第6話 図書館の本
図書館で借りた本をなくしてしまうという大失態を僕は犯したことがある。最後に鞄に入れていたものであることは間違いないのだけれど、読み終わっていないその本が失せてしまったのだ。
部屋のどこにも見当たらないし、職場にもない。ひょっとして電車の中に置き忘れたのだろうか。まるっきり覚えていないのが始末に悪い。
どうしよう。弁償すれば許してもらえるのだろうか──そしてそれは、本に付いている定価でいいんだろうか。それに加えて、何らかの罰則金を取られるのだろうか。何しろ、公共施設である図書館の本をなくしてしまったのだ。
子供が破いちゃいましたとか、コーヒーをこぼしちゃいましたとかはありそうだけど、きれいさっぱり失くすなんて、これほどまでに間抜けなことをした人の話など聞いたことがない。
苦悩する僕の頭に、ひとりの女性が浮かんだ。肩を撫でるストレートヘアに、瓜実顔によく似あうオーバルの眼鏡をかけた物腰の柔らかなひと。そうだ、あの人に相談してみよう。それはまるで女神の降臨のように、眩しく輝いて見えた。
もちろん個人的な会話などしたことはないのだけれど、親身になってくれそうな雰囲気を
僕は他の借りた本を手提げのビニール袋に入れて、恐る恐る図書館に向かった。そのひとがいますようにと願いながら。
図書館に着き奥に歩いていくと、カウンターにそのひとの姿が見えた。おじさんに対応中のようだ。いてよかった。いなかったら引き返すつもりだった僕は、ほっと胸を撫でおろした。
棚の本を手に取りチラチラと確認しながらそのひとの手が空くのを待った。開いた本の文字など、もちろんアリの行列だった。
そんなときに限って、なかなか手が空かない。そのひとと一瞬目が合ってしまって、それが
それにしてもおじさん長い。彼女が人のいいことに付け込んで話を長引かせてるんじゃないのか。それとも世間話でもしてるんじゃないのか。また今度にしようかな。僕の弱気の虫が見事なへっぴり腰で後ずさる。
いや、せっかくここまで来たんだから、と己を
いや、ダメだ。嫌なことは後回しにしてはいけないって誰かが言ってた。
ほら、手が空いたぞ。今だ、行け! 勇気だ!
あ、だめだ……。こんどは違うおじさんが彼女をめがけて歩いていく。明らかにこっちの方が遠い。僕は負けたのだ。
とそのとき、指先を揃えた右手がサッと僕に向いた。それは、胸を張った彼女が、あなたが先です、と高らかに宣言したかのように見えた。こちらに視線を向けたおじさんは驚いたように立ち止り、
「あの……すみません」貸出カードをそっと差し出した。
丸みを帯びたセルフレームの眼鏡が彼女を知的に見せていたけれど、全体的にふわっと柔らかい印象を与える人だった。だけれども、おじさんの視線を浴びているような気配を背中に感じて落ち着かない。
「はい。ご返却ですね」眼鏡の真ん中をちょっと押し上げた。そんな彼女は堂々としている。
「ええ、そうなんですが……見つからないんです」
「はい?」彼女は小首を傾げた。
「一冊だけ失くしてしまったようなんです」
「あ、そうなんですか」そのひとは驚きもせず、ふんふんと頷いた。
僕はどんな反応が返ってくるのか分からず怯えていたから、少しほっとした。やっぱりこのひとでよかった。
「探してみましょうか」
「はい? どこを──ですか? 僕の部屋を、ですか?」自分に向けた人差し指に鼻を寄せた。
怪訝そうに頭を
「まさかぁ」まるで五十がらみのおばさんみたいに肩口で手のひらを振った。いやだん。それは、ものすごくキレのいい変化球が飛んできそうなスナップだった。
ナイスボールです。
はい?
いえ……
「勘違いをして、もう返しているのかもしれませんから、探してみましょうか?」
「図書館をですか?」
「ええ」
「いえ、それはありえません」
「うーん……ですよねぇ」そのひとがクッと笑った。
「おじいちゃんでもあるまいしねぇ」と声を潜めて、ひとり嬉しそうに身をよじった。ばあさん飯はまだか。おじいさんさっき食べたでしょ。ぷぷっと、こんどはもっと身をよじった。こんなひとだったのか……それが美玖だった。
ひょっとしてこれは、まじめそうに見える彼女の
僕はしくじった。
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