当日のアクシデント
それから二日後の発表会の朝。栞はぼんやりと目が覚めると同時に夏が忘れていた暑さを取り戻しにきたのかと勘違いした。
昨日寝る時は少しの肌寒さを感じたくらいなのに、今は頭を覆っている熱さに身体が若干悲鳴をあげている。肌寒さに負けて寝ている間に無意識的に暖房でもつけたんじゃないかと思ったが、すぐにそれが自分の身体の方の違和感なのだと気づかされた。
……やってしまった。
寮に入る時に送った荷物から放り込んでいたはずの体温計をなんとか見つけ出して熱を計ると、最新式より幾分古いそれは一分ほどかけてから『38.2℃』という数字を映し出した。何度か計り直すが、それでも体温が下がってくれることはない。
少し考えたが、こうなってから取れる手段は多くなかった。一昨日に御門からもらっていた風邪薬を――運の良いことに一回分だけが残っていた――口に放り込む。水と一緒に飲みこむと喉を細かな針山で刺されているかのような痛さがあった。
しかし、考えようによってはフルで授業が入っている日でなくて良かったとも言える。今日は午前に職員室に詰めておけば良いだけで他に仕事はない。半日仕事ですらない。その後は寮に帰って大人しくしていれば熱も下がってくれるだろう。
少ししたら薬のおかげか多少は身体が楽になった。顔は僅かに紅いようにも見えるが余程注意深く見なければわからないだろう。何より、今日は一日が変則的になる。
「加賀美先生、今日の第二寮生、中等部の出欠簿です」
「おう」
普段なら学校で行う出欠簿のやり取りも、今日は部屋まで副監督生の生徒が持って来てくれた。食堂で提供される朝食はとても食べる気にならなかったから、部屋の小型の冷蔵庫に放り込んであるゼリー飲料で済ませているところだった。
「朝礼に燕城寺は?」
「いいえ。燕城寺さんは今日も欠席していました」
「そうか、いつも通りと言えばいつも通りだな」
出欠簿にサインをして生徒に返す。
「今日はいよいよ発表会だな。日頃の成果を出せるよう頑張れよ」
「はい。先生も時間があれば是非に見学にいらしてくださいね」
「ああ、気が向いたらな」
そう微笑んでみせると、生徒はペコリと頭を下げて部屋を後にした。あの分なら栞に熱があることなど全く気づいていなかっただろう。午前くらいならなんとかなるに違いない。
準備を済ませてから学校に出ると、部活の顧問の教師たちは最後の確認をしているようだった。
栞はそのまま何食わぬ顔で朝礼に出る。
「今日は生徒たちが待ちに待っていた部活発表会の日です」
そんな言葉から始まって、教頭はいつもより少し長く挨拶をしてから通常の日とは異なるいくつかの連絡事項に移る。とは言っても栞はほとんど関係がない。職員室に詰めている時間を確認されて、それに「はい」と答えるだけで済んだ。
周囲の先生たちが慌ただしく動くのを横目に自分用のお茶を淹れるとそのまま席に座った。身体は幾分だるいが、何事もなければ職員室に連絡がくることだってほとんどないだろう。今はややこしい問題が起こらないことを祈るばかりだ。
少ししてからプツリとアナウンスが入る。
『ただいまより、第七十四回、櫻ノ宮女子中学校部活発表会を始めます』
放送委員のアナウンス。職員室にまばらに残っている教師たちと共に栞もパチパチと拍手を送る。
「加賀美先生は午後はどうされる予定ですか?」
発表会が始まって少ししてから、同じ詰め当番の社会科の北井が聞いてきた。教師の中でも高齢の部類に入る、老紳士然とした人だ。来年か再来年に定年だったと思う。
「どこか顔を出されるおつもりで? 文芸部など、今年は加賀美先生がいらっしゃるからか、みな気合いの入った作品を集めて同人誌にしたと聞いていますよ」
「ええ、私もそううかがいました。実は同人誌は昨日の内に部長さんからいただいているんです。今日はそれぞれが作った詩の批評会をするとのことですが、こればかりは私はいない方が良いかと思っていて……」
「ほぅ、どうしてです?」
「こう言ってはなんですか、私がいるとどうしても皆さん私の反応ばかりを気にしてしまいがちになるような感じがするので。あまり教師の目はない方が良いかな、と思いまして」
