第25回
帰宅の日、朝から雨が降った。今日に限って、と不満げな夏純に、滞在中はずっと晴天だったからよかったと私は言った。荷物を広げ、忘れ物がないかと最終確認していると、
「傘、持ってきてなかったよね?」
「折り畳みがある。降ってるの、東京だけでしょう?」
「大きいの貸す。おみやげを濡らさないようにね」
姉は駅まで見送りに来た。一週間、同じ部屋で寝起きしていたせいで、姉のいる生活が当たり前のようになっていた。明日からはもういないのだ。ホームに向かう直前、
「お盆に帰ってくるんだよね」
「そのつもり。気が変わらなければね」
「ちゃんと帰ってこないと、お父さんもお母さんもがっかりするよ」
「淋しがるかな」
「淋しがるに決まってるでしょ。お盆ね」
「夏凛は淋しい?」
唇を開きかけたとき、夏純が例によって飄々たる口調で、
「ちなみに私は明日から彼氏が来るから、ぜんぜん淋しくない」
「そうですか。お幸せに」
ICカードを改札機に押し付ける。振り返るまいと思ったがつい振り返ってしまった。夏純はまだ向こう側に立っていた。人混みに紛れてしまう前、彼女は小さく手を振りながら、
「夏凛も」
席に座り、到着時刻を母に知らせた。お姉ちゃんは相変わらずだった、と追加で書き送ると、安心しました、と返事が来た。私はスマートフォンを仕舞い、借りた傘を体の近くに引き寄せなおした。それからは窓の外を流れ落ちる水滴を、いつまでも眺めていた――。
家に着いてから、東京土産を渡したい、といつもの三人に連絡を入れた。史郎くんは柔道の大会で遠征の真っ最中、少し遅れて返事を寄越したひまわりは夏風邪とのことだった。ひとまず莉々とだけ約束を取り付ける。日持ちするお菓子にしておいたのが幸いだった。
「夏凛のお姉ちゃんか。どんな人?」
「掴みどころのない性格、かな。冗談なのか本気なのかよく分からない言動ばっかりする」
エピソードのいくつかを披露すると莉々はけらけらと笑い、より掘り下げて聞きたがった。話しはじめると止まらなくなった。ピアニスト・稲澤夏純の物語でなくていい、あくまで自分の姉の話――美点と欠点と平凡な点が混在した人間の話をすればいいのだと思うと、胸がすっと晴れやかになっていた。誰もが天才の逸話を求めているわけではないことに、私はようやく気づきはじめていた。
「まとめると、なんだかんだ言って嫌いじゃない。むしろ好き。でしょ?」
「腹が立つことはあるけどね。お姉ちゃんのことは、確かに好きだよ」
口にしてみると簡単だった。腹が立つことはある。嫉妬もする。ピアノの腕前は天才的で、悔しいことにビジュアルも私よりずっと上だが、それでも夏純は私にはなれない。
なんだかんだと言って、私は姉を好きでいる。友人たちのおかげでそれに気付けた。
数日後、遠征先から史郎くんが戻ってきた。結果は上々だったようだ。その日は莉々の家に集まって、特撮が好きだという妹さん、桃ちゃんにも会わせてもらった。それこそドラマかアニメにでも登場しそうな屈強な体つきをした史郎くんに、彼女は大興奮だった。彼がヒーローの変身ポーズを完璧に再現して見せるたびに喜んで、莉々とよく似た明るい声で笑っていた。お姉の彼氏最高、と連呼していた。
夕方ごろになって、桃ちゃんは莉々の部屋のテレビを点けた。自分のとこで観ろ、と莉々は不満げな顔をしてみせたが、追い出す気がないのは明らかだった。史郎くんも妙に恭しく画面に向き直った。アニメのオープニング映像が流れる。彼の解説によると、古いアメコミを原案とし、現代風に再構成した作品、とのことだった。
「ああいうの、なんていうの? 鎧みたいな」
「パワードスーツのこと? お姉、それくらい分かれ」
「相棒はロボなんだね。あんまり強くなさそうだけど」
「いざってときは頼りになるんだよ。それに可愛いじゃん」
「原作だともっと厳ついんだけどな。設定もキャラデザもがらっと変えられてるんだよ。原作だとヒーローが悪と戦うのが主眼なんだけど、アニメ版は個性と協調の話かな。恋愛要素の扱い方も違って、こっちだと人間の主人公とロボットの愛情に近い友情、みたいになってる」
「はあ。そういう改変、どう?」
莉々に問われた桃ちゃんは深く頷いて、
「私はいいと思う。だってこの展開だったら好きになるもん。ロボットでもなんでも」
「そういうもん?」
「だから一話から観なって。好きになった相手がロボットだったってだけじゃん。普通の恋愛じゃないかもしんないけどさ、だから? としか思わない。私はこのコンビが大好きだし、幸せになってほしい」
莉々はつぶやくように、
「桃は恋愛ものに興味ないのかと思ってた」
「興味ないわけじゃないよ。友達とそういう話するときもあるし、お洒落も好きだし、かっこいい人のことはかっこいいって思う。ただ恋愛の形はそれぞれだなあって」
「私さ、その定観に至ったのがわりと最近なんだよね」
「それは特撮を観ないからだ」
そうなの? と莉々は史郎くんを振り返った。彼は重々しく同調して、
