顔も忘れてきた頃合いだというのに、今更夫ヅラされても……⑤

 ジルがテラスに着いてから、程なくして大公が現れる。

 彼の登場を待ちわびていた民衆は盛大な歓声を上げ、手を振る。大公はそれに応え、ジルもまた大公からキッチリ一人分離れた場所に立ち、小さく手を振った。


 でもジルは笑顔を作る余裕がない。オイゲンが誰かに見つかって捕らえられていないかと気がかりなのだ。


「僕の公妃は今日もご機嫌斜めなのかな? 美しく変貌を遂げた君に皆釘付けになっているのに、微笑みを返す事すらしない。まるで氷の様な冷たさじゃないか。だがそこが……とてもイイ!」


 再びわけの分からない事を言い始めた大公に背筋がゾワゾワして、大公からもう一人分遠ざかった。


(でも今日で大公とはお別れ出来る……。オイゲンさんに渡されたメモには、大公とのファーストダンスの後すぐにと書いてあったけど、そもそも踊らなくてもいいのよね。私とずっと一緒に居られるよりも、大公に他の女性と踊ってもらって、その間に逃げるのがいい気がするわ)


 大公が出席するような夜会では、大公が一番初めにダンスを踊るという事になっているのだが、ジルと大公は今近付く事が出来ない。それを逆手にとって、逃亡するチャンスを作りたいところだ。


「大公、夜会では私に構わず、別の方と踊ってくださいませんか?」


「あぁ……。もしかして浮かない顔をしていたのは、そこを気にしていたからなのかな? 可愛い人だね。君という存在がいるのに、他の女性と踊るわけないじゃないか」


(うわぁ……)


 無駄に爽やかな笑顔を浮かべる大公は、妻一筋の素晴らしい夫の様である。しかし忘れてはならない。この男、ジルを人質としてベラウベルク帝国に差し出していた間に愛人を囲い、その女性に子供が出来たと騙されている。宮殿で働く者は誰も表立って噂しないが、普通に考えて大失態である。



 しかもその事をジルに手紙に書いて伝えてきている。今更大公の何を信じられるというのだろうか? 白々しいだけである。

 ジルは半笑いを浮かべて大公を見つめた。


「大公は私と接触出来ないまま生涯を終える事になるのでしょうか? でもそれだと私、とても心苦しいのですわ。私以外の女性と普通に接する事が出来そうでしたら、この国の将来の為に出会いの機会を生かすべきかと」


 大公はジルの言葉に、目を煌めかせた。


「本当かい!? 何て物分かりのいい……ゲホゴホ……! 君の進言は慎重に考えてみよう」


 周囲に居る大公の親類達が、ジルと大公の会話が聞こえたのか、ギョッとした顔をしてこちらを向くので、大公は取り繕う様に髪をかき上げた。しかしその顔は鼻の下が伸びていて、ジルの進言を聞き入れた事を伺わせた。


(なんてチョロイのでしょう!!)


 ジルは扇子を開き、その陰でニヤリと笑った。


◇◇◇


 夕方になり、宮殿では盛大な夜会が開かれている。


「まさかジル様がこれ程までにお変わりになるとは……。以前も大変可愛らしかったのですがね!」


 夜会に出席したハーターシュタインの貴族達は、ジルと大公に挨拶しに来ると必ずジルの変貌を褒めてくれた。

 ジルは先ほど民衆に手を振った時と同じドレスにティアラを被り、逃げやすい様にヒールの低い靴に履き替えた。挨拶しに来る貴族に対して気の利いた事の一つでも言えればいいのだろうが、この後自分が起こす騒動に思考がいっぱいになり、会話どころではない。


「ところで何故そんなに大公と大公妃は離れて立たれているのです?」


 大公に挨拶しに来た男は不思議そうにジルと大公を見比べた。


「妻に近寄れなくなってしまってね……。肩を抱く事も手を握る事も出来ないんだよ」


「なるほど! そういう遊びを楽しまれているのですね! 流石大公、流行をすぐさまライフスタイルに取り入れる姿勢は見習いたいものです!」


(流行って、何なのかしら? 大公の周りって変な人ばかり集まるのね)


