2 死神との取引

 少年は注射が嫌いだった。

 小学一年生全員で行われた集団予防接種の時、鋭い痛みに泣いてしまったのだ。

 たまたま好きな女の子が近くに居て、恥ずかしかった。あの時体育館に居た人みんな記憶喪失になって欲しいと本気で思った。

 この日の事があって以来、少年は注射が嫌いになった。注射を見ると体が震えるし、予防接種の時の女の子の冷めた目を思い出して泣いてしまうのだ。

 それでも注射は意外とよくある物で、少年は注射を見る度泣いていた。母はその度「すっかり注射がトラウマになっちゃったね」と呟いていた。




 少年はゲームが好きだった。

 人気の無い道をゲームの事を考えながら一人で帰宅していた。雨の日は、液晶画面がブルーライトカットモードになった時のように、世界が微妙に違って見える。


「っ!」


 角にある電柱の陰に年齢不詳の小柄な男が隠れている事に気が付いた。傘を差しておらず、ただそこに立っている。

 怪しい。怪しすぎる。

 道を変えようと思って足を止めた、その時。


「そこの坊や」


 声をかけられひっと息を飲む。

 動揺しすぎて一瞬知ってる声だと思ってしまった。こんな背の低い知り合い居ないのに。


「もしかして僕の事が見えるのかい? だったら、ちょっと僕の話を聞いてくれる?」

「!?」


 この男は何を言っている? 見える、なんてまるでゲームだ。

 心臓がバクバク言っている。少年はただ大きく目を見開く事しか出来なかった。


「僕は死神って奴でね。会社の為に寿命を集めないといけないんだよ……死神界の法律に引っかからないくらい平和な方法で」


 なんて反応していいか分からずとりあえずこくこくと頷く。

 死神ってゲームによくいるあの死神の事なんだろうか。だからこんなに背が低いのだろうか。


「でも同僚みたいに入院患者から寿命を集めるのって、平和だけどライバルも多いし地道すぎて嫌なんだよね。で、僕は考えた。ちょっとアウトなんだけど長生きする予定の人から少しずつ寿命を貰って、いっぱい寿命を集めれば良いってね。これでも死神だからさ、人の苦手な物や余命が見えるし神様っぽい事も出来るんだ。君は凄いよ、なんと百六歳まで生きる。だから君、僕と取引をしないかい?」


 百六!? と少年は驚いた。どうやら自分はひいおじいちゃんよりも六歳長生き出来るらしい。


「と、取引って何するの?」

「君の百六年の寿命から、半年寿命をくれるだけで良いんだ。そのお礼に、君の嫌いな物を一つ減らしてあげる。君の場合……注射かな?」


 もうこの頃には男から目が逸らせなくなっていた。男の問いかけに力強く頷く。凄い、本当に自分が注射嫌いだと分かるとは。

 百六年から半年をあげるだけで、もう注射が平気になるならこんなに良い事は無い。これで好きな子から変な目で見られない。


「うん、僕注射嫌だ! 寿命あげるから僕の注射嫌い治してよ。お願いっ!」


 少年の懇願は男の耳にちゃんと届いたようだった。男の唇の端がにぃっと上がる。


「じゃあ早速寿命を頂くよ。でさ、本当に悪いんだけどちょっと我慢して?」


 笑みを浮かべたままの男が胸ポケットから取り出したのは――注射だった。


「えっ! それ注射じゃんなんで!?」

「後ずさらないで。寿命を吸い取る必要があるからだよ、さっき言った通り病院で仕事する仲間が多いから、寿命吸い取り器も注射器型の方がやりやすいんだ。ごめん、これで怖い思いは最後だから」

「う~……うん、分かったよ……どうぞ」


 注射は怖いが条件が魅力的だったので、少年は震える手を握り締め涙を堪えて男に首筋を差し出した。


「有り難う。じゃあ行くよ」


 その直後、首筋にチクリと鋭い痛みが走った。拳を一層強く握りしめる。暫くして針が抜かれホッとした。


「約そ――あ、れ?」


 異変にはすぐに気が付いた。足に力が入らなくて、ふにゃっと地べたに座り込んでしまったのだ。次第に座っても居られなくなり、どさりと音を立てて濡れた地べたに倒れ込む。

 寿命を吸い取られるとはこんな感じなのだろうか? 瞼に力が入らなくなるのを感じながら男を見上げる。

 薄れゆく意識の中思い出した。

 そうだ。この男の声、本当に聞いた事がある。あの時はこの男は座っていて――少年の意識はそこで途絶えた。


***


 少年の体が完全に動かなくなったのを見て、男はすぐにその場所から離れ舌打ちをする。

 また失敗だ。生きてて貰わないと困るのに。まずは小学生で成功させないと、人為的に身長を伸ばす薬が作れない。

 薬の研究の傍ら予防接種も担う病院に勤め、騙しやすそうな小学生を見つける。名前と住所が分かるので後は楽だった。今回はゲーム好きの子供が好きそうな言葉を利用させて貰った。自分の風貌が異質な事も、皮肉にも一役買ってくれていたのだろう。

 この薬は何としても完成させないといけないのだ。そうしないと自分は金も名誉も――女も手に入らない。もう振られるのは嫌だ。

 男は一度深いため息をつき、研究室に向かって歩き始めた。

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