出征
明治37(1904)年11月 妥協本部・2階テラス
「ドォーイッチュラント、ドォイッチュラント!ウーヴァーアーレス、ウーヴァーアーレス!インデアウェルッ!!」
「なんでドイツ国歌なのよ……」
胸に手を当てて第二帝国の国歌を斉唱する僕、隣で困惑する裲。
「フゥー…っ」
伊地知がデッキの椅子に腰掛けて、帝都郊外の夕焼け空に重い煙を吐き出し、
「うおおおおおおお!!!」
その脇を秋山が駆け抜ける。
そこにはいつもとなんら変わりない、
「ぬがぁぁぁ!ぶこぉぉおおピー!」
「なにやってるんですか少将閣下、多動?」
「多動じゃねぇよ」
彼は立ち止まって青い顔を見せる。
「だ、だだ大事な資料が海軍から消えたんだ。朝から海軍省総出で真っ青でな。居ても立っても居られない訳だ」
「それって第一級機密なのかしら?」
「いやそういうわけではないんだが…、海軍としては持ち出されると非常に非常に困る資料で――」
「資料で?」
「………」
「少将?」
秋山が珍しく沈黙を貫くので、何事かと僕は振り返る。
彼は硬直して、ある一点を見つめていた。
彼の眼の焦点が捉える方向へと視線を持っていく。
「お茶が入りましたわ。」
ティーポットと、何か『海軍将校公費用途/軍外持出厳禁』と記された資料を片手に、令嬢殿下が現れた。
「…の前に。まず、秋山様?これは一体なんですの?」
「ちょ、おま、なぜ
「将校公費。内訳…高級煙草、25年モノのワイン、吉原、賭博、負け金の配当…。随分国税をご贅沢に浪費されていらっしゃってねぇ?」
「待て!賭博と負け金はともかく吉原は俺じゃない!」
「…はぁ、賭博と負け金も否定して欲しかったのですけれど…。」
ポットをテラスの机に置きつつ令嬢殿下が続ける。
「来年から将校公費は半減ですわね」
「やめろぉ!俺が、いや俺より海軍軍令部の将官がたが死んでしまう!俺の上官が廃人になったら俺はどこに転職すればいいんだ!」
「転職前提で動かないでくださいまし」
「職業凱旋所に行ってどっかの工場労働者になって毎日メーデーか、悪くない」
「貴方が凱旋されるのは病院ですわよ?」
「医師か」
「患者でしてよ」
令嬢殿下が溜息をつきつつ、各々のティーカップに茶を淹れてゆく。
「あッ!そうだ!それ省外持出禁止の資料だぞ!不法に持ち出しやがって、返せ!」
「むしろ大蔵省の諜報部隊ごときに突破されてしまう海軍省の低すぎるセキリュティ意識を恥じてほしいですわ」
「いやお前ら子飼いの諜報部隊の実力がおかしいんだろう、これまで大英、フランセーヌ、独帝のスパイを吊し上げてきた皇軍統合防諜部だぞ、低いわけが」
「そりゃ白人のスパイなんて目立ちますし捕まえるのなど苦もなくってよ?」
「……なるほど確かに」
不味い、われらが皇國陸海軍の統合防諜部の防諜意識の低さが露呈してしまった。
戦後には速やかに是正せねば…。
「いや待て話が逸らされた!なんとしてでも姫様から機密資料を取り返さねば…!」
「やってみれるのでしたら、ね」
令嬢殿下はテラスに備え付けてあった、現代の飲食チェーンによくある店員呼び出しボタンみたいなアレをカチリと押した。
ピーンポーン!
