現石(ゲンセキ) WEB Edit

ひざのうらはやお/新津意次

Heavenly Hell ――アクワマリン

 僕は何にでもなれるはずだった。

 君を救えるはずだった。

 尾鰭があぶくに消えて、鱗が嘘のように剥がれ落ちて、それでも真珠のような肌と、どんな海藻よりもしなやかな黒髪は揺蕩う水に眩しく映っていた。



 世界はどうにでもなると、ずっと思っていた。


 思っていた。


 ただ、そう、思っていた。



 身体が、重い。

 随分と長い間、眠ってしまっていたようだ。小さなベッドと簡素な枕に横たわっている腕は、遠すぎて朧げになった記憶よりも細い。

「気が、つかれましたか」

 山間の都市に佇む教会の尖塔、その天辺の鐘だと思った。黒く染められた女の服が、それを掻き立てたのかもしれない。

 声を出そうとして、出し方が分からないことに気づいた。

 そもそも、僕は一体何者だったのだろう。ここで眠っている前の出来事が全く思い出せなかった。

「長いこと、眠っておられましたから」

 女は振り返って僕を見つめる。


 どきり、と心臓が高鳴った。


 理由はない。

 思い出せない。

 けれど、僕は確かに憶えている。


 女は若いように見えた。透き通るような輝く白い肌は修道服の隙間からちらりと覗いたし、もったりとした一重まぶたは優しく蠱惑的な視線を投げかけた。薄い唇は慎ましやかに結ばれ、口元の黒子に視線が吸い寄せられそうだった。豊満とはほど遠い、痩せてすらりとした身体はその境遇を指し示すのに十分だった。けれども僕はそこに官能を読みとった。

 きっと飢えているだけなのだ。

「近くの海岸に、打ち上げられていたのです」

 彼女は滔々と語り始めた。

 僕は海岸に打ち上げられていたところを彼女によって助け出され、ここで永い間、眠っていたようだ。その間、彼女にどのように介抱されていたのかは訊かなかったけれど、相当な根気を必要としただろう。僕は感謝した。けれど深く頷くことしかできない。ベッドから出ようにも、足すら思うように動かない。

「生きているのが奇跡なのだと思います。あまり、気を急かさないよう」

 彼女はそう言って、部屋から出ていった。

 僕は窓から外の景色を眺めた。

 空は灰色に曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。海は大きく波立ち、底が見えないような黒に染まっている。

 海から打ち揚げられたのだとしたら、僕は何をしていたのだろうか。船乗りだったのだろうか。それにしては、余りにも身体が細いような気がした。

 他に何もできないので、もう一度眠ることにした。


 判っています。

 貴男はわたしを救おうとしていた。

 けれど、わたしはそれを拒みました。

 そして、救いはついに、届かなかったのです。

 拒んだのは、わたしなのですから。


 辺りが騒がしくなって、目を覚ました。

 嵐が来た。

 空は黒く歪み、高波が浜辺に打ち付けられる。修道院もがたがたと鳴る。この世の終わりというには少しばかり大袈裟な音が、建物のあらゆる部分から鳴っている。

 ぎ、と扉が軋み、彼女が中に入ってきた。

「少しだけ、ここに居させてください」

 懇願する彼女に答える言葉を持てなかったが、彼女は僕が起き上がっていたことに気づき、悲しそうな表情を和らげた。

 僕らだけが、静寂を保っていた。

 僕は不思議と柔らかな気持ちになって、目を閉じた。


 あれは物語の中の話だと思っていた。

 いや、僕は確かに、物語の中に居たはずだった。八本の足に据えられた吸盤で、どんな物も掴むことができた。

 総ては予定調和に展開されていて、君は泡となって消える運命だった。

 僕はその力さえあれば君を救えるのだと思った。自分の存在すら消えるほどの魔力で、君を世界の中に、留めて置けると思っていた。

 確かに思っていた。


 筈だった。


 筈だったのに。


 君は予定調和を選んだ。


 それは拒絶だった。


 明確な拒絶だった。


 君の拒絶は僕を重く縛った。


 そうだ、最初から僕は、いるべき存在ではなかった。

 僕は、僕が僕であることを呪った。



 凪が来た。まだ暗い水面は鏡のように平たく、水を打ったように静かな夜明けだ。視界の端が僅かだけ明るい。円いちいさな月が、海の端に沈もうとしていた。僕はどれくらい眠っていたのか、もう判らなかった。

