第60話 そして、おやすみの晩


 ゆるく揺れながら天井を映している様は、透ける鏡面のようだった。

 用意されたのは白い陶器だが、次は色の濃いものや銀の皿などを用いても面白いかもしれない。窓を閉めているため室内に風は吹いていないはず。ならば時折水面が揺れるのは、自分の吐息のせいだろうか。

 張力によってぴんと平らかになった水は、身じろぎすると振動が伝わるらしく、外周から細かな波紋が立って年輪のような模様を描く。何か紙片や花弁でも浮かべてみたくなるが、手近に浮きそうなものはなかった。


 おやつのミルクプディングを食べた後からずっと、トマサがサイドテーブルへ用意してくれた器の水をぼんやりと眺めていた。

 ベッドヘッドに上体を預けたままの体勢でどれくらい経っただろう。何の代わり映えもない水面を無心で見つめているが、たしかに頭の働きを緩慢にするという効果はあるようだ。

 器のふちを爪先で軽く突くと、カツンと硬質な音がする。外側から立った波紋が中心でぶつかって、水面に不規則な揺れをもたらした。


 ファラムンドと交わした会話、彼の願い、自分の望み。それらを並べてゆっくりと心の内へ整頓をする。

 誰にも言うまいとしてここまで来た秘密をうっかり明かしてしまいそうになったのは、自分の弱さだ。黙しているのはフェアではないなんて言い訳に過ぎない。打ち明けたところで良いことなど何もないのに、ただ楽になりたかったのかもしれない。隠し事を打ち明ける気楽さを得て、代わりに何を失うつもりだったのか。

 もう『リリアーナ』を分離できない以上、このまま生きていくしかないのだから。自分は自分のまま、『デスタリオラ』の精神を持ったまま、彼の娘として生きていく。


『自信を持ちなさい、お前はお前らしく在っていい』


 父の言葉が、緩みそうになった箍を強くする。

 このままのリリアーナで良いのだと言ってくれたファラムンドへ報いるためにも、領主の娘として相応しい振る舞いを覚え、生まれた役割を全うし、そしてリリアーナらしく生きていく。

 どれかを捨てる必要なんてない、総取りして全てを平行しながらでもやっていけるはず。己の人生まで見つめ直す羽目になってしまった礼儀作法の授業についても、カミロのアドバイスを活用すれば何とかなるだろう。

 貴公位の娘としての作法を身につけるのは、イバニェス家の令嬢として生きるためでもあるし、きっと与えられた役目にも必要なことだ。

 いずれにしても逃れることはできない。


「立場に縛られ、生が短く、周囲のためには行動も限られる。ヒトの身はもっと自由だと思ったのに、何だか『魔王』と大差ないな……」


<周りの全部を背負い込むのは、デスタリオラ様であった頃からお変わりありませんね。おそらく、そういう生き方を自らお選びになられているだけですよ。私などが断じるのもおこがましいのですが>


「背負いすぎか。前にも似たようなことを言われたな……きっと欲張りなのだろう、わたしは」


 家族を捨てられるなら、家を飛び出して自由気ままに生きる道もあったかもしれない。幼子ひとりとはいえ、アルトとこの眼があれば大抵のことは何とでもなるだろう。

 与えられた役目だけに重きを置くなら、上の兄たちを害し、イバニェス家の嫡子として己の権力を強めるなんて手段も取れただろう。……想像するだけで胸が悪くなるが。


 だから結局、何も捨てきれず全部を取ろうとする自分が相応に苦労するのは、当然のことなのだ。多少の不自由などさっさと飲み込んで、楽しいことに重きを置いて生きなければもったいない。


「……うん。ファラムンドには要らぬ心配をかけてしまったが、もう大丈夫だ。やることはたくさんあったほうが張り合いも出るし、背負えるだけ背負ってやるとも」


<それでこそリリアーナ様、私も微力ながらお支えいたしますー!>


 ヘッドボードの上で威勢良く角を振りながら、アルトは不安定に揺れていた。クッションと本に圧されて少し不格好になってしまったから、あとでフェリバに直してもらおう。おそらく宝玉の位置がずれたのだろう、揺れる動作の重心が怪しい。


