第59話『あたしも、あなたのことが。』
昨日と同じように、夕食の後は大浴場で入浴することに。ただ、璃子は健太の誕生日パーティーに行っているので一緒ではない。俺は男なので、どっちにせよ1人きりだけれど。
今日も男湯の方はあまり人がおらず、温泉に浸かってゆっくりとした時間を過ごすことができた。
大浴場を出た俺は4号室に戻り、ベッドに横になる。昨日と一緒でこうしているとすぐに眠気が襲ってきた。仕事には慣れてきたけれど、今日は一日ずっとバイトをしていたからだろうか。
明日も一日バイトがあるし、今日も早く寝ようかな。でも、せっかく池津に来たし、2日連続で早く寝るのも何だかもったいない感じもする。スケッチブックを持ってきたし、何か描くのもいいかも。……とりあえず、テレビでも点けるか。
――コンコン。
リモコンを手にしたとき、部屋の扉からノック音が聞こえた。誰だろう? 誕生日会を終えた璃子と健太が遊びに来たのかな? それとも、3人が5号室に遊びに来てと誘いに来たのだろうか。
ゆっくりと扉を開けると、そこには黒いタンクトップ姿の咲夜が立っていた。
「おっ、咲夜か」
「こんばんは、颯人君。これから一緒に散歩しない? 今朝、颯人君が散歩から帰ってきたとき、散歩もいいなって思って。夜になったから、そんなに暑くないだろうし」
「分かった。一緒に行くか。紗衣や麗奈先輩はどうする?」
「さ、誘ったんだけど、2人はふとんの上でゴロゴロしたい気分なんだって。今日は1日ずっとバイトしたから疲れたみたいで。旅先だし、人は夕立市よりも少ないけれど、何があるか分からないからさ。だから、颯人君を誘ったの。も、もちろん、颯人君なら2人きりで歩いていいって思えたからだよ! 単なる用心棒じゃないよ!」
頬をほんのりと赤くしながら必死に説明する咲夜は可愛らしい。
「分かった。一緒に散歩するか」
「うん!」
とても嬉しそうな笑顔を見せてくれる咲夜。
小さい頃から旅行に行くと、夕食後に父親や家族全員でホテルの周りを散策したものだ。この宿の周りの夜景を楽しむいい機会だろう。
俺は咲夜と一緒に宿を出て、近くを散策することに。咲夜からの提案で彼女と手を繋ぎながら。
「夜になると涼しいんだね。風が気持ちいい」
「そうだな。温泉に入ってからあまり時間も経っていないし、結構涼しく感じるな」
「うん。夕立市よりも涼しく感じられるかも」
宿などはあるけれど、夕立市に比べると建物の数は圧倒的に少ない。すぐ近くに海があるのも涼しさの一因なのかも。波の音が心地良い。
「あと、潮の香りもするから、本当に遠いところに来ているんだなって実感するよ」
「ああ。非日常を味わっている感じがする。こうして咲夜と手を繋いで、2人きりで歩くときが来るなんて、夕立高校に入学したときには想像もできなかったな」
「入学したときは……そうだね。あたしも想像できなかった。夏休みも家族で旅行に行くか、宏実達と海に遊びに行くのかなって思ってた。でも、実際にはとても素敵な時間を過ごすことになって良かったよ」
えへへっ、と咲夜は俺のことを見ながら楽しそうに笑う。
「俺も……思っていたよりもずっといい時間を過ごしてる。ありがとう、咲夜」
「……いえいえ」
高校生になっても、夏休みは去年までと同じで家と花畑で過ごすか、同じ高校に通うようになった紗衣と遊ぶくらいだと思っていた。
俺達に海の家のバイトを頼んだのは、紗衣のバイト先の店長さんだけど、今に繋がるそもそものきっかけは、あの月下美人が咲いた夜に咲夜が話しかけてくれたことじゃないかと思っている。
「颯人君。あの階段から砂浜の方に降りてみようよ」
「ああ」
近くにある道路脇の階段から、俺達は砂浜の方に降りていく。
宿からちょっと歩いたところに階段だからか、降りたところは砂浜の端の方。遠くに海の家がズラリと並んでいるのが見える。昼間、人がたくさんいる中で健太を探したので、全然人のいない今の状況に信じられない自分がいた。
「こんなに静かだと、何だか昼間の賑わいが嘘みたいだよね」
「俺も同じようなことを思ってた。今日も海の家にたくさん人が来ていたもんな。同じ場所っていうのがちょっと信じられないよな」
