第2話 旅立ち

 翌朝まだ暗いうちに目覚めたヒロトは最低限の荷物を持って長年暮らした家を出た。名残惜しいがいずれまた訪れることもあるだろう。その時自分はいくらか立派になっているだろうか。


 村人へのあいさつは村長が代わりにやってくれるということだったのでしないことにした。彼らも暗いうちから起こされるのは迷惑だろう。ヒロトはただ歩みを進める。


 そして誰にも別れを告げぬままこっそりと村を後にした。



 オロフ島は、ここ一帯で最大の人口を擁すナンドラという陸に隣接している。ナンドラとは小さな浮島でつながっていて行き交うにはそこを通るしかない。浮島同士が離れていることもあるため馬車は通れないし徒歩でも軽装で渡らなければいけないのだ。そのためオロフ島の住民は物理的に隔離されていて皆自給自足の生活を営んでいる。もちろん街に出向くこともあるが依存はせず島の中だけで生きていけるのだ。ヒロトもそんな島のなかでたくましく育ってきた一人で、浮島を向こう岸まで渡るのは造作もないことだった。 


 ヒロトは空が白み始めるのをまって浮島を渡り始めた。風は穏やかで、露で滑りやすい下草にだけ注意しておけばよかった。


 途中、石灰岩が突き出た島があったので岩陰で一休みをする。朝早くから渡り始めたのでこのペースでいくと陽が沈む前にはナンドラに着くだろう。ここからでも雲に浮かんだ巨大な陸が見える。浮島のむこうはナンドラの崖の上の方までつづいていて、その先にはオレンジ色の街並みが見えた。遠目に見えている建物の数だけでもオロフ島の何百倍もの人々が生活しているのがよく分かった。



 夕刻前、つつがなく浮島を渡り終えたヒロトはついにナンドラの地に降り立った。目の前には石畳の上を大勢の人が行き交っている。心なしか皆足早に歩いているのは暗くなる前にそれぞれの家庭に帰ろうとしているからだろうか。


 ぼんやりとつっ立ていると遠くのほうで教会の鐘がなった。ヒロトも今日の宿を探すことにした。宿はすぐに見つかった。


 ナンドラ最東端に位置するケルンは比較的小さい街で宿も中心街に数軒あるだけらしい。昔は貴重な石炭が崖の中層から採れたということでにぎわっていたが近年は人口が減りつつあるそうだ。そんな店主の説明を聞かされながらもヒロトにはどこがにぎわってないのかいまいち理解できなかった。なんにせよ、オロフ島とは大違いなことは確かだ。出されたトマトのスープを味わいながらヒロトはそんなことを思った。


 食事を終えたヒロトは特にすることもなかったので早々に寝室に引き上げた。窓を開け放つと浮島とオロフ島がよく見える。小高い丘にある街並みは月明かりを受け銀色に輝いていて窓の中から暖かな光が漏れていた。


 ヒロトは月光を浴びながらここ数日の出来事を振り返る。別れや初めてのことが多かったけれどなんとかなった。明日からは宿屋の店主にでも聞いて仕事探しをはじめよう。そう心に決めヒロトはベットで眠り込んだ。



 翌日の朝食の席でヒロトはケルンでの職探しは難しいという話を聞かされた。店主によるとなんでも人が減り続けていて働いても需要がなくなってきているらしい。店主の息子もナンドラの中央に出稼ぎに行ったそうだ。しばらく迷ったヒロトだったが安定した働き口を求めていたのでその日のうちにケルンを立つことに決めた。オロフ島との距離がさらに離れるのは寂しいが背に腹は代えられない。ヒロトは急ぎ出発の支度をする。


 その後数日間ヒロトは宿屋の教えてくれた乗合馬車で街道をただひたすらに進んだ。道中に見えた四方を赤土の地平線で囲まれた大地は、ヒロトにとって目新しく我を忘れて眺めていた。馬車の乗客たちもヒロトがあったことのないような人たちばかりで話が弾んだ。


 そうこうしているうちにあっという間に10日間が過ぎる。そしてついにヒロトはナンドラ最大の都市ネルスに到着するのだった。


 ネルスの神殿前中央広場に着いたヒロトは御者のおじさんにお礼をいってから停車場をあとにした。時刻はまだ九の刻を回っていなかったのでそのまま職探しをする。


 辺りは都市の中心街とあって道はきれいに舗装され石造りの遺跡群を改装した高級店がならんでいた。ヒロトもオロフ島を出るにあたって出来るだけ身なりを整えたつもりだが中心街の店で雇ってもらえる自信は無い。狙うなら中央から離れた区画か都市の流通に関わる仕事などだろう。ちょうど通りかかった男性におおまかな場所を聞きメインストリートを西に向かって進む。行き交う人は多種多様な身なりで、肌色も白、黒、黄色など種類に富んでいた。