 訳の分からない会話で盛り上がる男2人にジルは首を傾げた。


 ホールの中に弦楽器の音が鳴る。オーケストラの音合わせだ。


「そろそろダンスの時間ですね。お2人方のお邪魔をしてはいけませんから、私はこの辺で失礼させてもらいます」


 大公とジルに礼をし、男は去って行った。


「君の代役は、あそこに立つリューベナッハ伯爵令嬢に務めてもらう事にしたよ」


 大公が示す方を見ると、プラチナブロンドのスラリとした女性がこちらを冷ややかな視線で見つめていた。ジルは思い出す。彼女とは以前、社交界のイベントで会った事がある。ジルに聞こえるように、家柄だけの女だと評していた。

 この様な場でジルの代役を任される事について何か思う事があるのか、その表情は厳しい。


「いっそ私と離婚して彼女と再婚なさったらどうでしょうか?」


「美しい君を手放す事は何があってもしないよ! 僕の宝物だからね。 ハッ! もしかして君……嫉妬しているんだろう!」


「あり得ませんわ……」


 大公の相手をするのがめんどうになった頃合いに、彼の侍従が近付いて来た。


「大公殿下、そろそろ中央にお進みください。殿下が位置に着いたら、オーケストラが演奏を始めます」


「ああ、分かった。ジル、しばしのお別れだよ。ダンスが一度終わったら君を私室まで送ろう」


「え……!」


 大公の言葉にジルは焦る。彼は意外な事に、直ぐに切り上げるらしい。そうまでしてジルをこの場に置いておきたくないという事なのだろうか? ダンス1回分しか逃げる時間がないとすると、本当に余裕が無い。


 大公がこちらに背を向け、伯爵令嬢と手を取り合う。誰もが彼等の姿に注目を向けそうなものなのに、パートナーがジルではない事が気になるのか、訝し気な視線が幾つかこちらに向いていて、動きづらい。いつホールを出ようかと迷い、うるさく騒ぐ心臓を抑える


「ジル」


 ジルは、呼ばれた方をビクリと振り返った。視線を向けた先に、父が悲し気な表情で立っていた。


「お父様?」


「お前の幸せを思って大公と結婚させたわけじゃが、大公はお前がブラウベルク帝国から生きて帰って来ても、お前に触れようともしないらしいな? しかもこの大イベントでジルを差し置き、ウチよりも下位の貴族の娘と踊ろうとしている」


 父の言おうとする事が気にかかるが、今は急いでここを去らなければならない。時間はあまり残されていないのだ。


「お父様、私の事は気にしないでくださいませ!」


「妻にもずっと言われていたんだが、大公とお前を結婚させたのは間違いだったのだろうか……?」


 初めて見る様な気弱な姿に胸が痛む。もしかすると父はこの数日ずっと気に病んでいたのだろうか?


「私、もう自分を大公妃だと思ってないのですわ。過去を清算するんです。だからもう、気に病まないでください。それと……この国が劣勢になる前にお母様と一緒に亡命してくださいませ。どうかお母様を大事になさってください」


「清算? 一体何を……。いや、やっぱり聞かないでおこう。ウチの優秀な遺伝子を継ぐお前の事だ。その判断を尊重する事にしよう。妻の事は心配いらない」


「はい!」


 大ホール内に、軽やかな曲が流れる。貴族達は父と話すジルへの興味はなくなった様で、踊り始めた大公に視線が集まっていた。

 今なら誰にも見咎められずに大ホールを抜け出せるかもしれない。父に手を振り、ジルは出口に向かった。


 大ホールから出て、人気の少ない通路を懸命に走る。

 今まで引きこもっていたため、宮殿の間取りをあまり把握しておらず、テラスから戻った後に侍女に頼んで見取り図を借り、慌てて頭に叩き込んだ。しかし、図面で見るよりも指定された化粧室は遠い様で、なかなかたどり着けない。


(もうそろそろ大公のダンスが終わる頃よね? 早く動いて、私の足!!)


 ドタバタと走っていたため、通路に立つ近衛に不審な顔をされる。


「失礼……、貴女は大公妃のジル様ですよね? 大公から外に出すなと言われておりますが……」


「ごめんなさい! 化粧が崩れてきてしまったので、侍女に直させたいのですわ! 急ぎます!」


「そうでしたか……。足を止めさせてしまい、申し訳ございません」


「気にしないでくださいませ!」


 近衛はジルの嘘を簡単に信じてくれたので、大した時間のロスも無く、1階南側の化粧室前まで辿り着く事が出来た。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る