「ああ、それはわかります」
のんびりとした口調で北井は言った。彼はもう何年もこの部活発表会を経験しているが、職員室詰めの仕事は何事もなければ本当に暇なのだろう。その口調は自宅の縁側で日向ぼっこをしているのではないかと思えるほどだった。
「加賀美先生は生徒たちにとって憧れですからね。自分の方が好く思われたいと取り合いになってしまいますね」
「いや、そんな滅相もありません」
栞が苦笑すると、北井は穏やかに笑った。
結局、それから交代の教師がくるまで内線電話が鳴ったのは二回だけ。それもただの確認の連絡で、電話を取った北井が数言対応するだけで終わった。
しかし時間が経つにつれて薬の効果が切れてきたのか、身体は少ししんどくなってきていた。抑えられていた熱も再び出てきたように感じる。
「それじゃあ加賀美先生、初めての部活発表会、楽しんでください」
「ええ。北井先生もお疲れさまでした」
なんとか無事に役目を終えて栞は大きく熱っぽい息を吐いた。
そのまま寮に帰ることも考えたが、流石に朝の熱のことも考えると、このまま薬もなしに帰るというのは少し臆病風が吹いた。節々の関節もじくじくとした痛みを放っている。校内では午後に発表の生徒たちが発表を見て回っている最中だ。そんな彼女たちに何事もない風に装って挨拶しながら保健室へと向かった。
在室中。ほっとしてノックを三つ。「はい、どうぞー」と聞こえた御門の声に栞は中に入った。
「加賀美先生?」
どうかした? とは続かなかった。
中を見やると生徒の姿はない。どうやら部活発表会は今のところ何のアクシデントもなくちゃんと進んでいるらしい。
「その様子だと……大分しんどそうね」
他の生徒たちは誤魔化せても彼女は医者だ。病人か否かくらいはすぐにわかるのだろう。いつものフランクな表情が三割増しで真剣なものに見えた。
「……ええ、少し」
「とりあえずそこに座ってもらえる?」
座ると同時に渡された体温計を腋に挟む。すぐに鳴った電子音に取り出して見れば、『38.4℃』の表示。朝より若干上がっていた。御門はそれを見て小さくため息を吐いた。
「はい、口開けて」
中をのぞきこまれる。
「見事に腫れちゃってるわねぇ……」
熱を持った針で刺されているかのような痛みは正直唾を飲み込むのさえ辛かった。
念のため、と鼻の中にぬぐい棒を突っ込まれてインフルエンザの検査もしたが、結果は陰性。とりあえずほっと安堵する栞に御門のお叱りがとんだ。
「朝にも同じくらい熱があったんでしょう? なんでその時に呼ばなかったの?」
「いえ、前にもらっていた薬もありましたし、午前だけで終わる予定だったので……熱だけなら大丈夫かな、と……」
「今回は違うだろうから良かったものの、もしウイルス性のものだったら学校中に菌をまき散らす可能性だってあったのよ? 大切な生徒たちに流行させたい?」
「……すみません」
「教師としての自覚が足りないと言わざるを得ないわね」
厳しい口調に、すみません、と重ねて謝る。御門は再度息を吐いた。
「職員さんには連絡するとして……どうする? 迎えに来てもらいましょうか?」
「いえ、帰るくらいは一人で出来ますから」
「薬は五日分出しておくわ。良い? 帰ってさっさと大人しく休むこと。薬を飲んで多少楽になったからって言って仕事しようなんて考えないでね? 夕方には部屋に顔を出させてもらうから」
「お手数おかけします」
「そう思うんなら二度とこんなことはしないこと」
保健室を辞して寮に戻ると、すでに職員の人が栞を待っていた。袋に入った水分補給用の飲料を何本か渡され、「何か食べられそうだったら連絡をください。部屋までお持ちしますので」と言われた。教師の突然の病気にだってすぐにこういった対応をしてもらえるのは流石の櫻ノ宮といったところだろう。
そのまま部屋に帰り、薬を飲んで御門に言われた通り布団をかぶって目を瞑る。しんどさに眠れるかどうかわからなかったが、熱で頭がぼやけている内にそのまますとんと意識が落ちた。
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