま閉めきられているカーテンへ近づく。外の明りが逆光になって不審なシルエットは丸見えなのだが、向こうはこちらの接近など気づいてもいないだろう。

 派手に驚かせる方法をいくつか思い浮かべてから、ひとまず少年の安眠を守るのが最優先と考えて、シンプルにカーテンを引いた。


「っ!」


 明るい窓の外、裏庭へ面するバルコニーには室内を伺おうとしているのか、それとも窓を開けるつもりだったのか、妙なポーズで固まるファラムンドがいた。

 バルコニーは下から登れないように返しが設けてあるため、上階の窓から柱伝いに降りてきたのだろう。逃げ出してしまう前に、さっさと窓を開けてエルネストの方から外へ出る。


「様子を見たいならちゃんと扉から入ればいいだろうに、恥ずかしがり屋さんめ」


「そんなんじゃねーよ」


「なら、こっそり寝首を掻こうと? 熱を出している子どもの寝込みを襲って一息にとどめをだなんて、僕の孫は酷いことを考える。……と、まぁ冗談はこのくらいにして、左目の怪我は少し眼球にも届いていたらしくてね、幸い失明は免れたけれど、傷が癒えても視力は完全には戻らないかもしれないって」


 文句と反論を言いかけた口は、何の言葉も発さないまま閉じられる。

 顔も体も包帯だらけで満身創痍な少年を見せてやれば、少しはファラムンドにも効くかもしれないと考えたが、気配に聡いあの子が目を覚ますといけない。下手に興奮したらせっかく塞がりかけている傷がまた開いてしまう。

 それに、意図せず深い傷を負わせてしまったことは、それなりに堪えているようだ。あまりその件でいじめるのも可哀想だと思い、状態を知らせるに留めた。


「……なんでわざわざ、うちに連れてきたんだよ。治療院に任せておけばいいだろ」


「街に置いておくと逃げ出しそうだからね。とはいえ、ここでも裏庭の森に逃げ込まれたら捕獲は難しいかもしれないな、ちゃんと居つくまで見ていないと」


「居つくって、まさか屋敷に置くつもりなのか、あの人殺し野郎を?」


 信じられないという顔で声を荒げるファラムンドの肩を軽く叩き、窓から離れさせる。山育ちなら五感が鋭いだろう、ガラス越し程度では耳に入ってしまうかもしない。

 まだ何か言いたげな孫をそのままバルコニーの端まで連れて行き、エルネストは白い手すりに肘を置いた。


「うん、お前は死んだ山賊のほうの肩を持つのかな? 奴らはその十倍以上もの人を殺してきているだろうに」


「あんな下衆ゲスどもは死んで当然だ、生きてる価値もねぇ。それでもあのガキが十一人も殺ったのは事実だろ、人を殺しておいて何の罪にもならないのか? 相手が山賊だから?」


「お、いい質問だねぇ」


 ご機嫌なエルネストが黒髪を撫でると、嫌がるように頭を振って距離を取られた。幼い頃はもう少し素直で愛らしかったのに、最近はどうも反抗期らしくつれない態度が目立つ。

 孫とのふれあいを諦めたエルネストは、教師の真似をして指を一本立てて見せる。


「では問題です。あそこで死んでいた山賊どもは、もし生きていたらどんな罪に問えるでしょう?」


「は? そんなの、近くの村を襲っては住民を殺して略奪してたんだから、死罪になるのが当然だろ」


「ハズレ~」


 そう言って反対の人差し指を重ねてばってんを作ると、納得がいかないとばかりにファラムンドの眉が吊り上がる。


「なんでだよ! 殺人罪に強盗に強姦に器物破損とか家屋損壊とかなんか、いくらでも該当すんだろ!」


「領内での事件ならね」


 その一言だけで正解には辿り着かないまでも、単純な罪科に問えないと気づくものはあったのだろう。口を線のように結び、爛々とした目だけがこちらを見返している。


「あの森が領境に近いのは知ってるよね。明確に、ココからコッチはイバニェス領ですよーって、誰の目にも見える線でも引かれていれば分かりやすいんだけど、実際はそうもいかない。だから領境一帯は『どちらの領でもない』という暗黙の了解がまかり通っている」


 全滅した山賊の調査や、小さな集落での埋葬にこんなに時間がかかっているのも、正にそのためだ。

 下手に大勢で行動すれば隣接するクレーモラ領を刺激しかねないし、そばにある村から変な噂が広がっても困る。だから少人数で、あるいは商人の馬車に偽装して向かわせ、少しずつ作業を進めるしかなかった。


