第42話『忘れられない夏にしたくて』
午後8時。
フリータイムの時間制限ギリギリまで歌った俺達はカラオケ店を後にする。日が暮れたからか、涼しさを感じるくらいだ。梅雨明けはまだだけれど、夏本番になっても朝晩は涼しくなってほしいものだ。
「楽しかったですね!」
「うん! たくさん歌ったから喉が疲れちゃったよ」
「そうなんですか? 会長さん、今も声は綺麗ですよ」
「そう? ちょっとずつ飲み物を飲んでいたからかな」
俺もひさしぶりにカラオケでたくさん歌ったから、結構喉が疲れたな。ただ、ジンジャエールやコーラ、コーヒーも飲んだからか声は枯れていない。
「紗衣ちゃんも歌が上手だったよ」
「ありがとう。咲夜も可愛らしい歌声で私は好きだな」
「えへへっ」
紗衣に声が好きだと言われ、撫でられて咲夜はとても嬉しそうだ。
上手だったかどうかはともかく、可愛らしい歌声で楽しそうに歌う様はとても良かったと思う。見ていた俺も楽しくなった。
「はやちゃんの歌声も上手で素敵だったよ! 特に玄米法師さんの歌は良かった」
「嬉しいですね。玄米法師さんも歌声が低い方ですからね。それもあって、彼の歌が好きになったんです」
「そうなんだね。私、はやちゃんの歌声が素敵だから、何曲もスマホで録音しちゃった」
「麗奈会長。あとで私にも送ってくれませんか? 颯人の声も……好きなので」
「もちろんだよ」
咲夜が言うならまだしも、紗衣がそんなことを言うとは。意外だな。
でも、思い返してみれば、俺が歌っているとき紗衣は優しい笑みを浮かべて、俺のことを見ながら聴いてくれることが多かったな。そんな紗衣と麗奈先輩の歌声はとても綺麗だったな。
カラオケの感想を話し合ったこともあってか、あっという間に夕立駅に到着する。電車通学の紗衣とはお別れか。
「紗衣ちゃんとはここでお別れだね」
「そうだね、咲夜。この4人でのカラオケはとても楽しかったです。また一緒に行って歌いましょうね」
「もちろんだよ!」
「私も楽しかったよ」
「俺も楽しかった。明日から夏休みだし、お互いに予定はあるとは思いますけど、また4人で遊べるといいですね」
紗衣はバイト、麗奈先輩は生徒会の仕事があるけど、夏休みなのでどこかに遊びに行くことができればいいな。
「下りの電車、あと3分くらいで来るみたいだから、そろそろ行こうかな」
「うん。紗衣ちゃん、また遊んだり、一緒に宿題したりしようね」
「またね、紗衣ちゃん」
「またな、紗衣」
「……うん」
何を考えているのか、紗衣は普段よりも元気のなさそうな声でそう返事をすると、改札の方へと歩き始める。
そのまま改札を通るかと思いきや、紗衣は改札の手前で立ち止まって振り返り、真剣な様子でこちらに向かって歩いてきた。そして、俺の目の前に立つ。
「どうしたんだ、紗衣」
俺がそう問いかけると、紗衣は頬をほんのりと赤くさせて俺のことを見つめる。
「短冊に書いた忘れられない夏にしたいっていう願いを叶えたいんだ。……颯人と一緒に」
そう言うと、紗衣は俺にキスをしてきた。
唇からは紗衣の温もりと柔らかさが伝わってきて。小さい頃から数え切れないほどに会ったことがあって、親しみもある彼女の匂いにドキドキしてくる。あと、俺達以外にもこの様子を見ている人がいるのか、何人もの女性からの黄色い悲鳴が聞こえてくる。
ゆっくりと唇を離すと、紗衣はさっきよりも顔を真っ赤にし、いつになくはにかんでいる。
「ずっと前から、颯人のことが男の子として好きだよ。大好き。だから、私……誰にも負けたくない。返事はいつでもいいから、答えを伝えてくれると嬉しい。……電車、あと少しで来ちゃうから、またね」
俺に告白をして、キスをすることができてスッキリしたのか、彼女らしい爽やかな笑みを浮かべて俺達に手を振って、小走りで改札を通っていった。
紗衣の姿が見えなくなった瞬間、急に体の力が抜けてその場に座り込んでしまった。これがいわゆる腰が抜けるってやつなんだろうか。