「うん。賑やかなのも好きだけど、今みたいに落ち着いた雰囲気も好きだよ」
「……俺も好きだ」
怯えられたり、騒がれたり、ライフセーバーのお兄さんに話しかけられたりすることもないしな。
そういえば、海の家のバイトをしているからか、こうして波打ち際の近くまで来るのはこれが初めてだな。
「あっ、月が見える。かなり細いけれど」
「三日月よりも細いかもな」
咲夜の指さす先には欠けた月があった。だからか、夜空を見上げると無数の星々が見える。
「そういえば、颯人君と初めて話した日の夜って満月だったよね」
「そうだったな」
月下美人の花も咲いたからか、あの日の夜のことは咲夜との話だけじゃなくて、匂いのことまでよく覚えている。
「もう、あれから1ヶ月半くらい経つんだよね。色々あったね」
「ああ。想像できないほどに色々あって、濃い時間を送っていると思う。咲夜達のおかげで、誰かと一緒に過ごすことが楽しいって思えるようになった」
「……あたしも、颯人君達と一緒に過ごす時間はとても楽しいよ。そんな時間をこの先もずっと過ごしたいって思ってる。特に颯人君とは」
そう言うと、咲夜は俺の手を離し、俺と向かい合うようにして立つ。そんな彼女の表情は真剣そのものだった。
「信じてもらえないかもしれない。それでも言うね。あの日の夜、あたしは颯人君にニセの恋人になってほしいって頼んだよね。でも、あのとき……本当は颯人君のことが男の子として気になっていました。そのきっかけはゴールデンウィーク明けだったかな。休み時間に音楽を聴いていた颯人君の微笑みを見た瞬間にキュンとなって。……あたしは颯人君のことが大好きです」
優しげな笑顔を浮かべながらそう言うと、咲夜は俺に一歩近づいて、背伸びをしながらキスをしてきた。その瞬間、佐藤先輩の前でキスしたことはもちろんのこと、紗衣や麗奈先輩にキスされたときのことも思い出した。
佐藤先輩の前でされたキスも悪い気はしなかったのは、きっと俺のことを男性として気になる気持ちがあったからだと思う。ただ、好きだと告白されたからか、あのときよりも唇から伝わる柔らかな感触と温もり、彼女の匂いが優しくて心地よく感じる。
咲夜の方から唇を離すと、彼女はうっとりとした表情を浮かべながら俺のことを見つめてくる。
「好きだって告白して、キスをすると……ドキドキもするけれど、スッキリもするね。麗奈先輩や紗衣ちゃんもこんな感じだったのかな」
「咲夜……」
「……あのとき話したように、颯人君はしっかりしているし、周りに恐がられているからニセの恋人になってほしいって頼んだのは本当だよ。ただ、もう一つ……颯人君のことが気になっていたからっていうのもあって。ニセの恋人として付き合うようになって、いずれは本当の恋人になるのもいいなって思っていたの。自分勝手で、自分に都合のいい考え方だよね」
咲夜は苦笑いをする。それでも、視線を俺から逸らすことはない。
「でも、颯人君は嘘の関係を作らずに、クラスメイトとして協力してくれた。でも、佐藤先輩に颯人君と恋人だって嘘を付いて、キスまでして。だから、事が大きくなって、それまで付き合っていた何人もの友人を失った。ニセの恋人になってもらおうって考えた罰だって思った。でも、颯人君はそんなあたしの側に居続けてくれて、友達になってくれた。それが嬉しくて。友人として佐藤先輩のラブレターについて解決してくれた。そのときに、颯人君のことが本当に好きなんだって自覚したの」
そのときのことを思い出しているのか、咲夜の笑みはとても可愛らしいものになる。
そういえば、佐藤先輩の件について解決した後に、お礼のコーヒーを飲んだとき、咲夜……佐藤先輩の前でしたキスがなかったことにするのは寂しいと言っていたな。理由は何であれ、好きな人としたキスをないものにはしたくなかったのだろう。
