第2話 小さい魔王さま
そこにあるのは、大人が人差し指と親指で円を作ったほどもある大粒の宝石だった。
青い真球は蒼穹のごとく澄んでいながらも、海の深淵を思わせる底の知れない暗がりをその内に秘めている。
人の目と欲を吸い寄せてやまない煌めき。世界中をくまなく探しても二つとない稀少性。どんな衝撃にも耐えうる絶対の硬度。
遙か太古の技術で精錬されたその宝玉は、すでに失われた技術により人工知能とも呼べる思考能力を備え持っていた。
『
端から細分化された鉱石の分子が再び結合し、宝玉として元通りの優美な姿を取り戻した時、アルトバンデゥスの杖(の一部)は精神の内でのみ深く深くため息をついた。
どことなく、否、全体を走査するまでもなく確実に、……重量が以前よりも軽くなっている。
長い時間をかけるうちに分子の一部が空気中へ散逸してしまったのだろうか。機能も外見も問題なさそうではあるが、自身の一部がどこかへ消えてしまったのだ、気落ちもする。
架空のため息とともに、涙も一粒落っこちた。
さて、と気を取り直して状況の把握に努める。
異層との間に通じた細い管を通り抜け、質量の比重がこちら側に傾いてからは周囲をつぶさに観察していたのだが、通過が完了した今も特に変化はない。
箱である。
前後左右上下を布張りの薄い板で囲まれており、この一年二ヶ月の間に動いたり開かれたりということは一度もなかった。
感知できる範囲には微生物以外の生命体も存在せず、思念波を送る相手もいない。
音も光も届かぬその狭い場所で、アルトバンデゥスは考える。
自分は、主に求められてこちら側へ現出したのではなかっただろうか?
本体の杖を置き去りにしてきた以上、本来保有するスペックを発揮しきることは叶わないが、それでも必要とされて呼び出されたはずだ。
宝玉部分だけパージされたのも、小さすぎる穴に引き寄せられたのも、決して自身の意志ではなかったのだから。
収蔵空間と大差のない、何もない箱の中で途方に暮れる。
至高の名杖、十全の叡智と謳われし
愚痴る相手もなく、自力では箱から出ることも叶わず、場所は変われど相変わらず許された自由は思考だけ。
発散しようのない苛立ちと煩悶に、狭い空間をごろごろと転がり回る。
ごろごろ。コロコロ。自分から本体の元へ戻ることもできないし、運動エネルギーの無駄以外の何ものでもないが、ひとまずはこうして転がっているより他にすることもない。
あとはいつも通り、心の内であてどもない思索を繰り返すのみである。
主に呼ばれたと感じ取ったこと自体が、何かの間違いだったのだろうか。
彼は死んだはず。もう二度と自身を手にとってくれることも、語りかけてくれることもない。
死んだ生命は蘇らない。
数々の奇蹟がまかり通る大陸においても、その不文律は絶対。命を落とした彼はもう生き返ることはない。
だが、一度は途切れたはずの所有の繋がりが、微細ではあるが今もたしかに感じ取れるのだ。線にも糸にも満たないほどわずかな、注意深く意識しなければ見落としてしまいそうなほど弱い信号。
本体にはめられてさえいればもっと精細な探知ができたに違いないが、この宝玉だけの形になっても確かに受け取れている。
自身を所有者とする誰か、正当な持ち主にあたる存在がいるのだ。
死んだはずの彼が呼んだのか、それとも別の誰かが新たに所有権を得たのだろうか。
前者は希望的観測でしかなく、後者であれば彼から生前に譲り受けたか、その地位を引き継いだ誰かということになる。
正統な後継者が出現するにはまだ時期が早すぎる。ならば完全な他人ということになるが、果たしてそんな者がこの世にいるのだろうか。
たとえ所有権を得ようとも、認めるに値する者でなければ
……と、箱の中を転がりながら考え続けること九日。
変化は唐突に訪れた。
狭い箱の中、暇を持て余し四隅を狙ってバツの字を描くように転がっていると、外側からゴトリという物音と軽い衝撃が伝わってきたのだ。
隅に寄って動作を止め、様子をうかがう。
本体の杖に組み込まれている際には、その探知範囲は山をも越えるアルトバンデゥスであるが、宝玉だけになってしまった現在は範囲、精度ともに極めて低い。