「特にクレーモラ側は侵入者への警戒を厳しくしている代わりに、ならず者の対策までは手が回っていないそうだから。あの山賊たちもそれをわかって、利用してたんだよね。領境の集落なら何人殺しても、どんな凄惨な略奪をしても、誰にも咎められることがないと」


「そんなの……今まで、じゃあ、知ってて見過ごしてたってのか!」


「いや、僕は良い領主様だから、知ってたらちゃんと討伐に自警団を向かわせているさ。でもあんな深い森の中であてもなく捜索したって徒労だし、実際の被害報告がなければ動きようもなかった」


 視察の途中で噂を小耳に挟んでいたから、もし何事もなく帰路についても調査は命じるつもりでいた。森の中での被害は知れずとも、もし山賊どもが味を占めればこちら側の村々にまで害が及ぶ可能性もある。

 傍若無人な中にも真っ当な正義感は育っていたのか、ファラムンドは怒りの滲む目でこちらをじっと見ている。具体的な対策を取らなかったのは確かだから、その非難はあまんじて受けよう。


「何より、あの辺りに住み着いてる人々は租税の徴収を逃れるために領民登録をしていない。『イバニェス領民』ではないからね、どこに集落があるのか、いつから何人が住んでいるのか、こちらは全く把握してなくて。……言葉は乱暴だけど、いない・・・も同然の人たちなんだよ」


 だから死んでも良いとは口が裂けても言いはしない。統治下の領民であるかどうか関係なしに、人間の命は等しく尊い。

 だが、それを領法の天秤に載せるとなると話は別だ。


「で、さっきの問題に戻るけどね。実在の証明ができない人間を殺し、そこにあったかもわからない財を奪ったなんて罪は、イバニェス領の法では裁けない」


「そんなの、おかしいだろ……」


「まぁ理屈の上はってだけで。実際のとこは放置できない危険因子だからね、要駆除対象の『害獣』としてササッと領主権限で片付けて終わりって感じになるかな。人間じゃないから事録にも判例にも記録はされない」


 これまでもそういう例は度々あったようだが、全て秘密裏に処理されてきた。

 だから余計に、領境で起きる問題にはどの領も踏み込んでこないという認識が広まってしまうのかもしれない。税を納めていないから誰も助けには来ない、それなら略奪を繰り返しても捕まることはない……と、無辜の民は声を上げぬまま、悪党だけがのさばる結果になる。


「クレーモラ側がもうちょっと話のわかる相手なら、協力して警備を敷くとか何かできることはあるんだろうけどね。実際、サーレンバーとの領境は互いに巡回しているし、隠れ住んでる集落もそれなりに把握できてるんだから」


「……」


「そんな訳で、あの子が手にかけた命についても、僕の一存で『害獣駆除への協力』ということにできてしまうんだなぁこれが。決死の覚悟で親の敵討ちまでして、感心した領主が褒賞として身寄りのなくなった少年を引き取る。美談じゃないか?」


 茶目っ気を混ぜながらそう言えば、ファラムンドは妙な顔をして目を瞬かせていた。

 はて何だろうと考えて、そういえば集落が襲われてから少年が事を起こすまでの経緯など、自分が報告を聞くばかりでこの子には何も知らせていなかったと思い至る。育ての親の敵討ちについても初耳か。

 知っているのは、あの少年が突然襲い掛かってきたことと、護衛について向かった山賊のねぐらで十一人分の凄惨な死体を目の当たりにしたこと。そして、その殺戮を為した謎の少年を、自分の祖父が屋敷へ連れ帰ったことだけ。

 ……それは確かに、ちょっと不審に思われても仕方なかったかもしれない。


「あ、報告書、燃やしちゃったな……まぁ過ぎたことはいいか」


「良くねぇだろ! 俺に下らない書類ばっか読ませてないで、そっちを見せろよ!」


「まぁまぁ、そんな訳だから、これから仲良くしてあげてね」


「お断りだ!」


 予想通りの反応を見せるファラムンドだが、べつに無理に慣れ合う必要もない。あの少年が期待通りの才覚を見せてくれれば、この判断もきっと悪い方向には転がらないという予感がある。

 自分の勘は信じるたちだ。


「ま、どんなに嫌がろうと、もう手続きは済ませちゃったし」


「手続きって、あのガキが元々イバニェスの住民だったことにしたのか?」


「いや、僕の隠し子ってことにした」


「はぁァ?」


 ここ最近はあまり見なかったファラムンドの変顔に満足気なうなずきを返し、エルネストは「冗談だよ」と言って、もう一度立てた人差し指を口元に当てながら微笑む。

 閉めきられた窓の向こうでは、風もないのにカーテンの裾がほんの僅かに揺れていた。


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