『魔王と大差ないと言っても、体の方は大違いなんだからね。その辺のコト、忘れちゃダメよ?』


「……その点は、こうして体調不良になって実感しているとも」


 ベッドの天蓋から、パストディーアーが逆さになって降りてきた。重力なんて関係ないはずなのに、髪や衣服の裾を床へ向けて垂れている芸の細かさ。

 無駄とはすなわち余裕だ。形を持たないはずの精霊でありながら、実体を映した上でそんな遊びまでする力の無駄使い。面倒なので一々指摘はしないが。


『自覚薄いみたいだから何度でも言っちゃうけど、病気とか毒とかケガとか精神干渉とか、ホント気をつけてよね~。直接攻撃以外の耐性が紙以下よ、ペラッペラよ?』


 逆さに生えたまま腕を組んでいる美丈夫を見上げる。彫像のような顔が頬を膨らませ口を尖らせている様は、何とも形容しがたい。


「かつては病気にかかったこともなかったからな。まさか微熱程度でここまで思考や行動に支障が出るとは」


<体調を悪くすると、考えも悪い方向にばかり行くと聞きますから。早く快復されると良いのですが……>


 しばらく水を張った器を手に取り、手のひらを冷やしてから額と首元へ触れてみる。どちらもまだ熱いし、朝より体温が上がっているような気もする。


 直接受ける攻撃や、物理面での被害であればいくらでも防ぎようはある。だが以前パストディーアーが危惧した通り、病気や精神干渉については未だこれといった対策が取れていない。

 バランスの良い食事と温かな部屋、季節に即した衣服などを手配してもらえる分だけ、リリアーナとしての暮らしは市井の子どもよりはよほど病気にかかりにくいはずだ。

 だがそれに甘んじていては何が起きるかわからない。現に今こうして、風邪だか疲労だかが由来という体調不良に悩まされているのだから。


<目録の引き出しが済みましたら、やはり身を守る護符の類から先に見繕ってみましょう>


「ああ、あの箱の中はどうなっている? まだかかりそうか?」


<……むー。もうだいぶ出てきてますね、この分なら明後日の朝には完了するかと>


 アルトバンデゥスの宝玉部分だけを引き出すのに二年かかったことを思えば、格段に早くなったと言える。一本の巻紙を引き出すのにわずか数日。それだけ今はインベントリへ繋ぐ穴を大きく開けられるようになった、ということだろう。

 引き出しの指定をした目録には、出所の知れない置物や装飾品、護符の類が雑多にまとめられている。いわゆる小物類の中で『その他』の分類にあたるものだ。

 個別に名のつけられているような、骨董ネームド品は強力すぎて引き出しても使いこなせない。そこで、ややグレードは劣るが種類に富んだ一覧を選んでみた。

 劣るとは言っても『魔王』の収蔵品、そこいらのガラクタとは比べるべくもない。ただ飛び抜けた性能を持つ品以外はいかんせん数が多く、適当な箱の中へじゃらじゃらと詰めたような物もあるため、さすがに目録なしでは細部まで思い出せなかった。


「精神干渉を防ぐような物や、病魔の進行を遅らせる物など色々あったはずだ。まぁ、どれかは役に立つだろう」


 直接装備するのはためらわれるようなデザインばかりでも、そばに置くだけで効果を発揮するという品も存在する。そういった物なら家族や侍女に渡して使ってもらうこともできるはず。

 当時は自身を護るなんて発想がなかったため、その辺はあまり細かくチェックせず黙々とリスト化していた。それでも、こうして時を経てそのリストが役に立つのだ。気まぐれに手をつけたあの作業は無駄ではなかった。


 備えあればいつかは花咲く。やはり耕す手間が大事なのだなとしみじみしていると、パストディーアーが半眼でじっとりした視線を向けているのに気づいた。こちらを見ているようで透過している目線。振り返ってみると、ヘッドボードの上にはふたりの兄から渡された本と、替えのタオルが乗せられている。


「何だ? まだ備えや自覚が足りないと?」


『うーん……まぁ、いいわ……。自分に対する危害に鈍いあたり、リオラちゃんの頃から全然変わらないわねぇ?』


「お前までそれを言うのか」


 アルトの方を見れば、両の角を使って目を覆い隠した。

 別に、変化したと言われたいわけではないが、まるで成長していないという口振りなのが気にかかる。もうヒトに生まれて八年も経つのだから、それなりに危機意識も身についてきたと思うのだが。

 何となくその反論は悪手のような気がして口を噤んだ。


『昔のアレだって、危害とは思ってなかったんでしょうけど。ほんっとその辺ねぇ、一度ちゃんと習ったほうがいいわよぉ……おぼこいのも可愛いけど、度が過ぎれば心配すぎて胃捻転起こすわー?』