この宝玉は思考を司る部位であって、杖としての能力の何もかもを詰め込まれているわけではない。玉だけでも転がれるのを(自身でも知らなかった機能だが)褒めてもらいたいほどだ。
今は箱という壁に遮られているため、精度はさらに落ちる。そばにヒトが近づいてきた、という情報を得るのが精一杯だった。
それでも現状を打破するには十分すぎる。やっと通りすがった知的生命体だ、転がりを再開して物音をたて、こちらに気を向けさせるべきだろうか……とわずかな思案をしているうちに、
「おお、転移は無事に済んだようだな」
鈴を転がしたような音階、小さな声が上から振ってきた。
続いて箱ごと持ち上げられたらしく、その場から移動を始める。がたごとという物音を注意深く拾っていると、しばらく移動した後にどこかへ安置された。
そして、かぽりと軽薄な音をたてて箱のフタ部分が持ち上がる。
久方ぶりに浴びる光、流れ込む新鮮で清涼な空気。
開いた天井部分から箱を覗きこんでいるヒトは、先ほど聞こえた声の主だろう。
真っ直ぐに向けられた瞳の中の深い赤色。
紅玉を煮詰めた赤い虹彩、それを艶やかに彩る花のような精緻な紋様。
見間違えようはずもない、それは今代にただひとりだけが持つ虹の精霊眼。
<あな、たは……>
発する思念波が乱れる。まさかという信じがたい思いと、やはりという激しい歓喜に挟まれ、続く言葉が浮かばない。
「杖のまま引き出せなかったのは、こちらの落ち度だ。すまなかったなアルトバンデゥス」
そんな謝罪の言葉を受け、ふるふると宝玉が揺れる。
もう二度と会うことは叶わないのかと絶望した。
その手に収まり共に戦うことも、内包する叡智を役立ててもらうことも、日々他愛ない言葉を交わす機会も未来永劫失われてしまったのかと。
看取ることすら叶わなかった無念、どうすれば救えたのだろうかと無益な思索に、無の空間を漂いながら身の裂けるような痛みを抱いた日々。
こぼす涙も、伸ばす腕も持っていない自分には、この場において言葉を投げかける以上のことは何もできない。
アルトバンデゥスは万感の想いを込め、焦がれ続けた相手へと思念を送った。
<あぁ、お久しゅうございます、魔王デスタリオラ様……っ!>
「うむ」
鷹揚にうなずくと、声の主は白い手を伸ばして箱の中から宝玉を取り出す。
ようやく狭い箱から脱することができたアルトバンデゥスは、伸びをするように室内へと探査の羽根を伸ばす。
日の光が差し込む明るい部屋はオフホワイトを基調とし、落ち着いた風合いの家具が並ぶ瀟洒な内装をしていた。
所々に淡い色合いの生花が飾られ、壁際には大きな鏡台や衣類の収納らしき調度品が並ぶ。布をあしらう椅子や寝具にはひらひらとしたレースがふんだんに使われており、窓からそよぐ風に揺れている。
いずれの品も、主が使用するには造りが小さすぎるように感じた。
かつての城とはあまりに意匠の異なる調度品の数々だが、そんな疑問はひとまず隅へ追いやる。
赤い虹彩、ほんのり色づく白い頬、艶めく紫銀の髪。
会話をしやすいようにか、宝玉を乗せた手が均整の取れた小さなかんばせから離れていく。
そこでようやく、アルトバンデゥスは敬愛してやまない『魔王』の全身を観察することができた。
<……魔王様、少し、縮まれましたか?>
「そうだな、身の丈は以前の半分もないが、じきに伸びる」
<……魔王様、お声がずいぶんと高くなられて?>
「まぁ、この体では仕方あるまい。前と同じ声音は出せんだろうよ」
<……魔王様、御髪の色が大層明るくなったような?>
「これか。髪なんて自分ではあまり見えないから、黒でも薄紫でも大差ないが。手入れをしてくれる侍女たちの評判は良いぞ?」
<……魔王様、その、私の視覚の故障でなければ、ヒトの女性の幼体と思しき姿をされているようにお見受けしますが?>
「その通り、今はヒトの女性の幼体だ。名をリリアーナ=イバニェスという。我はあの城で一度死んだのだが、色々あって今度は悪徳令嬢とやらの役割を押しつけられてな、生まれて三年ほど経ったところだ」
その返答と現実を受け入れきれなかった宝玉は、小さな手のひらからボトリと転がり落ちた。
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