革命の騎行
「天一号……か」
くしゃり、と電報を丸め握る。
『敷島』の発した電報は、大出力無線機を擁する"桜花"にも届いていた。
「僕たちも急がなきゃな」
ウスリースクを出た中央即応集団はハルビンを目指して一路西へ、沿海州から満州へと向かっていた。
「裲、まだ見つかってないのか?」
「だめね。直掩航空隊を西方に展開してるんだけど、どこにもいないの」
「痕跡すらも?」
「ええ」
西の空を睨んで、眉を顰める。
「……あり得ない。敵司令部は絶対に満州方面に逃げたはずなのに」
今度こそは敵の頭脳を叩き潰さなきゃいけないのに、それがどこにもいないのだ。
「これだけ探しても消息一つ掴めないなんておかしいわよ。ほんとに満州に逃げたの?」
「だってそれ以外考えられないだろ」
何度目かわからないが、とうにくしゃくしゃになった地図をまた開いた。
「戦争の兵站は鉄道なんだ。ウスリースクから繋がる鉄道は3本しかないのに、1本は朝鮮直行でそんなとこに逃げたら皇國に包囲されるし、1本は未完成で
極東地域の路線図をなんども凝視したが、極東軍将校たちが退却して立て直しを狙うなら、東清鉄道で満州方面へ退却する他ないのだ。
「ふーん。鉄道が絶対とも限らないんじゃない?」
それは違う、と反論しようとした矢先、彼女は続けて口を開いた。
「あ、そうだ。ロシアの極東のほうでソヴィエトが勢力を伸長させてるらしいわよ」
従来、クリミアの帝国臨時政府に帰順していたシベリアは、辺境の地域からソヴィエトに寝返りつつあるようだった。
「できるなら彼らと手を組んでロシア極東軍を挟み撃てればいいんだけどな」
まぁそれをやる余力がないので、より勝利へのコスパが現実的な敵司令部将校の捕縛を狙って、死にものぐるいで探しているわけだが。
「とにかく極東ロシアの赤化が進んでるってことは、ますます極東軍将校団は満州に逃れるしかない」
帝国臨時政府に帰順する、それも貴族ばかりの将校たちは赤軍の目の敵だ。
「どこにいるんだ……?」
また路線図とにらめっこ。前世でも同じようなことをちょくちょくやってたが、あの頃と違って、今度は全く楽しくない。
「総長さぁんっ、報告だよぉー!」
晩生内が駆け込んでくる。
「どうした」
「故障して引き返してきた飛行船なんだけどっ、その故障でたまたまハンカ湖北岸のほうを飛んじゃって」
彼女の息は少し上がっていた。
「その時に、野営の跡? みたいのを見つけたみたい。それがこれ……」
上空から見た様を軽く模写したらしい、鉛筆でさっと描かれた一枚の見取り図を渡された。
「これは……」
極東軍将校団のかもしれないという淡い期待が脳裏を掠めるが、野営程度では、証拠と言うには拙かろう。ただのロシア軍の敗残兵かもしれないし、ともすれば地元猟師のかもしれない。
その紙切れを眺めながら、これじゃぁ特定できんなぁと返そうとしたとき――僕は、目を見張った。
「なんだ、これ」
いくつかの
「
「多分これ、通信機の置かれた跡だ。それも兵卒が持ち運ぶようなものじゃない……出力のある、それこそ将校級じゃないと」
これ見つけたのどこだったっけ、と僕は晩生内に聞く。
「総長さん白夜の話聞いてたぁー??」
むー、と頬をふくらませる晩生内。
「ハンカ湖北岸だよっ」
「ハンカ湖の……北??」
西の方角じゃない。
僕たちが探していたのとは全く違う方面。
「……っ、なんでだ!?」
大焦りで路線図を引っ張り出す。
「ウスリースク北方? なわけ、だって鉄道が未成で
ロシア本土とは繋がっていない。それに、そこは赤軍が浸透しつつある極東ロシアだ。
「アムール川の上流ってどこだったかしら?」
道端の草の葉をつんつんしながら、裲が聞いてくる。
「上流?」
そう言われると知らないので、普通の地図を取り出して確かめる。
「チタ……シベリア鉄道の駅がある街だな」
アムール川?