「もろ店員呼出ボタンじゃねぇか」
「肝心の店員が召喚されなければ問題はない…!返してもらうz」
「お呼びでしょうか殿下ァ!?」
バタン、と扉を乱暴に開けて建屋の中から清楚な男が飛び出してくる。
「高橋、これを大蔵省に」
「了解です!」
令嬢殿下が例の資料を彼にぶん投げた。
「あ、殿下!犬養毅総動員本部次長が殿下にお会いしたいと…」
「あすに回してくださいまし。午後は先約がありましてよ」
「承りました!」
殿下が丁重に断ると、高橋と呼ばれた男は駆け出そうとする。
断末魔を上げながら手をのばす秋山を横に、僕はどこか彼の顔と高橋という名前に既視感を覚える。
どこか――、そうだ、人物伝で見たような。
「待ってください!」
「はい?」
「――…君の、名前は?」
ばっ、と異空間が広がった気がした。
秋山が都会に住む普通の男子高校生、僕が田舎の糸○町に暮らす普通の男子高校生。
眩いばかりの太陽が差し込んで、例の主題歌が場を震わせる。
「高橋、是清。」
「……ッ!」
デュルルルルル⤴ル↑ル↓♪ル〜ルル↘ルルル↓ル↑ル〜↓♫
「やっとぉー、ゲボ、かましたかァい〜」
「秋山少将、歌詞間違えてますよ」
はいぶち壊し。
「見たこと無いし知らねぇよ!あとネタもう古い」
「古くありませんよ、むしろ100年以上先の映画ですから」
「100…、年?」
「あぁいやいやなんでもありません高橋蔵相!」
「蔵、相?私が??」
「あ、いや…その……」
「高橋、お行きなさい」
「ッ!すみません殿下!失礼いたしました!」
高橋是清は廊下の先に消えていく。
「お気をつけなさいまし」
「……すみません」
僕は押し黙った。
「そ、それより!高橋是清って、あの高橋是清ですか!?」
「当たり前ですわよ?それ以外誰が大蔵省にいらして?」
「マジすか…。殿下、人望凄いっすね」
「それに桂園両首相にも声かけられてるなんてモテモテじゃない」
「……勘違いなさらないで?」
裲にそう言われた殿下はぷいと横を向く。
「南長江鉄道もナトゥナ併合も、省内ではわたくしの功績でしてよ。名が知れるのは当然ですわ?」
ふんっ、と自慢気に鼻息をつく令嬢殿下。
なるほどそれで現役首相にさえ意見を求められるようにさえなっているのか。
「皇國政界でも、その膨大な功績から鉄血宰相になぞらえて『
「中将閣下、海軍省でも"霞ヶ関の悪魔"として有名ですよ」
「くくっ、不敬な。仮にも皇女殿下だぞ、少将。」
ぶははっ、と秋山が笑う。
ふふふっ、と殿下は笑顔を崩さぬまま秋山のティーカップにドパリと茶葉をそのまま開けた。
ひぃ、と秋山が震え上がる。
ふふふっ、と殿下は変わらず笑い続ける。
すっ、と秋山がひれ伏す。
なるほど、これが超えられない権力の差か。
「ま、茶番はここまでと致しまして。
高橋是清には井上準之助とともにわたくしの両腕兼懐刀となって頂いておりましてよ。あいにく来年には吉田茂も取り込ませていただきますわ。」
「はぁ!?才人根こそぎ大蔵省に持ってく気か!!」
「優秀な人材は片っ端から最前線でこき使って、練度を上げていくのがわたくしのやり方ですの。」
「クソ…俺も後継育成せにゃならんな…。鈴木貫太郎はもう水雷戦隊任せられるには育ったし、とりあえず今期任官の高野五十六と嶋田繁太郎を…」
「随分と評価が雲泥の二人を持ってきますね…」
「史実有能かどうかで判断したらそれこそ枢密だ、とりあえず有名所は使い倒して戦訓を…、いや死なれても困るしなぁ…!」
「その点殿下の後継育成って効率的よね…。最前線は砲弾が飛び交うわけじゃないから少なくとも過労以外で死ぬことはないし」
「ふふ、勤務管理には気をつけていますわ」
令嬢殿下はティーカップに口づけつつ笑う。高橋さんたち大丈夫かなぁ…。
僕らも少しづつお茶を頂き始める。
「いやしかし、貴官のところも居るじゃないか少佐」
「へ?誰がですか、中将閣下」
「確か第1装甲中隊の第2小隊に小隊長として山下奉文少尉が、第2装甲中隊第4小隊には東條英機少尉が、両人とも士官学校卒業直後に任官されて
「はぁ!?え、マジですか!!?」
初耳なんだが。
「まぁ枢密の意向も働いたんじゃないか?戦闘団にはのちの『戦犯』とやらが数多くいるようだがな」
「うわぁ…すげぇ人事だったんですね。直接指揮は本部中隊だけでしたので全然見てなかった…。向こう着いたら戦力再配置ついでに見直さねば」
意外に有望な、そして無謀な人材がたくさん揃っているのかもしれない。
ティーカップを傾け、一息つく。
戦時中とは信じられないほどに穏やかな、夕刻のひとときだった。
おもむろに裲が、ふぅ、と白い息をつく。
「やっぱり、殿下の淹れる御茶は美味しいわね」
「同意だ。裂号作戦中の妥協本部勤務で長らく世話になってるが、一度も味落ちしたことがない」
