第37回

 目許を拭って立ち上がった。またしても、いや先日以上に酷い顔になっているだろうが、もはや気に留めなかった。最低限の身支度を整え、階段を駆け下りる。母はすでに仕事に出掛けてしまったから、車で送ってもらうことはできない。

 今からなら、直接会場へ向かうべきだ。バスか。タクシーを捕まえるか。スマートフォンを片手に飛び出した。ともかくも駅前へと走る。すぐさま息が弾んだ。

 荒い呼吸の合間に繰り返した。約束、約束――。

 きっと何度も転ぶよ、と私は言った。

 転ぶのは慣れてるよ、とひまわりは答えた。大丈夫だよ、と。

 なにもかもが順当に進むわけではない。私たちが行くのは荒野だ。どちらかが転べばもう片方も転び、傷つく。歩みは遅く、困難は多い。同性どうし。片や日本、片やアメリカ。なぜ二人三脚などと言い出せたのか不思議だ。壊れながら走っていく漫画の世界の車のように、傍目には滅茶苦茶で、滑稽で、無様なふたりなのかもしれない。

 だからなんだ。これが、私たちの恋なのだ。

 遠くから黒い自転車が疾走してきた。まっしぐらにこちらに向かってくる。乗り手が手を振っているのに気付いて、はたとして立ち止まった。稲澤さん、稲澤さん、と私を呼んでいる。

「待ってた。絶対に来るから迎えに行けって命令されてさ。乗って」

「そんな――嘘でしょう」

 自転車に跨った史郎くんは白い歯を見せて笑った。

「嘘じゃないからここにいる」

 彼は荷台を叩きながら、

「普段は莉々の特等席なんだけど、今日だけは勘弁してもらえるだろ。飛ばすから、しっかり掴まってて」

「分かった」

 腰かけるなり、自転車は急発進した。よっしゃ、と史郎くんは楽しげに発し、軽々とペダルを踏み込んだ。さすがの脚力で、ぐんぐん加速する。振り落とされないのが精一杯だ。荷台を強く握りしめる。街の景色が、過去が、逡巡が、あっという間に背後へと飛び去っていく。

「ありがとう」

「俺たちのことはいいよ。体調が悪いところを、俺と莉々で共謀して無理やり引っ張ってきたって筋書きにするから、後でなんか訊かれたらそう答えて」

「私の我儘なのに」

「気にしない。いま考えるべきは合唱、いや、ぶっちゃけると鼓さんのことだけでいいと思うよ。悪いとは思ったけど、実は俺たちも聞いたんだ」

 息を洩らした。それから史郎くんの大きな背中に向け、

「ひま本人から?」

「そうだね。ただ、話すように促したのは園山さんだ。最初に鼓さんの異変に気付いた、というより、稲澤さんの欠席と関連付けて考えたのが彼女だった。で、話を聞いた俺たちは勝手に作戦を開始したってわけ。関守にばれたら大目玉だな」

「みらいが、ひまに?」

「なんで園山さんだったのかは、俺には分からない。詳しい事情は知らないし、想像で勝手なことは言いたくない。でもふたりのことを熟考した末の行動だったんじゃないかと。俺はそう信じたい」

 自転車がカーブを描く。周囲の車と変わらない速度、というのは大袈裟だが、それでも普通のシティサイクルとは思えない安定感と滑らかさで、私たちは走りつづけた。

「このペースで行けば、どうにかなるかな。死んでも間に合わせるけどな」

「ごめん、もっと早く決心してれば」

「間に合いさえすればいいんだよ。ぎりぎりだろうが滑り込みだろうが、連れていければ莉々に顔向けできる。あいつが信じたとおり、稲澤さんは出てきてくれた。あとは俺が期待に応えるだけだ」

 莉々、と史郎くんが祈るように発する。彼を突き動かしているのもまた、恋心なのだと悟った。いつでも冷静な目を保ち、現実的な解決を模索してきた彼が、こんなにも無謀で、出鱈目で、やけっぱちの作戦に身を投じている理由。徳永莉々が、楢本史郎を信じているから。

「ひまは、今どうしてるかな。泣いてる? それとも――」

 震わせた私の声を、史郎くんの太い、そして優しい笑い声が掻き消した。

「まだ直線距離で数キロの場所にいて、稲澤さんを待ってる。もうすぐ会えるよ」

 市民ホール前の広場を突っ切った。導かれて建物に入る。ロビーを経由し、廊下を歩きながら、史郎くんは腕時計をちらりと確認し、

「もう控室かもな。急ごう」

 地下へと続く階段を下りた。赤い絨毯の敷かれた廊下に至る。天井には私たちを誘導するかのように、ぽつり、ぽつりと灯りが燈されていたが、光量はたいしたことがなく、なんだか洞窟の中を進んでいるようである。

「こっちだ」

 行き当たったドアを開けたが、中はもぬけの殻だった。一瞬、史郎くんは呆然としたが、すぐさま踵を返して、

「ステージだ。追いつこう」

 走り出す。何度か角を曲がると、整列して歩む集団の背中が目に飛び込んできた。最後尾のひとりが振り返った。和久井さん――一年二組のクラスメイトだ。

「嘘、稲澤さん?」

 全体がいっせいに停止した。小さなどよめきが漣のように起こった。史郎くんが両手を挙げて全員を静まらせ、

「半ば強引にだけど、連れてきた。弾いてもらえる。定位置に入れてあげてくれ」

 莉々が前のほうから顔を覗かせたかと思うと、列を離れてこちらに歩み寄ってきた。彼女はなにも言わずに私の肩を叩き、半泣き顔になり、それから気丈そうな笑みを作った。私は頷き、

「大丈夫」

 時間だよ、と先頭から声がかかる。莉々が足早にもとの場所へと戻っていき、私はみんなに頭を下げながら列に混じった。舞台袖へと行進する。足許がふわふわとして夢うつつの、緊張したとき特有のあの感覚が伴いはじめた。自分を背後から見つめる自分がいるような、周囲を取り巻くいっさいが現実感を欠いたような、懐かしくも胸苦しい感覚。

 今度こそ間違わない。私は、私の信じるピアノを弾くだけだ――。

 幕が上がり、舞台が光に満ちる。やや硬い、しかし手足をしっかりと伸ばした歩き方で、指揮者が中央へと向かう。客席へと一礼し、指揮台に乗る。

「続いては一年二組、曲は『空も飛べるはず』です」

 鼓ひまわりがタクトを上げる。永遠のような一瞬の静寂。

 視線を合わせる。行こう、と目で合図した。

 大丈夫、ふたりならどこへでも行ける。私は心のうちでひまわりの名を呼び、そしてゆっくりと鍵盤へ指先を落とした。

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