「紗衣ちゃんも颯人君のことが好きなんだ……」
咲夜は顔を真っ赤にしてドキドキとした様子。目の前で告白とキスを目撃してしまったら、そうなってしまうのは当たり前か。咲夜は俺と視線が合うと顔を背けた。
「やっぱり。……燃えてきた。より頑張らないと!」
麗奈先輩は右手を拳にして、やる気に満ちた笑顔を浮かべている。恋のライバルができたことで、俺と恋人として付き合いたい気持ちがより強くなったようだ。あと、麗奈先輩は紗衣が俺に好意を抱いていることに感付いていたのか。
「はやちゃん」
腰が抜けた俺に対して、麗奈先輩が笑顔で手を伸ばしてくれる。いつまでもこんな体勢だと周りの人からの視線をより集めてしまうな。
「ありがとうございます」
俺に向けて伸ばしてくれる麗奈先輩の手を掴み、俺はゆっくりと立ち上がる。彼女の手はとても温かかった。
「紗衣ちゃんの姿も見えなくなったし、私達もそろそろ解散しようか?」
「そ、そうですね! いやぁ、1学期の最後の最後でビックリしちゃうことがありましたね」
咲夜は微笑んでいるけれど、今もなお顔を真っ赤にしている。自分もキスした経験があるからか、紗衣と俺のキスシーンはかなり衝撃的だったのだろう。
「私も驚いた。はやちゃんはどうだった?」
「……とても驚きましたよ。ですから、腰を抜かしてしまいました」
「さっきの颯人君の抜かしぶりは凄かったよね。まるで、漫画を見ているようだったよ」
「腰を抜かすって言葉はこういうことを言うんだって勉強になったよね」
「ですね!」
咲夜と麗奈先輩は楽しそうに笑い合っている。……まったく。
「じゃあ、あたし達も解散しましょう。では、またです!」
咲夜は小さく手を振ると、俺達の元から立ち去っていった。紗衣だけじゃなくて、咲夜や麗奈先輩とも夏休み中には何度も会うことになりそうだな。咲夜の場合は宿題を手伝ってほしいとか頼みそうだけど。
「はやちゃん、私達も帰ろうか」
「そうですね」
俺は麗奈先輩と一緒に夕立駅を後にする。その際、麗奈先輩の方から手を繋いでくる。涼しくなってきたこともあってか、彼女の手の温もりに心地よさを感じる。
「今日は色々なことがあったよね。喫茶店で食事をしたり、カラオケでたくさん歌ったり。楽しかったなぁ。はやちゃんのお母様の可愛らしい制服姿も見ることができたし」
「ははっ、そうですか。母が喜びそうですね」
「……あと、あのタイミングで紗衣ちゃんが告白して、キスしてくるとは思わなかった」
「俺だって予想外でしたよ」
だからこそ、腰を抜かしてしまうほど驚いてしまったんだ。
咲夜と友人として関わるようになってから、紗衣は単なる従妹ではなく一人の女子高生として見るようになってきたけど、あの告白とキスで麗奈先輩と同じ俺のことが好きな女性にしか見えなくなりそうだ。
「はやちゃん」
俺の名前を呼ぶと、麗奈先輩は急に立ち止まって、俺のことを見つめてくる。その真剣な眼差しはさっきの紗衣と同じくらいに印象的だった。
「紗衣ちゃんが誰にも負けたくないって言っていたけれど、私も誰にも負けたくないって思ってるから」
麗奈先輩は俺の頬にキスをしてくる。紗衣のキスの余韻がまだ残っているからか、頬のキスでもかなりドキドキしてしまい、体が熱くなる。
麗奈先輩は俺の腕をぎゅっと抱きしめてくる。
「はやちゃんの腕、温かくて気持ちいい。はやちゃん、大好き」
ふふっ、と笑う麗奈先輩はとても可愛らしく美しかった。
月下美人の花の前で咲夜に話しかけられてから、およそ1ヶ月。これまでの日々だけでも、今年の夏は忘れられない夏になっている。だけど、明日から始まる高校最初の夏休みで、より忘れられない夏の時間になりそうな気がするのであった。
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