「あー、いいなぁ好待遇。こちとら毎日井戸水水筒なのに」
「ふふん、淹茶も淑女の嗜みですわ。」
満足気に胸を張る殿下はどこか微笑ましく。
「……ふぅ、定刻ですわね。」
その言葉を聞いた時、随分と時間を忘れていたことにやっと気づいた。
「上をご覧くださいまし」
令嬢殿下がおもむろに指をさしつつ、空を仰いだ。
「「……???」」
皆が訝しげに直上を見上げると、そこには一つの鳥影が――
「…いいや、違う?」
鳥ではない。
随分と直線状の、二重構造の翼を持っている。
それをピクリともバタつかせず、代わりになにかが前の方で回転していて。
「なによ…あれ」
「新型の凧か?」
「生きてる感じは伝わってきませんよね」
その影が近づくにつれて目を丸くする。
「…人工、物??」
「ッ!あれは…!」
東の空から現れたそれは、悠然と帝都の上空を滑空する。
プロペラを回し、複葉の主翼にははっきりと赤い日の丸を描き――、
尾翼には、『武運長久』の垂れ幕を棚引かせ。
令嬢殿下は平然とした体で、ばっと扇を開く。
「二宮忠八技研主任技師ひきいる、航空技術開発班の傑作ですの。
――試製偵察機 キ2『
令嬢殿下は笑う。
「これが初の長距離飛行でしてよ。」
「にの…みや、忠八…?」
間違いない、二宮忠八の名は確かに聞いたことがある。
前世、テレビ番組か何かで詳しく知った。
曰く"悲劇の航空研究者"。
明治20年には固定翼を着想して空を志し、日清戦争までには動力源問題を残しつつも有人航空機を落成。衛生兵として従軍中に航空機開発を軍部へ掛け合うも、当時の上官だった長岡外史大佐(当時)には理解されず却下。旅団内では随分と小馬鹿にされたそうだ。
その後資金面で行き詰まり、これを稼ぐために製薬会社で支社長まで成り上がった所――ライト兄弟に先を越された。
ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物であり、あと一歩のところで彼らに及ばなかった研究者である。
「一号機のキ1『玉櫛』は今年1月に、陛下と陸軍参謀次長の見守る中、極秘裏に初飛行を遂げましたわ。……5年前から予算を投入して開発を進めていましたのですけれど、それでもライト兄弟に1ヶ月という僅差に負けたのは、悔やんでも悔やみきれないところですわね」
それでも今年初頭の段階では二宮ら技研もライト兄弟自身も、情報秘匿のため積極的な公表を控えたため、世界的には航空機による有人飛行という偉業は伝わっていなかった。
それよりも、旅順湾攻撃で積極使用された飛行船戦術の研究へ、列強や世界は沸いていたのであった。
「けれども1年近くを経て、『玉櫛』を遥かに凌ぐ、高度500、航続時間40分という革新的な複葉機にまでたどり着けましたの。それが、この『銀鵄』――。」
殿下は直上の機体を指差した。
「燃料空気を貯めずとも、鳥のように浮き上がるのか……?」
「……信じがたい。」
伊地知と秋山は呆気にとられて空へ視線を釘付けにする。
「国内、並びに世界に向けてのプロモーションでもありますわ。これが『世界で初めて大々的に公開・記録された高高度・長距離有人飛行』となりますもの。」
「今頃帝都の民は大興奮、列国の記者たちは大狂乱ですよ…」
「ええ。戦時中にここまでのイベントを成し遂げるような皇國、その継戦能力は未だ――計り知れない、そういう印象を植え付けるのが目的でしてよ。
『皇國優勢』という世界的見解を崩さないための、いわば虚勢張りですわね」
令嬢殿下は、一旦そこで言葉を切る。
けれど――、一番の目的は、と。
少し照れくさそうに、躊躇いげに殿下は続けた。
「この死闘、わたくしだけが戦場に立てませんもの。
せめて、みなさまの武運長久へ祈りを込めて――わたくしからの贈り物ですわ」
茜色に美しく染まった西空。
富士の稜線にゆっくりと沈みゆく陽の、その光は。あたたかく、やわらかく、
「…――そろそろ、時間でしてよ」
彼女は名残惜しげに、そう呟いた。
僕は自分の腕時計へ目を落とす。
間もなく列車の時間か。
「……願わくば。この時間が、ずっと――。」
一行は、上野駅急行ホームへと場を移し。
伊地知がゆっくりと煙草を下ろす。
「ふと、そう感じてしまった。まだ戦時真っ只中にも関わらず――まったく、皇國軍人として情けないことだが、な。」
くつくつと、いつもの笑いを漏らす中将閣下。
明治24年、出会った頃はまだ大尉だったのに。
「思えば明治24年の樺太以来、もう13年になるんですね…。」
「ああ。全く、腐れ縁とは言ったものだな」
「待って、そしたらあたしとあんたなんて…」
「以来16年か、ここまで来ると半ば呪いだな」
「……バカ」
裲がぷいと顔を背ける。
あれ、なにか機嫌を悪くするようなこと言ったか?