まさか、前も否定したがあの川は、北海道に流れ着く流氷の大元となっているくらいには長く凍るのだ――ふと、裲の姿が目に留まる。
彼女につつかれて、一枚の葉から露が零れた。
露。雫。雪が滴る。水滴。
「ぁ……」
そして季節は5月末。
「そうだ…。なぜ、なぜ気づかなかった…!」
裲の言う通りだったかもしれない。
路線図しか見ていなかった。
「不味い、敵は北へ逃げた!!」
飛び上がるように叫ぶ。
突然の僕の奇声に、静まり返る桜花司令部。
「上流での雪解け水がウラジオストクへ流れ込んだってことは、もう
ウラジヴォストーク攻防戦の勝敗を決した、下水道の濁流を思い返す。もうあのとき、とうにアムール川は解けていたのか。
「……違うよっ、総長さん」
「分水嶺が違うの!」
「というと?」
「ウラジオストクは
訴えかける彼女の琥珀眼に、焦燥しきった自分の姿を認める。
コン、と頭を小突かれた。
「藜、慌てすぎよ」
戦闘詳報を片手に、裲花が立っていた。
「でも、もう5月末。シベリアとはいえ、平年ならもう雪解けの頃だ」
ウラジオストクの濁流も先月初めのことであることを鑑みれば、晩生内の言葉を踏まえてもなお、黒龍江はすでに使える状態であろう。
「だとすれば…北に逃げて、
「……黒龍江の河川交通が、補給線に、なる」
戦務参謀の雨煙別が、ぽつりと呟いた。
黒龍江の遡行上限――つまり河口から船が遡れる限界――は東シベリアのチタに達する。ここにはシベリア鉄道の駅がある。物資をモスクワからシベリア鉄道で、チタで船に積み替えてハバロフスクまで運ぶ。これなら問題なく補給が機能する。
「むしろ…前よりも、安全な補給線、かもしれない」
「どういうことだ、雨煙別?」
「東清鉄道と違って、飛行船の……射程外です」
「っ!」
息を呑む。そうだ。満州の外縁を流れる黒龍江は航空隊の航続距離外。
敵の補給を先細りにさせることもできなくなる。
「満州で不利なら…有利なシベリア奥地まで僕らを引きずり込む算段か」
「いかにもロシアらしいわね」
ふん、と鼻を鳴らして外を見る裲花。
少し高めのその鼻は、寒さからか赤くなっている。
「……敵はハバロフスクで抗戦するつもりなのか?」
黒龍江が満州から出た松花江と合流するハバロフスク盆地。
地図を睨めつければ、横から晩生内の声が落ちる。
「順当に考えれば、そうなんじゃないかなぁ…?」
「しかし、にわかには信じがたい」
浸透戦術による戦線崩壊で、急速に北上する西部戦線。混乱する十万の兵員を、はるばるハバロフスクまで十分な兵員を撤退させられる時間はない。その前に大山巌大将の率いる満州総軍が先回りして退路を断ってしまうだろう。
いくら将校団がいても兵士がいなければ、軍隊にはならないのだ。
つかつかと、向こうから軍靴の音が近づく。
「総長。全部繋がりましたよ」
半笑いしたその表情。
ペラペラと一枚の紙切れをひらつかせて、戻ってくるのは石原莞爾。
「ハバロフスクには既に膨大な戦力がいるらしいです」
「……は? 何を言う、ロシア軍は全部満州まで出っ張らってるだろ。
シベリア奥地に退却する時間もなければ、シベリアに予備戦力もいないはずだ。
ロシアお得意の後退戦術が使えないように、満州に引きずり込んで、浸透戦術で退路は全て断ったはずだ。そう仕向けた。この戦争は、そう作り上げたはずだった。
「そうでしょうね。ロシア軍じゃありませんから」
言葉が止まった。
どういうことだ。
「相手は――ハバロフスクに立て籠もった、飢える民衆です」
「はぁ?」
「ウラジオストクからの避難民30万ですよ。ソヴィエトとやらを組織して、防衛を名目に動員を布告しています」
「しょうもねぇ」
石原の言葉を突っぱねる。
「それがどうしたというんだ」
日差しは少し暖かい。
「民衆がいくら群れても、指揮官がいなければただの暴徒。統率の取れない群衆程度、我々の脅威になど……」