「大精霊が何を言うか」


 そこまで心配をされずとも実際、物理的な危害であればどうとでもなる。

 三年前の領道の一件で、ヒトの体でどこまで精霊眼と構成を扱えるのかは大体把握した。この大陸にあまねく存在する精霊ある限り、直接的な被害から自分の身を守ることは容易いだろう。――逆もまた然り。柔い人体くらいならいくらでも切り刻める。


 それに、害意を持って触れようとする異性に関しては、その全てを排するとデスタリオラであった頃に契約をしている。官吏の件を見る限り、その契約は未だ有効らしい。

 ……あの時、パストディーアーをこちらの意図はおそらく筒抜けだったろう。それをわかっていながら腕を吹き飛ばした大精霊は、為すことで契約の続行を示したのかもしれない。

 だが半分は契約の有効性を試したというより、直接「まだ守ってくれるのか」と訊ねるのが癪だったというだけの話。


 そもそも事の発端は、デスタリオラが夜間の休息を取っている際に度々女性から襲われるのを見かねて、パストディーアーの方から強引に持ちかけられた契約だ。その時に排除対象を『異性』としたお陰で、まさか死後にまで助けられるとは思いもしなかったが。





 夕飯の時間になると、体感でもさらに熱が上がってきた。

 ファラムンドに対し明日にはよくなると答えたものの、これは医師の診断通り「しばらくの」静養が必要なのかもしれない。

 風邪と疲労が原因ということだったが、もしかして読書が悪影響を及ぼしているのだろうか。カミロも本を読むのは眼精疲労と頭痛の元になると言っていたし、明日はどれだけ暇でも本を開くのは控えておこう。


「リリアーナ様、朝より顔色悪くなってますよぅ……つらいようでしたらお夕飯は寝室で召し上がりますか?」


 体を支え、肩にストールをかけながらフェリバが心配を滲ませた顔でのぞき込んでくる。

 いつも温かく感じる手が、こちらの体温が高いせいでさわるとひんやりしている。額にあてられると熱が癒されるようで心地よい。


「いや、大丈夫だ。食欲はあるし体も動くが……だるいのと、少し頭痛も出てきたな」


「食後はお薬を飲んで、ゆっくりお休みくださいね。うう、私が風邪を吸い取れたらいいんですけど」


「フェリバまで寝込んだら、わたしの世話をするのがトマサだけになるだろう。……いや、それでも案外大丈夫か?」


「わーん、風邪なんてひきません! 私もリリアーナ様のお世話しますっ!」


 心配をかけているのはわかるが、いつも明るいフェリバにまで消沈されてはかなわない。張り切る侍女はリリアーナの手を引いて着席させると、機敏な動きでテーブルの支度を整えた。


 用意された夕飯は白くて柔らかいパンと、ミルクをふんだんに使った根菜たくさんのシチュー、それからトマトと卵の色鮮やかな小皿が添えられている。見た目はかなりのボリュームだが、根菜はじっくり煮込まれてスプーンをあてるだけで柔く崩れる。とろりと甘くて痛む喉にも優しい。

 量は減らさず、消化に良いものを用意してくれたアマダの心遣いに感謝しながら、いつもより少しだけ時間をかけて平らげた。


 食後は湯浴みを諦めて、絞ったタオルで体を拭いてもらい、軽く髪を梳いてまたベッドへ戻る。

 今日は朝からずっと寝てばかりだというのに、体中に倦怠感と疲労がのしかかり、いくらでも眠れてしまいそうだ。

 肺が狭まったようで呼吸が苦しい。眼球や喉が熱を持っている。これ以上熱が上がるとまずいだろう。

 意識が眠気に飲まれる前にと、ヘッドボードの板に指をすべらせて簡単な構成を描いておく。吸熱と冷気、二重の円に効果を持たせたそれは、極めて簡易なものだが朝までは保つだろう。


<大丈夫です、私が持続しておきますので。ゆっくりお眠りください>


「そうか、じゃあ……頼んだ」


『お気をつけなさい、リリィちゃん。あなたの小さな体は弱く脆くて……そして、心はもっと脆いものよ?』


「……ん」


 熱い息を吐きながら、羽毛の詰まった布団と枕に沈み込む。柔らかさが浮遊感を伴い、疲れ切った体からあっという間に意識が乖離していく。深く、底へと、墜落する。



 眠気に落ちる間際、金色の声。


 ――その忠告が、一体何を意味するのか考えることもできないまま、リリアーナは深い眠りについた。



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