第3話
あれはよく晴れた秋の日のこと。雲一つない青空の下、全く新しい出来事が起こった。私は同じ年頃のある娘に胸が痛くなるほどの愛おしさを憶えてしまったのだ。
私たち奴隷は外部の管理者によってこの工房に隔離されている。その人々の中に師と篤い信頼関係を結んでいる商人の夫婦がおり、昼夜分かたず働き続ける私たちの仕事の様子と大切な商品である絨毯を定期的に観察しに来ていた。彼らは他の者とは違い武器を持たず、常々朗らかな表情をし、私たち奴隷を決して蔑まなかった。そして絨毯の出来栄えに目を丸くして喜びながら、いつも機嫌よくそれを馬車に積み込んでは帰ってゆくのだった。
彼らはある日、娘を伴って現れた。空に溶け込むように澄んだ穏やかな山並を背景にその娘が母親と手を繋ぎ馬車から降りてきた刹那、偶然にも公房の外で竿に干された絨毯を注視していた私の視線は磁力に引っ張られるようにして向きを変えた。ほんの一瞬、娘と私は一直線上に目と目を合わせていた。綺麗な顔立ちをした娘の愛らしく余りにも無防備な微笑みに、抑制の効かない歓喜のようなものが体中にこみ上げてきた。それは一度も経験したことがない幸福感であった。私はこの偶然に感謝するように深々と頭を下げた。また彼女が両親と仲睦まじくしている様子に切ない懐かしさも憶えた。今頃、私の父と母はいったい何処で何をしているのだろう。一抹の不安と共に両親との最後の記憶が蘇った。忽ち私は涙で目が曇り反射的に干された絨毯の影に身を隠し俯いた。顔を上げた時、美しい娘はもう両親と共にその場から姿を消していた。
「鳥が歌ってる」
工房を見学中にそう言った娘の声にこそ、歌う小鳥の鳴き声のように高音で伸びやかな響きが満ちていた。鳥の囀りが描かれたその模様は、師の図案を元にした私の手になるものである。両親に連れられて初めて絨毯の制作現場に来た娘は興味津々だった。大きな瞳を輝かせて表情豊かに辺りを見回している。その純真無垢で楽し気な様子はまるで天使が地上に舞い降りたようだった。恐らく両親だけではなく親族や近隣の人々からも愛される存在なのだ。きっと誰もがこの娘と話すだけで元気が貰えて楽しくなるのだろう。あの時、師はこちらを指さして、鳥が歌っている絵を担当したのが私であることをそっと娘に知らせてくれた。まるで私の秘めた想いを察してくれたかのように。彼女は可愛らしい仕草で首を傾げ、師の短い説明を聞いて私の方を見た。目と目が合ったのはそれが二回目のことだった。その日は私の人生にとって特別な日になった。
日が沈む前に、親子三人は西方へ帰るべく、気に入った幾つかの絨毯と共に馬車に乗り込み、私たち奴隷はその姿を丁重に見送った。後の人生を考えれば稲妻の光のように短か過ぎる時間だった。それは私も娘もまだこの世に生を受けて十数年が経とうか経たないかの年頃のことである。
ここ数日、妙な噂がたっていた。それを知る少し前に何か嫌な予感に私は捉われた。あの夫婦がすっかり姿を見せなくなっていたからだ。当然、あの天使のような娘もここに現れることはなかった。噂というのはこの王国の行末が危ういというものである。大陸の中央で離合集散を繰り返していた遊牧民が、チムールと名乗る勇猛で強力な指導者の下に大同団結し、新興勢力となって領土を拡大し急激に膨張しつつあったらしい。ひよっとするとその中には、私たち家族とも縁のある人々が含まれていたのかもしれないが、当時の私の若さでは大陸の地政学的な情勢など知る由もない。
だが悪い時には悪いことが連鎖的に発生する。突然、作業現場で師が血を吐いて倒れたのだ。これまで師は余りにも多くの仕事を一人で抱えていた。只、こういう事態もいつか来るであろうことを予期していたようで、師の代わりを務めるべき男が陣頭指揮をとるべく現れた。彼は私たち奴隷を管轄する側ではあったが四角い顔立ちと大柄な体格の割には温厚な性格で、以前から材料の調達等で工房に姿を見せた時には影に日向に師を支えていた好人物だった。しかし新しい絨毯の制作は止められ、既に制作途上のものを完遂させる方向へと転換された。やはりこの工房の外の世界は不穏に変化しつつあったのだ。私は故郷で家族が外部からの圧力により離散したあの日を思い起こし戦慄した。怪しい黒雲が空全体を覆うように、日に日に不安と危機感が周りにもひたひたと漂ってきていた。
そんな折、狭い部屋に閉じ込められ寝たきりになってしまった師に私たち弟子は一人一人呼び出された。