 御者の話によると、もともとこの土地は乾燥地域で遺跡群もそれに適した造りになっていたが数百年前に人が住み始めネルスの原型ができてからは温暖な気候に変異したそうだ。そのせいかどうかはわからないが道や建物のあちこちに木や下草が生えていて水路にも水がゆらゆらと流れている。堅牢な石造りの住居があり生活水にも困らないこの都市は確かになるべくしてここまでの繁栄をとげたのかもしれない。


 そんなことを考えていたヒロトだったが、気がつくとと見上げるほどの木の根元までやってきた。そういえばこの木は馬車からも見えていた。標識にはザイモンの大樹と書かれている。牛の胴体くらいある根の周りには積み木を持ち出している子供や寄りかかってくつろいでいるお年寄りが大勢いた。


 「この木はどれくらい前からあるんですか」


 気になったので近くで本を読んでいたおばあさんに聞いてみる。


 「そうだねえ、あんたここが昔砂漠だったてのは知ってるかい?」


 「その時にはもうあったって私の母が言ってたねえ。ほら、この街の水路が全部ここに集まってるでしょ」 


 おばあさんはそう言って指を指す。確かに何本もの水路がこの木に向かって集まっていた。どうやらここはネルスのちょうど真ん中に位置しているらしい。


 「つまり、この街の遺跡が立てられたころに一緒に植林されたんだろうね」


 遺跡が立てられた頃というと少なくとも数百年前になる。そして住んでいた人々がいなくなり再び人が集まってネルスが出来たことを考えると1000年以上は前のことなのかもしれない。途方もない年月だ。この都市と大樹の成り立ちにヒロトは幾ばくかの感動を覚えた。



***



 ヒロトはお礼をいって大樹の広場を後にした。少し先に行くと庶民的な造りの建物が多くなる。このあたりなら雇ってくれる店がありそうだ。近くの喫茶店に立ち寄り、古風なベルのついたドアを押し開けて店内に入るとコーヒーのよい香りがした。


 「いらっしゃい」


 グラスを拭いていた老齢のマスターが出迎える。


 「カウンター席でよろしいですかな」


 マスターが指した先には一枚板で作られたきれいな木目調のカウンターがあった。


 「はい、大丈夫です」


 「ご注文は?」


 「コーヒーをお願いします」


 「承知しました」


 一礼してマスターは奥の方へ下がった。待ち時間に辺りを見回してみる。今は昼を少し過ぎた時間だが客入りはいいようだ。店の外にはテラスもあって紅茶を手に女性たちが歓談している。通りを雲がすうっと流れてゆき心地のよい風が吹いた。


 「おまたせしました」


 しばらく待っているとマスターがなれた手つきでカップを運んできた。香ばしい香りがじんわりと鼻腔を満たす。少し啜るとほどよい苦みが口の中に広がっていった。ほっと、一息つく。とても落ち着く味だ。


 コーヒーを堪能していると近くにいたマスターが不意にグラスを拭いていた手を止める。


 「あなたは東の方から来たのですかな」


 「はい、オロフ出身です」


 マスターの瞼がピクリと動いた。


 「そうですか。私にもオロフに古い友人がいます。今はどこで何をしているのかさっぱり分かりませんが」


 そう言ってマスターは遠くを見るような目で頰を緩める。


 「最近は連絡を取ってないのですか」


 「ええ、最後に出会ったのは20年も前のことです。何やら孫ができたとかで喜んでおりましたが」


 ヒロトはオロフの住民なら全員知っている。だからマストーの知り合いだという人物も分かるはずだ。ヒロトはこんな渋い老人の旧友とは一体誰だろうと思ったが触れないことにした。それよりも先にやるべきことがある。


 「マスター、この辺りですぐ働けるよい仕事はありますか」


 マスターはヒロトの状況をすぐに察したようだ。


 「もしや、食い扶持に困ってらっしゃのですかな」


 唸りながらキリリとした眉をひそめる。そして、


 「それなら一時的にここで雇って差し上げましょう。その間私が仕事を斡旋し正式な職を決めるというのはどうですかな」


 「斡旋もしていただけるのですか。」


 マスターの提案はヒロトにとってこれ以上の望めないほどの厚遇だった。これに乗らない手は無い。


 「ではご厚意にあまえさせていただきます」


 ヒロトは手を差し出してマスターにお礼を言う。マスターは微笑んで握手に応じると、


 「では、飲んだコーヒーを持ってついてきなさい」


 「まずはコーヒーの入れ方からみっちり教えて差し上げましょうぞ」


 そういってにっこり笑った。

ヒロトはマスターの身に纏う空気が豹変したのを肌で感じる。


 「お、お手柔らかにお願いします」


 咄嗟に予防線を張ったヒロトだったが、先行くマスターはひらひらと手を振るだけだった。

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