「指揮官がいなければ、ですね」
なお石原莞爾は不敵に、ともすればどこか悲痛な風に笑う。
そして――漸く僕も気づく。
「っ……!」
ウスリースクからハバロフスクへ退却するクロパトキン以下、極東軍司令部。
歴戦の司令部将校団。
彼らが目指す先には――30万の暴徒。
武器を持って立ち上がった準兵士。革命軍であるから士気も高い。統率がとれていないのが最悪の欠点だが、もし将校団が合流してしまえば。
皇國に対し、たちまち脅威のゲリラ戦力になる。
「っ、馬鹿な! あいつら極東軍は帝政ロシア側で革命勢力じゃないはずだろ!」
でも、仮にも帝政軍の将校が、内戦相手の赤軍に合流するわけがない――そんな僕の反論にも、石原莞爾は頷かない。
「でも、ロシア人です」
「……そうね。彼らもロシア人だったわね」
やれやれ、と白い吐息をつく裲花。
「ねぇ、藜。なんでこんな簡単なこと、あたしたち気づかなかったのかしら」
「……どういうことだよ」
「ロシアで起こってるのは、帝政に対する国民の革命よ。相手はもう帝政軍じゃなくて、国民軍なのよ」
彼女の言葉を継いで、石原莞爾が僕へ言う。
「確かに、帝国臨時政府と
息が止まった。
裲花の声が続く。
「状況は、もう市民革命なのよ。国民軍として…国民として、極東軍の将校たちは皇國に向き合おうとしているの」
フランス革命のとき、侵入してきたオーストリア軍に対し、王党派も革命派も垣根を超えて
「極東軍将校団は、ロシア人としての義務を果たそうとしているのか…!?」
確かに、皇國にはもう継戦能力がない。
ロシア帝国――いや、ロシア人にとっては、西部戦線でいくら押されようと、そこで皇國が力尽きてしまえばもはや関係ない。
ならば、少しでも長く持久する。暴徒だろうと使える戦力は全て活かして、耐えて、なんとか引き分けまで持ち込む。無併合、無賠償というラインまで食い下がる。
国民国家としてのロシアの領域を、1センチメートルたりとも譲らないために。
「――まずい」
そのために、合流を試みているのならば。
止めなければならない。今すぐ。
暴徒が革命軍にならないうちに。
時間はもう皇國の味方じゃないのだから。
「叩き潰すぞ」
確かな声で、一言。
「発令中の大陸再打通『一号』は無期限中止。総長命令により作戦を変更する」
石原も、晩生内も、雨煙別も、そして裲花も、ざっと居直った。
「総員直ちに出撃準備。進路を北へ!」
「「「はッ!!」」」
――――――――
電信機の前で硬直していた。
「……本官の話を聞いていらっしゃいましたか?」
『えぇ。その上でお伝えしています』
黒田清隆の声が、巨大な大出力無線機を揺るがす。
『東京大本営は、作戦からの一切の逸脱を許さない』
拳を握りしめる。
「…なぜですか」
『東部戦線の将兵は、ウラジオストクでほとんどが降伏したのでしょう?』
「はい」
『なら残る戦線は西部戦線――それは満州にあって、敵の本陣はハルビンにある』
息を継いで、黒田は言った。
『満州への入口にあたるウスリースクにいながら、前線へ突入せず、北方アムール川へ迂回しようとするのは、戦闘義務の放棄にあたります』
その冷徹な声は、ノイズだらけなのに、透き通るように耳に刺さる。
「迂回ではなく…追撃ですよ」
『たった数人の将校のために、数万の包囲の機会を逃すのですか?』
「っ、何度も言いますが!」
僕は語気を強める。
「ハバロフスクが今のように、武器を持った民衆程度ならば問題ありません。対応は容易です。頭のない集団ほど、容易くパニックに陥りやすいものはない。けれど」
短く息を吸う。
「将校団に統率されると話は変わってしまいます。ほとんど火器を持たない民兵でさえ、率いる者が優秀であれば、場合によっては1ヶ月…あるいは以上」
今度はこちらが市街地に攻め入る側になるのだ、ゲリラ相手じゃ苦戦は免れまい。
