第48話 書斎対談


 寝具が変わったためか、何かおかしな夢をみた気がする。瞼を開ける寸前までは覚えていたのに、はて何の夢だったかと思い返そうとすると煙のように消えてしまう。登場した物もヒトも掴むことはできず、妙なものを見たという名残だけが脳裏にぼんやり残された。

 せっかく見たものをすぐさま忘れてしまうのはどうにも惜しい気持ちが湧くけれど、目覚めてからも夢を覚えていられることの方が少ないようだ。次こそは目を開ける前に見たものを思い出して、記憶を留めておけるようにしよう。


 少し硬いベッドから身を起こしたあとは普段と変わらない。寝室へやってきたフェリバたちに身支度を手伝われ、食堂まで行って家族で朝食をとる。今日は風邪気味だというレオカディオが席を空けていた。線の細い次兄は毎年、この時期になると体調を崩しやすい。リリアーナの方は特に湿度や気圧に影響を受ける体質ではないのだが、重々気をつけるようにとファラムンドにひどく心配をされてしまった。


 朝食のあとは客間の一室で授業を受ける。最近では座学の割合が減り、礼儀作法や貴公位の子女として身分に恥じないマナー、だとかいう実技中心の授業が増えている。書斎での自習が増加したことで、そこで学べるものが講義から外されているらしい。

 講師から直に教えを受ける授業も参考になる部分が多いため、あまり減りすぎるのも考え物だ。特に歴史の授業は面白く、まだまだ聞きたい話も多いから長く続けてもらいたい。記された歴史書から得る知識と、歴史を研究している者から聞く生きた知識とでは、たとえ内容が被っていてもそれらは異なるものなのだから。

 そういえば今度また新たな講師を呼ぶらしいという話をトマサから聞いた。そちらは礼儀作法の類ではなく、実技と座学が半々になるとか。最近は授業の種類が減るばかりだったから、増えるなら歓迎したい。新たな知識を授けてくれる講師と授業内容がどんなものになるのか、今から楽しみだ。



「では、お昼の支度が整う頃にまたお迎えにあがりますね」


「そうしてくれ。……そろそろ、天井裏の検査とやらは一段落ついている頃か?」


「あ、そういえばそれがありましたね。一応こちらに知らせてくれることにはなってるんで、何かわかったらお迎えの時にご報告しますね!」


「ああ、頼む」


 書斎の前でフェリバと別れ、アルトに括りつけた鍵で錠を開ける。蝶番のきしむ音と共に隔絶された空気が混じり合い、馴染んだ本とインクの匂いが鼻腔を満たす。雨の季となり屋敷の中も多少湿気ているが、この部屋は他よりもだいぶ空気が乾燥している。使われている木材が異なるのか、それとも湿気除けに何か特殊な措置が施されているのかもしれない。

 そうして扉を閉めて書架へ向かおうとしたところで、ようやく先客に気がついた。気配に疎いにも程がある、入室前に気づいていただろうアルトは何も知らせてはこなかった。警戒に値しない相手という認識なのだろう。


「アダルベルト兄上、来ていたのか」


「ああ、ちょっと用があって」


 そういえばアダルベルトは昨日、本を借りに来たのに何も持たずに書斎を出て行った。この時間帯に二日連続で遭遇するとは思っていなかったが、改めて本を物色に来たのだろう。立ったまま本棚へ向かうその手には、昨日リリアーナが見ていた図鑑が開かれている。あの重たい本を片手で開けるのかと、つい羨望の眼差しで見てしまう。