 ほんのりと暖かい。

 女が横で眠っていた。

 驚きはしなかった。拾い上げた正体不明の僕を介抱し続ける理由が、贖罪か、孤独に耐えかねたのか、もしくはその両方なのは明らかだった。

 女はどこか疲れているように見えた。信仰を超えた感情を読みとろうとして、けれどそれは何かを裏切るような気がしてやめた。

 柔らかな呼吸と、薄い布から伝わってくる体温と、湿った綿のような重さ。

 きっと目が合ってしまったら、何もかもが壊れてしまうだろう。根拠もなく僕はそう思った。自分のことが許せていないから、せめてもの償いのために僕を介抱しているのだとしたら、そうでなかったことに耐えられないはずだ。

 僕は徐々に何かを思い出し始めていた。


 海の底。


 果てなく続く群青と、容赦なく冷えた水に覆われた世界。切り立った崖に挟まれた、光すらまともに届かないところを思い出した。僕が過ごしていた場所だろう。

 魚たちのことばを聞くような仕事だったのかもしれない。かれらはひっきりなしに僕のもとを訪ねていたようだった。


 女のからだが僕を押さえつけた。


 たすけて。

 その声を聞いたような、気がした。

 景色が、ゆがみ、壊れて消えた。


 天の奥まで見通せるほどの蒼穹だった。そこに雲はなく、海すらもあおく澄み渡っていた。視界の総てを青に奪われながら、僕はただ、女が首に提げている宝石を見つめる。華奢で清楚な彼女を写し取るように、空のあおを薄く湛えて、放さなかった。

「記憶を、取り戻しましたか」

 女の表情は決然と、しかし安らかであった。地にこぼれた覆水のように、戻らない日々を思わせる何かがあった。

 声は出なかった。

 宝石。

 その石は、海水を湛えていると聞いたことがある。

 そう、僕は、石の中に封じられていた。

「わたしは、貴男がここに封じられた、その発端になった者です。貴男を頼り、水底の闇の力を浴び、年を重ねることができなくなりました」

 彼女は語る。

 僕は海溝の底、闇の中に住む邪神だった。人魚であった彼女は、ひとめ惚れした人間の王子と結ばれようと、人間の足を手に入れるために僕の力を利用した。しかし、彼女は王子の愛まで手に入れることはできず、またその力の代償として、老いることなく悠久の時を生きることになってしまった。同じくして、僕はその石の中に封じられた。海の神が、彼女と同等の罰を僕に下したのだという。


 僕は総てを思い出していた。


 彼女は知らない。


 力を与えた僕が、彼女に恋していたことを。

 彼女を傷つけないためにできる限りのことをして、彼女の命を救ったために、あの世界すべてを捧げたことを。


 そうして歪めていった理を、僕と彼女は等しく受けた。

「このようなお願いは、残酷だと思います。ですが、わたしの願いをもう一度、聞いていただけますか?」

 それは、僕への罰の宣告だった。

 彼女へ与えた傷に対する、明確な報い。

 頷くこと以外に、意思を表明することはもはや不可能だった。

「ここで、貴男を解き放ってもいいですか?」

 宝石は淡く光を帯びた。

「貴男を解き放てば、その仮初かりそめの身体は亡くなり、この地は総て海に沈みます。そうすれば、わたしも総てから解き放たれる」

 ようやく気がついた。

 彼女は、生きることに疲れていたのだ。無限の生を与えられ、死んでいく人々を愛すこともできず、世界の果てで関わりを絶って、それでもなお生き続けていくことの壮絶さを僕は知らない。言葉にすることすらできないだろうという想像があった。

 やはり僕は、頷くことしかできなかった。

 宝石は強い光を放ち、表面に細かく罅が入っていったかと思うと、粉々に砕け散った。

 遠い、海鳴りが聞こえた。

 僕らの周りが碧で満たされていく。

 彼女は僕を抱きしめた。


 最初から、こうすればよかった。


 身体が徐々にほどけていくような感覚がある。僕は海に溶けていき、彼女を優しく包み込んだ。

 最後の記憶がよみがえった。ここにはもう、僕と彼女しかいなかった。

 僕が、死の間際に作り出した、最後の地獄。

 それがこの海の正体だった。

 海と重なった僕は消えゆく彼女を再び失おうとしていた。


 最後の罰が執行され、僕はすべてを失った。

 遙かなる蒼をたたえたアクワマリンだけが、その世界にただ一つ、残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る