普仏戦争のパリコミューンは二週間もち堪えたのだ。ハバロフスクで同様の抵抗を展開されたとして――いまの皇國に、あと二週間を戦う余力はない。
『取るに足りませんね。そもそも、ロシアは内戦中ですらあります。そんななか皇國へ仕向ける戦力が、あると言うのですか?』
一旦言葉を切ると、笑ったふうに彼は続けた。
『そもそも……このように仕向けるために、こちらは内乱工作を仕掛けたのです』
「ッ、それが原因でしょうに!」
たまらず机を叩く。
「革命を起こせば、ロシアは挫折して、戦争は終結するとでも?」
『ドイツも、オーストリアもそうです。革命で戦争を継続できた国がどこにありますか?』
皇國枢密院は、敵にトドメを刺したつもりだったのか。
"これで敵の戦争継続は不可能だ!"――脳裏に反響する歓声。あぁ、そうだ。僕も、錯覚した一人だったな。
「確かにドイツは…第一次大戦のドイツ帝国は、そうだったかもしれません」
『でしょう?』
「1789年7月14日。ご存知でしょう、パリが燃えた日は」
革命と敗戦の間に、等号は成り立たない。
史実もそうだったはずだ。フランス革命がその最たる例だろう――革命に干渉しようと迫る『侵略者』の前には、革命軍の士気は跳ね上がる。
「あなたがたの"史実"はどうしていつも、一辺倒なのですか」
『我々は現代に生きています。フランス革命時代に生きているのではありません』
「それが革命イコール敗戦の方程式を証明してくれるんですか?」
第一次大戦とて、史実のうちの一部分に過ぎなかろうに。
「皇國の戦争継続能力は1週間を切っています。動員の疲弊で厭戦感情が蔓延る内地とは対照的に……ソヴィエトロシアでは逆に愛国意識が高まりを見せている」
『……厭戦感情、ですか』
「ここで作戦を堅持して西へ進み、包囲を完成させたところで、将校団を得て自信を漲らせた30万の暴徒改め、労農赤軍が、ハバロフスクに居座り皇國に対峙する羽目になります」
黒田清隆とて、少なくともその可能性は否めまい。
そうなれば戦力の尽きた皇國は、白紙和平を呑まざるを得ないのだ。
この手中にあったはずの勝利は零れ落ちて、すべてが泡沫と消える。
「将校を、頭脳を潰すべきです。ウラジオストクで多数の将校を失ったロシア軍は、各戦線において昨年より明らかに指揮系統が弱体化しています」
『弱体化?』
「そもそもロシア軍の脆弱性は根本的なその指揮構造にあります。マトモな将校がいないロシア相手なら、フィンランドでも勝てる」
反面、熟練の将校を携えて奥地に手招くロシア相手には、ナポレオンも、ヒトラーも勝つことが出来ない。
「兵士は簡単に
『敵兵数万を包囲できる機会を潰してまで、やる価値があると言えますか?』
「ロシアは広く、皇國の2倍以上の人口を誇ります。動員兵力に至っては10倍以上――兵士の削り合いでは埒が明かないのは、わかりきっていたことです」
『……そうですか』
どこか落胆したように、黒田清隆は言った。
観念したか。そう信じて、僕は畳みかける。
「刻一刻、この手のうちにあった勝利が零れてゆきます。どうか、ご決断を」
もう、一秒さえ無駄に出来ない。
そんな僕を焦らす、長い長い吐息が電話線の先に響く。
黒田清隆は、ゆっくりと呟いた。
『もう少し、賢明であってほしかったものですが』
刹那。
「しれいかぁんっ!!」
通信室に晩生内の声が響く。
いつもの溌溂とした口調とは全く違う、切羽詰まった声だった。
「伊地知大将から、緊急だよぉっ!」
「っ。代われ」
黒田との電話を放置して、その受話器を取る。
「どうましたか」
『……あぁ、初冠か』
伊地知の声は諦念とも、安堵ともつかない。
ただ、疲れ果てたものだった。
『申し訳ない、やられた』
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