「正しい。俺は人生における重要なことのほとんどをヒーローから学んだ」
「学べ、お姉」
救いを求めるような視線がこちらに向けられた。確かに私は、特撮にもヒーローにも明るくない。しかし画面の中で展開される物語に揺さぶられる面はあった。今日初めて知ったはずのふたりから目が離せなかったのである――不思議な、しかし特別な関係を取り結ぶ、人間とロボットから。
「あの――私、みんなに話したいことが」
「なに? 改まって」
「大事なこと」
あの、と桃ちゃんが私を見て、
「みんな、に私は含まれますか」
「含まれないよ、馬鹿。外に出てろ」
「桃ちゃんもいていいよ。話の意味はよく分からないかもしれないけど、そういうこともあるんだなって思ってもらえたら」
ずっと考えてきたことだった。姉に受け入れてもらえたという事実が、私を後押ししていた。古生物で始まった恋について、ロボットをきっかけに話す。悪くないという気がした。
「学校では普段どおりにしてるから、知らなかったと思うけど――」
「ひまちゃんとのこと?」
言葉を失った。繰り返しシミュレートしてきたはずの科白が飛び去り、頭が空白になった。
「気付いてたの?」
莉々の頬に薄らと赤みが差した。史郎くんの表情はあまり変わらなかったが、目だけでそうだと頷いているようだった。桃ちゃんだけがぽかんとしていた。
「私はなんとなくね。この朴念仁も珍しく『稲澤さんと鼓さん、なんか雰囲気変わった?』とか訊いてきて」
「お姉ちゃんにも言われたんだよ。そんなにあからさまかな」
「雰囲気の違いは感じてる人もいるだろうけど、ひまちゃんが原因って気付いてはいないと思うよ。たぶんね」
史郎くんが付け加えるように、穏やかな調子で、
「彼氏できたのかなって訊かれたことは何回かあるよ。稲澤さんに関しても、鼓さんに関しても。さあ、知らないとしか言わなかったけどね」
「私の中で決定的だったのは、園山の話をしたときのひまちゃんのリアクション。あんなひまちゃん初めて見たからさ、どうしたのかなって。最初は単に怒ってるだけなのかと思ったんだけど、そういうんじゃなさそうだし。で、もしかしたらって三人はって考えたら――」
莉々があえて曖昧にしたのであろう言葉を、桃ちゃんが遮って、
「つまりこう? ひまちゃんさんは夏凛さんが好き。園山さんも夏凛さんが好き。お姉が知らないで園山さんの話をしたから、ひまちゃんさんは動揺した。で、お姉はそこで初めて、三人の関係に気付いた」
「簡単に言えばね。ていうかあんた、順応が早くない?」
「だって想像できるもん。お姉、ひどいやつじゃん」
「言われなくても反省してるよ。でもそうだって、なかなか思い至らなかった」
「普通、すぐには思い至らないよ」
と私。莉々は微笑して、
「だけどひまちゃん、少ししたらまた明るくなって、ああ上手くいったんだなって。それからはずっと――いい関係でいるんでしょう?」
「うん」
「安心した。話してくれてありがとうね」
頬をほころばせたその表情を目の当たりにしただけで、あれこれ説明を連ねる気が失せてしまった。たまたま好きになった相手が同性だった? もともとそうした志向?
どちらでもいい。生じた感情がすべてだと、受け入れるほかはないのだ。
「私ね、東京でひまにプレゼント買ってきたんだ」
へえ、と徳永姉妹が同時に反応する。小振りなネックレスにしたのだと話すと、ふたりはますます声を華やがせた。どう渡されるのが嬉しいか、とふたりで語り合いはじめた。いくつかのシチュエーションを挙げてから、桃ちゃんがふと、
「お姉、そういうふうにしてもらったの?」
「なわけないでしょう。理想を語ってるだけ。うちらは毎回、なにがいいかまったく分からないから一緒に行ってくれ、のパターンだよ」
「それはそれで間違いなくていいと思うけどね。でも夏凛さんはひまちゃんさんのことが分かってる感じなんですよね」
問われると自信がなくなってきた。私は正直に、
「派手なやつじゃないし、違和感なく取り入れてもらえるんじゃないかって気はするんだけど――どうかなあ」
「絶対に大丈夫だよ。ひまちゃん、喜ぶって」
私はそれからもしばらく、徳永姉妹の議論に耳を傾けていた。傍らで控えめに頷いているばかりの史郎くんに意見が求められる一幕もあった。まったく奇をてらうことのない彼の提案もまた、私の心を朗らかにした。友人たちは私たちを理解し、祝福してくれる。それが本当に嬉しく、幸福で、私は三人にお礼を言いながら涙してしまいそうになった。
帰り道、スマートフォンに連絡が入った。ひまわりからで、風邪が治ったとあった。お姉さんとの話を聞きたい、東京の化石スポットのことも、とメッセージが追加される。言いたいことは無数にもあったが、すぐに思い浮かんだ言葉だけを短く書き送った。
〈会いたい〉
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