「佐藤先輩の件で迷惑かけちゃったし、一度、ニセの恋人になってほしいって言ったから、告白しても本当に好きだって信じてくれないだろうって思った。ただ、紗衣ちゃんっていう従妹はいても、別のクラスだし、バイトの日も多いから。クラスメイトで友人なのはあたしだけ。だから、今は友人として颯人君と楽しい時間を過ごして、仲が深まったら告白しようって思ってた。実際、颯人君と過ごす時間はとても楽しくて、幸せだった」
「……嬉しいよ、そう言ってくれて」
咲夜と友達になってから、誰かと一緒にいることで楽しいと思える時間が増えたと思う。
「でも、喧嘩をしたり、麗奈先輩が今でも颯人君のことが好きだって告白した上で友達になったり。紗衣ちゃんなんて目の前で颯人君に告白してキスするんだもん。あのときはかなり焦ったよ。ただ、幸いにも颯人君はまだ誰とも付き合っていない。だから、泊まりがけで海の家でバイトをするって決まったとき、池津にいる間に告白しようって決めたの。あと、夕方に健太君が璃子ちゃんに謝る姿を見て、勇気をもらったの。伝えたいことを自分の言葉で伝える大切さを教わった」
「……そうだったんだな」
それで、心に決めたことを今、ちゃんと果たすことができたんだな。俺が思っていいのかは分からないが、それはとても凄くて、偉いことだと思う。
あと、健太が璃子に謝ったことが咲夜の告白の後押しをするとは。凄いな、あいつ。
「ちなみに、紗衣や麗奈先輩には?」
「さっき、お風呂に入っている間に颯人君のことが好きで、告白したいことを伝えたよ。2人とも、あたしが颯人君のことが好きじゃないかって前々から思っていたみたい」
そういえば、紗衣が俺に告白したとき、彼女は既に好きだと公言する麗奈先輩だけじゃなくて、誰にも負けたくないって言っていたな。あのときにはもう、紗衣は咲夜が俺に好意を抱いているかもしれないと考えていたのかも。
「2人きりの場所で告白したかったから、一緒に散歩に行こうって誘ったの。2人にはそれは伝えてる。頑張れって応援された」
「そうだったのか」
恋のライバルに告白を頑張れと言うところが、紗衣や麗奈先輩らしいなと思う。一緒に散歩に行かなかったのは、バイトに疲れたからではなく、咲夜に告白しやすい環境を与えたかったからだったんだ。
「颯人君。返事はいつでもいいからね。どんな決断でも伝えてくれると嬉しい。でも、あたしと付き合うっていう答えを伝えてくれるともっと嬉しい。そう思うほどに、颯人君のことが好きだよ」
咲夜は改めて好きだと伝えると俺のことをぎゅっと抱きしめ、俺にキスをしてきた。俺への好意がとても強いのだとより伝えるためなのか、ゆっくりと舌を絡ませてきて。紗衣や麗奈先輩に負けないくらいに気持ち良くて、ドキドキする。あと、抱きしめたことで唇とは別のところでも柔らかさを感じる。
咲夜はゆっくりと唇を離すと、さっきのキスのとき以上に幸せそうな笑みを浮かべる。
「好きな人とのキスっていいね。あと、誰にも……特に紗衣ちゃんと会長さんには負けたくないって思う。あと、颯人君はあたしとキスしている中で、紗衣ちゃんや会長さんのことを思い浮かべていたでしょう?」
「……ああ。2人ともキスしたことがあるからな。その……すまない」
「……ちょっと嫉妬した」
ちゅっ、と咲夜は軽く唇を重ねてくる。
「こうして颯人君にキスしたのはあたしが最初だけど、あたしが告白するまでに色々あったもんね。あたしが3人の中では最後に告白したし」
「……ああ。でも、紗衣や麗奈先輩とキスしたとき、咲夜とのファーストキスを思い出すこともあったよ」
「……そ、それは嬉しいな。ありがとう。最後に告白したから不利かなって思ったけど、案外そうじゃないのかも」
ふふっ、と咲夜は嬉しそうな笑顔を見せてくれる。
どんな事情であれ、キスはとても大きなことだ。それがお互いにとってのファーストキスであれば尚更。そういえば、キスした日の夜は咲夜のことを意識してあまり眠ることができず、翌日の学校では咲夜のことを何度も見たっけ。
「颯人君。あたしの告白を聞いてくれてありがとう。そろそろ宿に帰ろうか」
「ああ、そうだな」
俺は咲夜に手を引かれる形で海野家の方へと戻るのであった。
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