プロローグⅣ - The moment of darkness MASAMICHI  -

――同じく 平成30年 03月 30日 金曜日 朝9時××分――


 轟音の中、夢中で彼女を抱き締めることだけを考えていた。

 ――もう二度と――


 ……幼かった頃のことだ、

 正道が四歳で春子お姉ちゃんは六歳だった。

 二人とも親が共働きで平日の午後はよく住宅街の公園でボール遊びをしていた。

 僕たちはふたりぼっちの事が多かった。

 彼女は近所の優しいお姉さんだった。

『まーちゃん、はい』

「はるこおねーちゃん、はい」

 ボールを投げ合って遊んで居たある日のことだった。

 正道の投げたボールが不意に車道に飛び出してしまう。

『まーちゃん、へたっぴー! おねえちゃん取ってきてあげるね!』

 春子お姉ちゃんは、道路を右見て、左見て、もう一度右見て、

 車が来ないことを確認してから、車道の真ん中のボールを拾い上げた。

「おねーちゃん、ありがとう!」

『うん、だいじょうぶ! ボール投げるよ、はい!』

 春子お姉ちゃんが投げたボールが宙を舞って、正道がキャッチしようと手を伸ばしたその時。

 近くの交差点で大きなブレーキ音の後、衝突音がした。

 距離にしては20メートルくらい離れていたはずだ。

 車道に居た春子は大きな音のした方を見つめる。

 正道は音にビックリしてしまって、身がすくんでしまい。ボールを取り落としてしまう。

 春子は大きな音がした交差点の方を見つめて、やがてゆっくりとした足取りでそちらに歩いて行く。


 ――行っちゃダメだ!! この光景は、正道の目に今も焼き付いている。


 ボールを取り落とした正道は、そんな春子に眼を向けつつも、

 後ろに転がってゆくボールを取りに追っていった。

 春子は交差点で起きた交通事故の現場に、見慣れた車があることに気がつく。

『……お母さん?』

 春子の家の白い車は大破し、トラックと前方部分が衝突し合いめちゃめちゃに壊れていた。

 そして潰れた前方の元々運転席だった場所から、

 息絶えた彼女の母親が姿を見せていた。

『お母さんっ!!』

 遠くで聞こえた彼女の悲鳴に正道は振り返った。


 ――この記憶はこの後急に曖昧になって、いつもなら

〝見ることが許されない〟はずだった。


 次の瞬間、彼女の母親の車に衝突していたトラックが積んでいた引火性の燃料に火が付いて、巨大な爆発音が住宅地に響き渡る。

 彼女の小さな体は爆発の火に呑み込まれ、そのまま掻き消されてしまったのだ。

 交通事故により春子の母は死亡、

 事故を起こしたトラックの積載していた燃料が爆発し、

 二次的にその爆発に巻き込まれた春子も死亡するという悲惨な事故だった。

 葬式で泣き崩れていた彼女の父親はその数年後に自殺したらしい。

 僕はあの時彼女を助けることが出来なかった――ごめんなさい。春子お姉ちゃん。


 ――遠くで水の流れる音が聞こえる。


 真っ白い空間の中にふわふわと漂うような感覚だった正道の体に急激に現実感が舞い戻ってくる。

 ものすごい地鳴りの中で、なんとしても目の前の命だけは手離すまいと、抱き締めた。

 夢が醒める感覚の中で、彼女の優しい声が脳裏に響いた様な気がした。

『まーちゃん、ありがとう』

(そうか、今度は助けられたのかな――)

 返答を期待したわけでもないのにでそう呟いていた。

 すると、

『わたしと、このこと、二人ともねっ』

 喜ぶ彼女の声が意識をかき分けて霧散していった。

 彼女の声ではない声が聞こえる。


「あの、大丈夫ですか!? 日向さん!」


 すぐ近くで呼びかけるその声は、けれどどことなく彼女の声に似ているような気がした。


「――う。うう」


 今度は、今度こそは。君と生きなければ。

 気がつくと暗闇の中で、近くで彼女の息づかいが聞こえた。

 腰に回していた右手には彼女のぬくもりがある。


「大丈夫?」


 彼女の無事を確認したい、彼女の声の位置から推測して彼女の顔に触れる。

 体温を感じた。生きている。

 けれども、指先に触れたのは柔らかな彼女の頬の感触と同時に、血液のぬめりの感触。


「怪我してる、の?」


 恐る恐る訊ねる。

 近くの息づかいは温かい呼吸音をしてから、


「だ、大丈夫です。私よりあなたのほうが、耳の下のところ。血が……」


 暗闇の中で、彼女の瞳には空が映っていたと思う。その瞳は涙に濡れていた。

 目が慣れてきたのではなく、遙か背後に光源があるようだ。

 自らも怪我をしているという自覚は全く湧いてこなかった。

 彼女の瞳が不安でゆらいで、


「そうだ、スマホっ。ちょっと待って下さい。あ、あの、もう大丈夫ですから腕を」


 見ず知らずの男に、それはきつく抱き締められるなんてこと、嫌に決まっているだろうな。

 慌てて彼女の腰から手を解く。


「ああ、そうだったごめんね」


 無事が確認できてよかった、どうやら俺たちは生きては居られたようだ。

 一気に気が緩んで彼女の左側に仰向けに寝転んでみたのだが。 

 次の瞬間右足に異常な痛みが走った。


「うっ!!」


 もしかしたら自分は怪我をしているのかも知れない。

 それでも、彼女の命だけは助けなければ。

 歯を食いしばった。


 ――水の流れる音は絶えず聞こえている。

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