「今までありがとう。もうすぐ私の人生も終わる。悲しい事実だが、おまえに話しておくべきことがある。いずれ王国は滅びよう。そうなれば工房がどうなってしまうのかはまだ霧の中だが、私たち奴隷と絨毯を管理している者たちの多くは既に逃亡する準備をはじめたようだ。彼らが一人残らず消えてしまった後、置き去りにされた私たちはその未来を敵の手に委ねるしかない。信憑性のある知らせだと、敵の人々は私たちと同じ神を信じている。ただ肌の色は黄色く農耕ではなく遊牧の民だそうだ。だからひょっとすると、おまえは殺められずに済むかもしれない。そしてここからがおまえにとってはとても重要なことなのだが……」
そこまで話すと師は真一文字に口を閉ざし、なお一層真摯な眼差しを向けてきた。私は緊張の余り息を呑んだ。
「……あの娘は両親と共に天に召された」
それを聞いた途端、私は絶望のあまり壁に頭を擦り付け激しく号泣した。どのような最期を遂げたかまでは教えてはくれなかったが、師の険しい表情が全てを物語っている。忽ち怒りで全身がわなわなと激しく震え上がった。酷いことだ!惨いことだ!ついこの間、この地を訪れ天使のように愛苦しく笑っていたというのに。有り得ない。絶対に許せない!神様、どうして?何故?そのようなことが。
「おまえはまだ若い。生き延びたら、これまでとは別の道を歩んでゆくのも良いだろう。おまえには可能性があるのだ。ひょっとすると剣を持つ仕事に就く機会もあるかもしれない。但しこれだけは忠告しておく。決して復讐をしてはならん!」
その師の言葉に促され、荒々しい感情に支配されていた私はふと我に返った。心の臓の鼓動が鎮まり、止めどなく流れていた涙が少し枯れてきたようだった。
「私もかつては殺戮に遭遇し、家族を失い憎しみの塊になってしまった。虚しいことだが、憎悪というのは世代を超えて受け継がれてしまうものなのだ。しかしそれは暗黒の牢獄に自らの魂を封じ込めてしまうことに他ならない。地獄の底に良心を突き落とすようにして。おまえはそのように愚かな人間ではないはずだ。私の場合、深い闇から光へと救出されたのは、遠くから聴こえてくる神の声と荒んだ心に触れてくる神の指だった。そのお蔭なのだ。汝、殺すなかれ!汝、殺すなかれ!汝、殺すなかれ!」
師は執念で上体を起こし、憎悪の海に溺れかけていた私を持ち上げるように強く抱き締めてきた。今この時に至って師は全身全霊で大切な何かを私に伝えてきている。
「あの娘はもうおまえの傍らにいるのだ。もう何処へも行くことはない。おまえのすぐ手の届く処にいて、おまえを見守っている。何時何処にでも現れる。おまえにあの娘への純粋な想いがある限り。神がそのように差配して下さる」
それを聞いた私は蘇生した。先ほど渦巻いた怒りとは真逆の感情が悠然と胸に沸き起こり、深い悲しみの中にあっても、感謝と安堵の念で師の顔が霞むほどに再び涙が目に溢れてきた。私は救われた。濡れた視界に滲みだすように師の優しい表情が浮かんだ。これが師との最後の邂逅になった。その日の未明、師は眠るように他界した。
工房を去る時がやって来た。この山岳部の僻地は騎兵と歩兵で構成された敵の軍勢に包囲されており、既に私たちは運を天に任せるしかない状態だった。
「おまえたち全員の命は保障されている。それはこの地で誠実に勤め続けてきたからだ。ここまで導いた師に感謝しなさい。今後、どのような仕事に就くのかは未だ決まってはおらぬが、神を信じ精一杯励むことだ」
私たちは工房の外で招集され、師が倒れた後にここを統括することになった男にそのように告げられた。彼は縄で両手を縛られているが、騎乗の軍隊の長は冷静な表情でその場を見守っていた。王国は命運を賭けた会戦で大敗し、都が包囲され陥落して以降、凄惨な侵略戦争は既に収束していた。師が語っていたように敵軍は肌の黄色い人々だった。そしてこの肌の色によって私たちは選別された。
山地から平地へ移動していく途中で、白い肌と黒い肌の奴隷の乗せられた馬車が西の道へ進み、私と少数の黄色い肌の奴隷は東の道へと進んだ。今更のように私は工房で過ごした数年間で特別な友と呼べる人間が一人もいないことに気付いた。私たちは絨毯を制作する作業に一心不乱で取り組み続けた結果、同じ空間で過ごした全員が信頼に足る同胞でありながら個々の印象は薄く、皆が師の身体の一部になっていたように思う。私にとって離散した家族に値する特別な存在は、恐らくあの天使のような娘と、心の師である。揺られている馬車の外は田舎から都市の風景に変わっていたが、其処は無残な廃墟に近かった。建物の多くは破壊され、黒ずんだ焼け跡がそこかしこに見られる。宮殿の変色した壁面には絨毯の装飾にも似た繊細で優美な曲線が断ち切られ罅割れていた。戦争の爪痕は深く生々しく私の心は痛んだ。いったいこれから何処へ行くのか。未だ何もわからない。
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