「……あぁ、悪い。これリリアーナが見ている途中の本だったな」


「いや、昨日読み終わったから問題ない。兄上は今日も借りる本を探しに来たのか?」


「調べ物ついでにね。昨日は、その。突然退室して、悪かった」


 眉間へぐっとしわを寄せながら、アダルベルトは開いていた図鑑を閉じた。もう求めていた情報は調べ終わったのか、歯抜けになっていた隙間へとそれを戻す。


「兄上、その図鑑なのだが。挿し絵が荒くていまいちだと思うのだ。もっと他に詳細なものは置いてないだろうか?」


「ん……、街へ行ってもここ以上の本はないだろう。他の領か、中央へ行けば新しいものが刊行されていると思うけれど。図鑑が欲しいのか?」


「欲しいというわけでは……いや、もし新しいものがあるなら読んでみたいな。でも中央か、わたしが行けるのはあと七年も先だ」


「中央の国立図書館は、広さと蔵書量がうちの何倍もあって、国中の本が集められているらしい。リリアーナが入ったら数日は出てこなそうだな」


 数日どころでは済まない気がする。しばらく住み込みたい。だがこの屋敷から出たいわけでもないから、その誘惑については黙秘としておいた。

 国立図書館……甘美な響きだ。魔王城の地下書庫にもなかったような本が、聖王国中の知識と叡智がそこには詰め込まれているのだろう。もし行くことが叶ったら時間の許す限りいくらでも、端から端までじっくりと読書に耽ってみたい。古い紙と煤けたインクの香りが充満する広大な空間を想うと心躍る。七年という時間の壁が厚い。

 未だ見ぬ国立図書館へ想いを馳せていると、背後の扉がノックされた。鍵はまだ閉めてはいない。返事をするよりも先にドアを開けてみると、真っ先に鈍色に磨かれた杖が目に入った。


「……カミロ」


「リリアーナ様、こちらにおいででしたか。読書のお時間を戴くことになるのですが、少しだけよろしいでしょうか?」


 うなずいて、入室を促す。杖をついて入ってきたカミロは今日は侍女を伴っていなかった。先に椅子へ座らせようとしたのだが、書架の間にいるアダルベルトに気づいたらしく動きを止める。


「アダルベルト様もいらしていたのですか」


「いや、もう用事は済んだから戻るところだ。今、父上は執務室に?」


「はい」


「そうか、わかった。ではまたな、リリアーナ」


 片手を軽く振ると、本を二冊手にしたアダルベルトは書斎を出ていった。もしかしたら気を遣わせてしまっただろうか。後から来たのはこちらなのに、読書の邪魔をした上で追い出すとは、兄に悪いことをしてしまった。

 とりあえず机の椅子をと思ったが、カミロを座らせるにしても、その性格からしてこちらが着席してからでないと腰を下ろすことはない。そう思い先に対面側へ回り込んで椅子に座った。おそらくそんな思考は筒抜けだったのだろう、眼鏡を押さえる手の下、わずかに苦笑が浮かんでいる。礼を言えば配慮を察していると暴露するようなもので、侍従長を務める男はもちろんそんなことをせず、着席すると何食わぬ顔で用件を切り出した。


「さきほど天井裏の検査が終了いたしました」


「そうか、何か見つかったか?」


「それが爪痕のような引っかき傷と、鳥の羽根らしきものが残されていたのみで、徘徊している動物を発見することはできませんでした」


「羽根……」


 謎の生物の正体が鳥ならば、鋭いクチバシと長い爪が危険ではあるが、肉食ではないからそういった面での危険は少ないと考えて良いだろうか。もっとも、それは通常の鳥類であればの話だ。対象が本当に魔物であったとしたら、その範疇には留まらない。自分よりも大きな獲物、……ヒトを襲う可能性だって十分に考えられる。卵の殻を全て平らげたのだから、硬いものでも平気で啄むことは明らかだ。


「その羽根とやらはどこに? 見せてもらうことはできるか?」


「申し訳ありません、ただいま鑑定に出しております。種別がわかり次第返ってくるかと」


 アルトに見せれば即座に鑑定可能だったのだが、仕方ない。ヒトの鑑定でも判断がつき、対処可能であるようならそれに越したことはない。こちらで判明してもそれを伝える際、言い訳に困るだろう。


