櫻ノ園の偏執愛 ‐ パラノイア ‐
猫之 ひたい
プロローグ
果物ナイフでつけた傷からじわりと血が浮き上がる。
少しの痛みが栞の脳に伝わってくるが、今からされる行為を考えただけでそんな痛みはひどく些細なもののように感じられ、彼女の心臓はトクントクンと高鳴った。生まれてもう三十年近くになる。心臓が高鳴る経験くらい何度もあったけれど、それでもここまでの静かな興奮というものを覚えたことは栞はなかった。
「ほら、いいぞ」
垂れた血が前腕の中ほどに達する頃に栞がそう言って腕を差し出すと、目の前の少女はごくりと大きく喉を鳴らした。紅潮した顔に興奮が伝わってくるが、それでもすぐにむしゃぶりつくような真似はしない。「失礼します」と吐息ともなんともつかない言葉を吐いてから、頬にかかった髪をそっと寄せて栞の腕に口を寄せる。
垂れていく血を舐め上げるようにすくい取って口内に収め、まるで一流のソムリエがワインをそうするかのように舌の上で転がしてからゆっくりと飲み下す。小さくもれた息は思わずなのか、それとも意図してのものか?
傷口からはまだ新しい血が湧き出ている。まだ中学校の二年……子供と言っておかしくない年の少女であるのに、その血を舐め取っていく姿は得も言われぬ妖艶さを感じさせた。
静かな室内に外からは夏虫の声が聞こえてくる。八月の下旬。その暑さはまだ衰えを見せないが、部屋の中はしっかりとした空調で涼しく保たれている。にも関わらず、栞の頭はある種の熱に浮かされそうになっているのを確かに感じ取っていた。
幼さを残しているのにこの学校の誰よりも大人びているように感じられる顔。柔らかく巻いた髪に透き通る肌。腕に触れる舌は若々しい色に染まり、熱情を代弁しているかのような熱を発している。舐め取られた後は冷房の風を受けてひんやりとした感触が残る。
この場面だけを見れば性交の前の前戯と大して変わらなかったかもしれない。
栞は自身の腕に浮き上がる血を舐め取る少女の頭に柔らかく触れる。色素の薄い髪は絹のような指通りで、それだけで一種の快楽を呼び起こしてくる。
無茶苦茶にしてしまいたい衝動が栞の中でむずむずと蠢く。
もし今、感情をせき止めている枷を外してしまったら、たぶん次の瞬間に栞は部屋の隅に置かれたセミダブルのベッドに少女を押し倒してしまうだろう。乱暴に押し倒し、服をはぎ取ってその肢体を貪ってしまうに違いない。
だが、その衝動と同じくらいの恐怖が自分の内にあるのもまた確かだった。
倫理に対する恐怖などではない。もちろん世間体などというものでもない。
それはまるで幼い日に親にねだって買ってもらった真っ白なスケッチブックに墨をぶちまけてしまうかのような恐怖だった。それをしたが最後、もう二度とは戻らないと考えるだけで栞の背筋を寒いものが伝った。
血の気の引くまでの恐怖がそこにはあった。
この春……栞がこの学園に来た時にはただの教師と一介の生徒でしかなかったはずなのに、今ではもう随分とその形は歪で……言葉では到底説明出来ない関係になってしまっていた。
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