第22話 贖罪

 五十川明。


 病室のベッドに横たわる彼女の前に、新実署の刑事部長と、国警の刑事部長他高級幹部が菓子折りを持って立つ。


「「この度はご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした!」」


 担当者たる私も頭を下げるが、端的に言って彼女が混乱しているのが分かった。

 さて、時計の運針を逆再生し、約48時間前の証拠品管理室に時空を戻す。



『赦して!赦して下さい!!!お願いします!!!もう二度と逃げたりしませんからぁ!』゛


「おい、これこの間の件のマル害じゃねぇか?」

「どれ……ホントだ!おい!」


 証拠品の一つ、映像記録媒体に記録された映像には、怯えた様子の五十川創が、白ずくめの男たちに暴行を受け、最終的に滅多刺しにされる様子が高画質で記録されていた。


『えっ』


 その上、映像の最後に女性の声が記録されていた。

 捜査員達はそれを見て、一様に「やってしまった」という顔をし、頭を抱えた。

 彼らは縋るような思いで、音紋解析と人工知能による画像解析を行った。

 が、彼らの捜査員としての勘は的中していた。


 五十川明。


 殺人の疑いで全国指名手配されている容疑者。

 そして――冤罪の被害者。


 そもそも指名手配とは、被疑者を迅速に逮捕する為に行われる手段の一種であり、逮捕令状のように法的拘束力があるものでは無い。


 が、一度逮捕令状が出されると、今の高度情報化社会、マトモに生きていく事は不可能に近い。

 その上、逮捕令状と指名手配が誤りとは言え、誤認逮捕をしている訳では無いので、保証する制度も無い。


 つまる所、国家中央警察は、彼女を犯罪から防護する事が出来なかったばかりか、彼女の人生を殆ど完膚なきまでに破壊してしまったのである。




 といった事を大変回りくどく、警察的行政用語を交えつつ冷や汗をかきながら高級幹部が説明したが、彼女は一言、「宮木さんと二人にさせて頂けますか」と言った。

 ……え?

 少々の困惑を表面に出さないように努力する私を置いて、幹部たちはゾロゾロと病室から出ていった。


 ピシャリ。とドアが閉められると、この空間――カラッと晴れた夏空の下、空調設備によってカラッとした乾いた空気が満たし、消毒液と薬剤、その他の匂いが混じって独特の匂いが占領するこの場。そこに存在するのは、私と彼女、そして幾つかの機械だけになった。


 数瞬後、彼女の瞼から涙が溢れ、わなわなと表情が歪み、耳は真っ赤に染まった。


「う……゛っ゛……っ゛ひっく゛……」


 緊張の糸が切れたのか、安心したのか。

 彼女は私に抱きつくと、少し掠れた声で泣き出してしまった。

 そのあまりの柔らかさとか細さに一瞬、どうして良いか分からなくなったが、極力優しく、彼女の後背へと手を回す。


「大丈夫。もう大丈夫ですから。もう怖い思いも痛い思いもしませんから。大丈夫」


 『泣かないで』とは言えなかった。


 彼女のこれまでの人生で、こうして人の腕の中で泣けたのは何回あったのだろうか。


 赤ん坊をあやすように頭を撫で、背中をポンポンと叩くと、撥水加工された制服の上を涙が滑り落ち、帯革を濡らした。

 何分経っただろうか、嗚咽が段々と小さくなり、腕の強張りが少しずつ解け、「もう……大丈夫です」という声を受け、私は彼女の腕から開放された。


「その……ありがとうございました……」


 回復した彼女の声帯から、小さく、しかし確実に声が漏れる。

 彼女を見つけ出した際、彼女は瀕死と言って良い程の怪我を負っていた。

 骨折に内蔵出血、全身やけどに神経系の損傷。

 全身の78%は化学やけどに覆われ、溢れ出す滲出液によって脱水を呈していた。

 が、現代医学の威力によりそれらは殆ど全て治療され、見た目には全く分からないまでに回復していた。


 しかし、心はどうだろうか。

 訓練も受けておらず、いつ明けるか分からない暴力の闇の中に取り残された彼女の心は、再び――否、今後幸せを感じる事が出来るのだろうか?