「応急の対応ではありますが、リリアーナ様のお部屋の天井裏部分に関しては、通風口や他の部屋の天井との境に細かな柵を設置しました。これでもう小動物などが入り込むことはないかと」


「うん、ご苦労だった。どこかの隙間から屋敷の外へ出たなら良いが、屋外は雨が降っているしな……。他の部屋の天井などにまだ潜んでいるのだろうか」


「その可能性が高いでしょう」


 鳥類は嗅覚が弱いが、視覚と聴覚は優れていると聞く。鳥の嫌がる音をたてて追い込むか、同様に強い光を照射しながら天井裏をくまなく捜索すればいずれは発見に至るだろう。

 問題はこの辺境伯邸が恐ろしく広く複雑な構造をしており、さらに三階建てだということだ。それを実行しようにも人手と時間が相当必要となるだろう。ファラムンドの地位をもってすれば全くの不可能というわけでもないが、鳥一羽を見つけるために数十人も動員して天井裏へ潜れとはさすがに言えない。

 置き餌と罠を仕掛ける方が簡単に済みそうでも、確実性を欠く上にいつまでかかるのかわからない。餌が腐れば余計な問題も発生するし、特にこの雨の季には向かない案だ。

 下唇を指の背でなぞりながら考える。……やはり、種族の特定が先決だろう。採取できた羽根からその鳥が何なのか判明すれば、習性や特徴から何か適した策が見つかるかもしれない。


「羽根と爪痕の鑑定を待つべきか」


「はい。すっきりとした解決をご報告できず、申し訳ありません」


「いいや、十分だ。また何かわかったら教えてくれ」


 ひとまず天井裏についての報告はそれで終いなのだろう、カミロは眼鏡の中央部分へ指先で触れて居住まいを正した。縁の太い眼鏡はわずかにうつむくだけで表情が隠れてしまう。一度伏せられた黒い目が正面からこちらへ向けられる。


「……リリアーナ様、ご報告の場をお借りする形となり申し訳ありませんが。昨日仰っておりました、折り入ってのお話というものを、改めてうかがってもよろしいでしょうか?」


「あ」


 そういえば、そんなことを言った気もする。気だけではない、確かに言った。

 あの時は、天井の板が外れていたという報告がてっきり自分のせいだと思ったため、話せる範囲で打ち明け話をしようと思っていた。しかし謎の卵とかいう全く身に覚えのないものが原因であり、その中身もどこかへ走り去ってしまった以上、とりたてて告白することはない。どうしようか。何か、打ち明け話に相当する話題は。

 ちらりと、横目で机の上に鎮座するアルトを見る。視線に含まれる意図は察したのだろう、カミロから見えない角度にある尻尾の紐がわずかに震えた。


<……いま、今、考えておりますっ、もうちょーっと引き延ばしを!>


「ええと、そのー……」


 眼前に座するカミロはすっかり聞く姿勢だ。普段からの無表情がさらに引き締まり、真剣な対話へ臨むという気迫にあふれている。とても「特に話はない」と言える雰囲気ではない。そもそも、こちらから思わせぶりに折り入って話があるなんて伝えてしまったのがいけない。何か、何かもっともらしい用件はないか……!


<あっ、リリアーナ様! 私を引き出された時のように、誰も触らず覗かない場を用意させるのはいかがでしょう?>


 場とはどういう意味だ。視線で疑問を投げると、ボタンの目が得意げに光った、……気がした。


<収納から時間をかけて引き出すために、天井裏なんて場所を選ばれたわけで。最初からそういう場所を設けておけば、今後も引き出しに使えるのでは?>


 なるほど、侍従長の采配があれば屋敷の中にそういったスペースを設けることは容易く叶うだろう。場所というほど広くなくてもいい、適当な箱に収まる範囲を自由にさせてもらった上で、誰もふれず中も見ず、動かさないという確約が得られれば。