「お前ら北方戦役からの最古参除いても、日清戦後の正式結成から…なんだかんだでもう10年になるんだ。軍人ばっかの集まりなのに一人も欠けてねぇたぁ奇跡だよ」
「不吉なことを言うな、秋山少将」
いやまさか、と秋山は首を振った。
二人の将官のやりとりを傍らに、いくらかさみしげに僕は声を漏らす。
「戦地で尽き果ててこそ、軍人の誉れ。…士官学校に入るとき、そう刻んだはずなんですけどね。」
「なにがだ?」
「――あなた方にはそう在って欲しくない。不出来な軍人で申し訳ありません」
伊地知が少し苦笑したように白煙を吐く。
「ククッ、我らは皇國軍人。徹底的に足掻いて、藻掻いて。そうでもやってダメなら、死を以て戦い潰れるも、軍人の責務。」
「ま、死ぬときゃ死ぬだろうな。特に俺なんて弾薬庫誘爆でも起きたら艦と一緒に即刻殉死だ。こればっかりゃ運命よ。」
秋山が言葉を切ると、一拍置いて伊地知が継ぐ。
「されど――。
それを聞いた秋山は笑う。
「はは、全くだな。見縊ってもらっちゃ困る」
「確かに貴方は容易くくたばるようなキャラじゃありませんものね?少将閣下。」
「それは一体どういう意味だ」
「まぁ少将閣下に戦死なんて似合いませんもんね」
「なんてことを、俺の職業をなんだと思ってる」
「ニート」「フリーター」「Youtuber」
「なるほど俺には人権がないらしい」
秋山がホーム端の柵にもたれ掛かって黄昏の空に黄昏れ始める。
「あーもう、締まらないわね…!」
音を上げたように裲が嘆く。
我が
「まぁ、ある意味健全な兆候だろう。一大決戦を前に緊張感ゼロなんぞ我らが
「はは、とんでも組織っすね」
かかかっ、と自虐げに笑う伊地知と僕に、令嬢殿下ははにかむ。
「あら?わたくしは好きですわよ。――この雰囲気。」
ふっと伊地知も笑い返す。
「当たり前だ。嫌いだとでも思ったか?」
「少将に同じです。…おい裲!聞かれてるぞ!」
「誰も聞いちゃいないわよ! ――ん、悪くはないけど」
秋山は…まぁいいか、最も好き放題やってきた本人だし。
上野駅の地平ホームに夕陽が差し込んで。
暫く、心地の良い静寂が流れてゆく。
烏が鳴き、電線が揺れ、遠くに夜行の汽笛が響く。
あの橙色に染まった稜線の先――遥か西北の大地へと、僕らは旅立つのだ。
「長いようで短かった、本土休暇でした。」
茜色の世界も、徐々に紫がかった紺色へと呑まれてゆく。
「……戦間の平穏はお開きですね。
戻りましょうか、自分たちの持ち場へ。」
暮れる日を背に、令嬢殿下は立ち上がった。
その後ろにゆっくりと、青森行きの急行列車が滑り込む。
「では皆様。留守番は任されましたわ。
全員帰ってくるまで、必ずここで待っています。」
18時に上野を出るその列車は、僕らを死地へ誘う
されど、断じて片道切符じゃない。
半月前のように、この13番ホームへ。
誰一人欠けることなく僕らはまた戻ってくるはずだから。
「ですから。安心して――」
茜光が反射して、彼女の金髪が眩いばかりに輝く。
殿下は笑った。
「――征ってらっしゃいまし。」
僕は待合席から立ち上がる。
裲が、伊地知が続き、秋山も大慌てでホームの端から跳ね上がるように舞い戻る。
ビシリ、と直立して――。
僕らは、再びこの5人で此処に揃えることを祈りつつ、
…――否、誓いつつ。
敬礼する。
「「「「征って参ります。」」」」
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