 私はテロ対処の専門家であって、心理学の専門家では無いが、警察官の一人として自分に出来る事は何でもやるつもりであった。


「大丈夫です。我々はあなたに謝らなければなりません。随分と長い間、あなたを救えませんでしたし、それどころか――

「でも……私……私をあそこから助けてくれたのは……」


 違う。

 たまたま見つけただけであって、あなたを捜してあそこに突入した訳では無い。

 あの時捜していたのは証拠品とテロリスト達だ。

 彼女を見つけたのは偶然に過ぎない。


 しかし、私にはそれを言う勇気は無く、黙って彼女を見つめるしか無かった。


「あ、あの……」


 暫しの沈黙の後、いつの日か、聞いたことがあるような台詞が彼女の口から吐き出された。


「また……来てくれますか?」


「……勿論です」


 前回この台詞を聞いた時、まさか再び言葉を交わすまでこんなにも時間がかかるとは思っていなかった。

 今回の勤務が終わったらすぐ来よう、そう決心して席を立った。

 もう後悔はしたく無い。



****



 へへっ。

 あははっ。

 うへへへっ。


 彼に抱きしめられ、頭を撫でられる事がこんなにも幸せな事だとは思わなかった。

 想像の数百倍、数千倍、10^23倍。

 あの場所から助け出され、彼の優しさと香りを感じながら担がれていた時は意識が朦朧としていたが、なんと勿体ない事をしたのだろうか!

 今更ながら、彼らへの怒りが湧いてきた。


 最早、義兄が死んだ事も、攫われて殴られ続けた事も、もうマトモな人生を送る見込みが全く立たなくなった事も、全てが、全てが本当にどうでも良くなった。

 彼さえ居ればそれで良い。


 先程は何とか誤魔化したが、途中から私の涙と嗚咽は幸福の為に溢れたモノになっていた。が、流石に途中から誤魔化しきれなくなり、長期的視点から彼から離れたのである。

 目先の利益を追って大きな利益を取り逃がすような事はしたくない。


 安心したのは、彼は私が義兄を殺した犯人では無いと知っていた事だ。

 良かった。もし彼から見捨てられ、犯罪者として扱われたならば私はもう、本格的にどうにかなってしまっていただろう。


 今後どうしようか、抱きしめられ、少し言葉を交わした、それだけでこんなに幸せになれるのだ。


 一緒に暮らして、一緒に寝て、一緒に出掛けて、幸せな家庭を築いて――


 彼に私の全てを捧げたい。

 身も心も魂も、全てあの人のモノにして欲しい。

 そしてあわよくば、喜んで欲しい。


「ふふっ」


 監禁されていた時、現実から逃避する為に創り上げた妄想が、すぐそこ、もう少しで手が届きそうだという場所にあるという事実に、私の胸は踊っていた。


 しかし、ある事に気付いてしまった。


 彼は、彼の意志でここに来た訳では無いのでは無いか?

 上司に連れられ、渋々ここに来て、私の強引な態度とワガママを渋々受け入れてくれただけでは無いのか?


 幸せだった脳内に、突如このような疑問と疑念が湧いて出た。


 糠喜びは嫌だ、したくない。

 それに――


 それに、私が居ない間、誰かが彼を既に『獲得』していたらどうなる?

 これ以上の事はもう、否、もう二度と、あのような幸せは得られないのでは無いか?

 今日は私を哀れんだ彼が特別に、優しく接してくれただけでは無いのか?


 彼の――彼の優しさは、私の為だけにあるのでは無いというのは知っているが、それを欲しいままにして、無為に浪費している女が居るかもしれない。


 考え出すと止まらない。

 あの時、辛い現実、暴力の闇の中で一筋の光として支えになってくれた妄想は、今、鋭い刃物となって私に襲いかかってきていた。


 嫉妬、羨望、後悔、怒り。


 そんな感情に支配された脳味噌は、最早落ち着いた思考を吐き出す事は出来ず、暴走した妄想を幸せな方向に持っていく努力も、懸念によって阻害されてしまった。


 諦めて目を瞑ると、今度は暗い闇の中、暴行を受け続けた日々が思い出され、冷や汗で全身が不快感に包まれる。


 身体を起こし、以前と同じように睡眠薬を煽ると、やっと浮遊感と共に眠気が訪れた。それに身を任せ、目を再び瞑った。

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