 打ち明ける依頼内容が決まり、うろうろとさまよわせていた視線を上げた。


「……ひとつ、頼みがあるんだ」


「はい、何なりと仰ってください」


「箱を用立ててもらいたい。木箱でも何でもいい、大きさはこのくらいかな……」


 やや身を乗り出したカミロの前に、机の上で両手を広げて、抱えて持てるくらいのサイズを示した。


「防水ができて、それなりに頑丈で、できればフタに鍵がかけられるとなお良い」


「その条件に合致した箱を、お部屋まで運び入れればよろしいですか?」


「うん。急ぎではないから、手の空いた時にでも頼む」


「かしこまりました。……内側には柔らかい布でも敷いておきましょうか」


 ガラスの奥でわずかに目を細めながらそんなことを言うカミロに、一瞬体が固まった。瞠目してその顔を見返すと、なぜか笑いの滲んだ息を吐く。

 まさか、そんなことまでお見通しなんていうはずがない。程良い木箱を用意してくれと言っただけで、アルトバンデゥスの宝玉のように時間をかけて引き出す場所に使うなんて、さすがにそこまで想像はつかないはずだ。

 だが向けられる透徹した眼差しはそんな動揺をも見透かすようで、幼い心臓がわずかに縮こまる。

 ――いけない、狼狽える様を表に出しては相手の思う壺だ。刺すような洞察力の前に下手な隠し事は悪手でしかないが、もう少し成長して不自然さが緩和するまではインベントリのことも伏せておきたい。何か見抜いているとしても詳細までは察知していないはず、そう考えて話を続ける。


「布は、助かるな。そうしておいてくれ」


「はい。それとあとは、何が必要でしょう。小さな皿などもご用意しますか?」


「皿?」


 警戒する中、突然出てきた意味のわからないアイテムに瞬きを返す。皿? なぜそこで皿が出てくる。皿が、何に必要なのだろう?

 じっとカミロの顔を見返していると、わずかに首をかしげたので、同じ方向へ頭をかたむけてみる。肩が小さく震えた。たぶん笑ったぞ今。


「わかりました。ちょうどその大きさの木箱に心当たりがございます。清掃して布を敷いたら、お部屋へ運ぶよう手配しておきましょう」


「頼んだ」


「……リリアーナ様。ひとつだけ、よろしいですか?」


「ん?」


「もしその『箱』で何か困ったことが発生しましたら、直ちにトマサか私へご相談ください。決しておひとりで悩んだり、ひとりで解決しようとなさいませんよう。それだけを、どうかお約束ください」


 机の上で指を組んだカミロは、諭すような口調でそう言った。

 否とは言い難いその雰囲気に呑まれたわけではないが、素直にうなずいておく。それは、インベントリからの引き出しにもし何か不具合が発生したら、という意味に相違ない。力の足りない自分と宝玉だけしかないアルトにも手に負えないような事態になった、その時に……必ず相談をしろと、カミロは言っている。

 信頼も信用もしている相手だ、どうしても打ち明けられないというわけではない。もしも困ることがあったらその時こそ、インベントリの使用と、場合によっては魔法を扱えることもカミロに聞いてもらおう。

 そう決断した途端、胸のあたりが幾分軽くなったような心地がした。隠し事ひとつでこうも息苦しくなるものか、と新たな発見がある。


「わかった、約束する。その時は遠慮なく頼らせてもらおう」


「はい」


「ところで、相談先にフェリバの名がないようだが?」


「リリアーナ様が困るような事態をフェリバに持ちかけたところで、余計に悪化する未来しか見えません」


「あぁ……うん、まぁ、そうだな……」


 互いにどこか諦念を滲ませた視線を合わせ、ひとつため息を吐いた。

 そういうこともある。決してフェリバが悪いわけではなく、向き不向きの問題だ。おそらくは。


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